北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

豊かな十勝を更別村で味わい尽くした"2days"

2018-06-10 23:55:55 | Weblog

 怒涛の「フライフィッシング十勝2days」の旅のいよいよ最終日。

 地元更別村の美味しい焼き立てパンで朝食を取って、いよいよ実際に川で魚を相手にする実技練習です。

 我々夫婦は多少自分たちだけで行動できるというので、超ベテランの講師と地元ガイドのタク君と四人で行動。

 前日校長から言われた「釣ろう、釣ろうでは釣れない。会えたらいいな、という気持ちで行かなくちゃダメ」という言葉を心に刻んで、川へと入って行きます。

 少し歩いたところの護岸ブロック沿いに良い深みがあって、私はまずそこで15センチと23センチほどのニジマスが釣れて、いや「ニジマスに会えて」今日の目的は果たしました。

 妻も早々に小さなヤマベとニジマスを釣って一安心。

 この川は上流へと移動しているとときどきドボンと深いたまりもあって、そのあたりからはかなり大きな魚がバシッとライズする姿も見られました。

 狙ってみましたが、フライに魚が食いついたところでバレて引き分け。勝負はお預けです。


    ◆


 お昼は札内川の河原で川を眺めながらお弁当を食べ、午後はいよいよ札内川本流での大物狙い。

 我々は上流部で本流を泳ぐニジマスを狙いました。

 ガイドのタク君は妻のサポートについてもらって下流へ、私は大きなよどみを狙いに上流へと別れましたがここで明暗が分かれます。

 妻の方にはタク君の指導で、「あそこを狙ってみましょう」というところから結構大きなニジマスが出て、何匹かはかかったところまで行ったのだそう。

 最終的にはバレてしまって一匹も釣り上げることは出来なかったものの、大いに楽しめたそうですよ。


 一方私の方は、前日の「謙虚さを胸に」という教えはとうに吹っ飛んでいて、「午前がこのくらいの調子なら、いよいよ午後には…」と期待に胸を膨らませます。

 これではポイントを狙うラインにも殺気がみなぎっていたようで、一匹も魚が姿を見せてくれませんでした。謙虚さが足りなかったか…。

      ◆

 さてこの日は、釣りが初めて~2,3回目という人たちは別な川に入って、講師陣も「何とか魚を釣るという体験をさせたい」と相当に張りました。

 東京から来たT君は、札内川の大きな川で一人放っておかれて無心でラインを投じていましたが、「もう時間だから上がりますよ」「分かりました、じゃあ最後の一投にします」というそのキャストにニジマスがかかりました。

 周りのサポートがあわてて走って、ネットを片手に魚の回収に成功。釣った本人は「うわ―!最後で釣れた!」と大興奮。

 やはり可愛そうになった神様が最後に魚に会わせてくれたに違いありません。

 実は今回が全くの初めての釣りという女性がいて、最後の最後にその方だけが釣れないで時間が終わろうとしたその最後の瞬間に魚がかかって釣れたという事があったのだそう。

 なるほど、神様はお見通しですね。私とは大違いです。

 最後に今回のスクールのベースキャンプとなった更別村アクティビティセンター「ANDOOR(アンドア)」で閉講式。

 一通り感動と感想を述べましたが、参加者全員が魚を自分で釣り上げたという事で、現地の自然豊かな川、天候、そして地元を良く知る講師陣たちの情熱と努力が重なり合って、素晴らしい二日間になりました。

 大きな哲学から、キャストの癖の矯正、タイイングの細かなコツ、そして素晴らしい川での実践釣行まで、初めての人は初めてなりの新鮮な驚きと、何年やっても「そうだったのか」というより本物に近づく喜びにあふれた時間となりました。

 十勝の豊かさにはこういう一面もあるのです。

 

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合わないときは何をやってもダメ ~ マッチ・ザ・ハッチ

2018-06-09 23:55:55 | Weblog

 

 今日と明日で参加するフライフィッシングスクールは、ただ魚を釣る技術を学ぶスクールではありません。

 著名なフライフィッシャーが結構なお値段でファンを集めるような企画もあるなかで、こちらのスクールは、まあ仲間内と言うこともありますが、『フライフィッシングについて哲学から技術までを学び、人生を豊かにしよう』というコンセプトのスクール。

 開催地は更別村にあるANDOORという施設で、都会や他の地域の人たちが更別を拠点に十勝、北海道を知り楽しんでもらうようなことになればなおうれしい、という理想を掲げいます。

