サハリン旅行の二日目。ツアー参加者一行は午前中の市内観光を午後に回し、午前はフリーにしたのですが、私たち夫婦は別動隊と合流して遠方まで足を延ばしました。
別動隊というのは全く同じ日程の三泊四日でサハリン州を視察している稚内港利用促進協議会の一行。私がこちらのツアーに参加を申し込んでから、こちらもサハリン州を回るというので、サハリン事情やサハリンでのビジネス事情に詳しい人たちと一緒の方がより深くサハリンを理解できるだろうということで、こちらと行動をともにできるようお願いをして了解を得ていたのです。
港利用促進協議会の方は、移動に現地でパートナーとして長くつきあいのあるロシア企業の方にバスを出してもらいこれで州内を移動しました。
今日の午前はユジノサハリンスクでは動きが取れないだろうということでサハリン島の西側のネベリスク(旧本斗)とホルムスク(旧真岡)を巡るロングドライブの一日。
ユジノサハリンスクからネベリスクまでの途中は峠を越えないといけないのですが、都市間道路なのに途中の15kmが未舗装道路。対向車とすれ違うと前が全く見えない煙幕状態はロシア名物だそうで、舗装の部分にたどり着いたときには車内から歓声があがり、「日本にいると舗装のありがたみが分からなくなるね(笑)」という声も。
ネベリスク市は人口一万人足らずの小さな町で1972年に稚内市と友好都市になり、稚内とは縁の深いところ。市内には稚内通りと名付けられた道路も走っています。
着いた時にはちょうどネベリスクでも戦勝記念式典の最中だったようでちょっと渋滞に巻き込まれましたが、脇道を抜けて移動に成功。
かつて市役所だった建物が2007年の大地震でかなり傷んだことで、市役所を向かいの建物に移して元の市役所は博物館になっていました。カラフトアイヌの人たちの文化から日本統治時代の文化、ロシア統治時代を経て現代の稚内との友好交流などの展示があって興味深く見て回れます。
またこちらには1983年に起こった大韓航空機撃墜事件の慰霊の碑もありました。宗教的バックグラウンドがよくわからないデザインでちょっと不思議な感じでした。
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続いては北方面に車を走らせてホルムスクへ移動。途中にはかつての日本人が作った橋が二か所でいまだに使われていて、いい加減にして架け替えればよいのにと思います。
ホルムスクは人口3万弱の港町で、実は釧路市と姉妹都市になっています。釧路時代にはとうとう縁がありませんでしたがこういう形で訪ねることができるとは不思議なものです。
ここホルムスクにはかつての王子製紙の工場があって戦後はロシアでも使っていましたが火事を出して今では全くの廃墟になっています。この製紙工場で使われた発電所はわりと最近まで使われていたのだそうでまったく物持ちが良い国です。
ホルムスクでもネベリスクでも海を見ているとぼろぼろに朽ち果てる直前の防波堤が見えます。実はこれも戦前に日本が作った防波堤で、ロシアにはそれを修復する技術もなくてそのまま使われているのだそう。もうこうなると物持ちのレベルではありません。
ホルムスクの港には海岸で良く見かけるテトラポッドが置かれていましたが、じつはこれは中国製のパクリ製品なんだそう。テトラポッドの形状は国際特許が取られていて簡単に似たような形のものは作れないのですが、そこはお国柄で大体の形さえわかれば中国に鋼製の型を作らせてテトラポッドも作ってしまうのだそう。
これが日本人の常識にはないロシアという国と理解しなくてはならないようです。
今日の視察の最後はホルムスクからユジノへ戻る途中の熊笹峠。ここは終戦時に進行してきたロシア軍と日本軍との間で激戦が展開された場所でここでの最後の抵抗が、ロシアに北海道の占領の既成事実化を断念させたとも言われています。
ここでもロシア側の戦勝記念式典の跡が伺えましたが、いずれにしても平和のありがたさに感謝し、これが続くように努力しなくてはならないものだという思いを強く持ちました。