北海道博物館で9月5日から11月8日までの予定で開催されている『夷酋烈像(いしゅうれつぞう)』を観てきました。副題は『蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界』で、アイヌ人の姿を描いた絵を中心に、それを模写した人たちや絵画文化、当時の衣装や文物などに関心の輪を広げています。
そもそもこの夷酋烈像が何かというと、1789年(奇しくもフランス革命と同じ年)に起こったクナシリ島と道東地域でのアイヌ人の反乱「クナシリ・メナシの乱」を治めるのに功があったアイヌ人長老達のうち12人の肖像画を連作で描いたもの。
原版はそれほど大きなものではなく、30センチ×40センチほどの色紙より一回り大きいくらいの紙に、アイヌの長老達の姿が実に緻密に描かれています。
作者はクナシリ・メナシの乱の鎮圧にも参加し後に松前藩家老にもなった蠣崎波響(かきざきはきょう)で、乱の翌年の寛政二(1790)年に描いたものです。今はフランスのブザンソン美術館に所蔵されているもので、今回はそれをお借りして展示されているものです。
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クナシリ・メナシの反乱は蝦夷地経営を任されている松前藩にとっては信用を失いかねない大失態でした。
そもそも問題を起こした飛騨屋は、初代久兵衛が1702年に松前に渡り山林開拓を始めたもので、初代久兵衛は合理的で進歩的な経営を行い、労働者から強権的に利益をむさぼるような悪辣な経営ではありませんでした。
しかし後年、安永三(1774)年に松前藩への貸し金を放棄する代わりにクナシリ、アッケシ、キイタップなどの場所請負の権利を得たものの、この時にクナシリへ派遣された交易船は地元アイヌの荷物を奪うなどの乱暴のために目的を果たせず、現地との関係を上手く築けない期間が続き、ようやく漁業を始めたのは騒動の起きる前年の天明八(1788)年でした。
そしてこのときの最前線の現場の者たちは性質が良くなくて、「働かないと毒殺するぞ」などとしょっちゅうアイヌの人たちを脅すような言動を発していました。そこへ地元アイヌの妻が相次いで死んだときに「これは毒殺されたのではないか」という疑心暗鬼が一気に膨らみ、そのため普段から不満をためていた仲間が増えて狼藉に及んだ、というのがクナシリ・メナシの乱の真相です。
この乱に対する松前藩の処理は賢明なもので、和人を殺したアイヌは厳正に処罰する一方、単に仲間に加わっただけのものには咎めをしないという公正さを保ち、幕府も松前藩への処罰を軽いものとしましたが、この間、松前藩の言い分を夷酋烈像を持参して説明して歩いたのが柿崎波響でした。
彼の夷酋烈像は江戸や京都でも話題になり、時の光格天皇の叡覧を仰ぐことにもなりました。そしてその過程でつきあいのある大名に貸すことで多くの模写が作られることになりました。
柿崎波響の緻密な画風は、清の沈南蘋(ちん なんびん)を祖とする「南蘋派(なんびんは)」という流れを汲んだもので、当時のひとつの流行となっていた画風だったんだそうですよ。
現場の管理不行き届きが乱を招き、それを鎮圧して改めてアイヌとの関係を構築しようとする過程で、松前藩の柿崎波響が当時のアイヌの長老の姿や習俗を当時の流行の画風で絵にし、それが今では北海道ゆかりの最も優れた歴史絵の一つになっているというのは面白いですね。
ちなみに、夷酋烈像の中の長老達がまとっている衣装の多くは、樺太アイヌ経由で大陸の山丹人たちからもたらされたものが描かれています。この時代はもう大陸や島を渡った交易が盛んだったことがよくわかります。
北海道博物館の「夷酋烈像」展、ぜひ観て頂いて、18世紀から19世紀初頭の蝦夷地とロシア、アイヌの複雑な関係に関心をもっていただきたいものです。