 今回の受講生は、8人でうち女性が6名、男性が私を含めて2名。フライフィッシングは全く初めてという人もいるし、私を含めて少しはやったことがあるという程度の人までが集まりました。

 初めに、このスクールの校長である辺境カメラマンこと残間正之さんから『フライフィッシングで世界を歩く』という講話がありました。

 残間さん曰く、「世界を旅する時に、フライロッドをコンパクトに持ち運ぶロッドケースを片手に、宿泊先でパブにでも行ってごらんなさい。ロッドケースに気が付いた周りの客の中には必ず『なんだ、お前はフライフィッシングをするのか?』と話しかけてくるおやじが必ずいます。そういう人と釣り談義をして、『気に入った、今から俺の家へ来い』と言われることはしょっちゅうあるし、そういうおやじについて行ってひどい目にあうことはまずない」と。

 さらに「釣りというのは、釣りをしている時間を楽しむのであって、釣果を競ったりするものではない。大体、登山で山頂へ登れるときは自分が頑張ったというよりも『山が登ってきてもいいよ』と言ってくれたようなもので、釣りも釣れるときは魚が『仕方がない、かかってやるか』というくらいの気持ちを感じるものです。
 『なんとしても釣ってやる』と殺気を放っているようなときはまず釣れないもの。そう理解することがフライフィッシングの哲学なんです」とも。

 釣り人は哲学者になるのです。


    ◆


 講話ののち、早速素人ばかりなのにも関わらず、タイイングというフライフィッシングに使うフライ(=疑似餌)を巻く作業体験。

 一人に一人ずつ講師がついて、マンツーマンで丁寧にフライ作りを体験しました。

 

 昼食の後は、実際にフライロッドをもって、キャストの練習をした後に、雨の中、魚のいる川の風景をみようと、近くの農業用水路のたまりを見学に。

 すると気温もそれほど高くないにも拘わらず、魚が水面近くの虫を食べる"ライズ"が見られたではありませんか。

 そこここで、魚が水面に姿を現していて、釣りも川を見るのも初めてという人たちは大喜び。

 そこで優秀なコーチを代表して置戸町から来たFさんが、下流に入って蒸留めがけてフライをキャストし始めました。

 かなりキャストを繰り返したのですが、魚たちはおそれをなしたか食いつくどころか姿を現さなくなりました。

「最後の手段」として、今この瞬間空中を飛んでいる虫に似せた小さなフライに替えてキャストをしてみると、なんと一発でセンチクラスのニジマスがフライに食いついてきて、魚を釣り上げました。

 さすがはFコーチ!とばかりに、じっと見守っていた我々ギャラリーからは、ヤンヤの拍手が送られたことは言うまでもありません。

 残間校長からは「あれがマッチ・ザ・ハッチと言って、今魚がまさに食べている餌の虫に似ているフライを見つけてそれをつけると魚がかかるんです」とコーチのパフォーマンスを褒めてくれました。

 受講者一同大いに盛り上がって、夕食会の後も「もう少しフライを巻きたい」と自主練習を申し出て、夜遅くまで明日のためのフライを巻いたのでありました。

 明日は少し気温も上がって、楽しい釣りの場面が見られるのではないかと期待も膨らみます。

 今年の受講生はやる気十分です。

 

 

 

 

 

 

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フライフィッシングスクールに参加してきます

2018-06-08 23:45:45 | Weblog

 

 今日はお休みをいただいて、十勝方面へ移動。

 明日から、友人が主催するフライフィッシングスクールに参加するのです。

 途中の川で魚の様子を見ながら移動ですが、山脈を越えたら小さな川も2年前の災害で傷めつけられていて心が痛みます。

 これが元の自然に戻るのには何年かかるのやら。


 明日からは更別村のANDOORという施設を拠点に厳しいカリキュラムが待っています。

 魚釣りをするのに、水中昆虫についての座学から入るのです。

 夜に宿泊のANDOORに着いて、講師陣と前夜祭で盛り上がりましたが、話をしているうちに、「あれ?小松さんはソローの『森の生活』を読んでいないの?」言われました。
的な
「『森の生活』って何ですか?」
「これはフライフィッシングをする者にとっては自然との付き合い方を学ぶバイブル的な本ですよ。釣りを数年やっているとはいえ、その本を読んでいないのではまだまだですよ(笑)」

 キビシー!

 明日はフライフィッシングを基礎の基礎から膝詰めで学ばせてもらいます。

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ガスコンロがつかない… ~ 日常の当たり前を考える

2018-06-07 23:58:58 | Weblog

 

 昨年買い換えた我が家のガスコンロ。

 最新式で三つのコンロに安全センサーがついていて、とろ火の消し忘れや地震時の自動消火機能などもあって、安心して使っていたところ、突然妻が「あれ?火がつかない」と言い出しました。

「どうしたの?」と見てみると、最近のガスコンロは症状を声と表示で教えてくれました。

「デンチヲコウカンシテクダサイ…」

「電池?なに?どこに入っているんだ?」としばしドタバタ。

 ようやく電池の設置場所を探り当てて、「単三なら買い置きがあるけど、電池のタイプは何だ?」と開けてみると、「た、単一…」

「単一じゃあ買い置きがないね」
「お酒を飲んじゃったから車もつかえないし…」

 電池を買いに行くのも遠いと大変だなあ、と思っていると、二人同時に、「そうだ、コンビニ!」

 つい最近、我が家から100mほどの本通りに面した、以前はガソリンスタンドだった土地にコンビニが新しくできたのでした。

 そこでいいや、とひとっ走り行くと、欲しい単一電池がちゃんと売っていて事なきを得ました。

 近くにコンビニのあるありがたみ、遅くまで空いているお店があることのありがたみがよくわかりました。


 それとともに、「突然電池が切れました」という唐突なしらせも最近は珍しいとも思いました。

 スマホならば「電池残量はあと○○%」というように残量が表示されますし、ウォシュレットトイレなどのリモコンも「電池残量が少なくなっています」といった注意表示が出る生活に慣れ過ぎていたのかもしれません。

 これとても、かゆいところに手が届くよりよい生活サービスの一つだったとは。

 日常生活のいろんな「あたりまえ」について考えさせられました。

 

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せいぜい「なんちゃって」で十分じゃないですか

2018-06-06 22:59:40 | Weblog

 あるネットの記事に、「幸福の4要素」という記述がありました。

『大金持ちになるより重要な"幸福の4要素"  http://president.jp/articles/-/25309

 曰く、ローラ・ナッシュとハワード・スティーブンソンの調査結果で、幸福の測定基準には以下の4つの要素が必須であることが明らかになった、というのです。

 その4要素とは、

1.幸福感 人生から喜びと満足感を得ていること
2.達成感 何らかの業績でほかに抜きんでていること
3.存在意義 身近な人びとに、ポジティブな影響を及ぼしていること
4.育成 自分の価値観や業績によって、誰かの未来の成功を助けていること

 で、これらを「ビッグ・フォー」(幸福の4要素)と呼ぶ。

 ナッシュとスティーブンソンはまた、これらビッグ・フォーにつながる行動も提示した。

1.幸福感=楽しむ
2.達成感=目標を達成する
3.存在意義=他者の役に立つ
4.育成=伝える

 これらはどれも大切で、このどれかを得るために、他をないがしろにすべきではないと言います。

 わが身に照らすとどうでしょう?

 「何かを楽しむ」というのには、「何でも楽しいと思えば楽しい」という考え方もありますが、主体的な趣味などを楽しもうと思えば、一定の修練が必要になります。

 何かの一番になろうと思うとこれはまた大変ですが、そこまで大変な思いをすることはありません。しかし、一定程度以上の水準にならないと楽しめないのもまた事実です。

 私などは「なんちゃって蕎麦打ち」だし「なんちゃって釣り師」だし、「なんちゃってキャンパー」で、どれも一流の人たちから見たら「まだまだですね(笑)」と笑われるくらいのレベルです。

 それでも、蕎麦打ちはとりあえず美味しいそば粉を見つけて美味しいそばを食べられる、くらいの腕にはなっているし、釣りは、妻を連れて釣れそうな川へ入って、そこそこ魚に遊んでもらえるくらいにはなった。海へ行けば一応一匹くらいは食べる魚が釣れるようになりました。

 その程度でもう十分だし、そんな風に「他の人を頼らずに自分だけで楽しめるくらいになる」というのが2番の達成のレベルなのではないか、と思っています。

 3番のポジティブな影響を与えるというのは、せいぜい機嫌を良くしていて、一緒にいていやな思いをさせないくらいで良いのではないか、と思いますし、4番の伝えるという事は、せいぜい誰が読んでいるかわからないけれど、ブログでも書いていようか、と思うくらい。

 もちろん、仕事や人生上の試練で、「ここだけは死に物狂いでやらねばならぬ」という瞬間もあるでしょうけれど、自分が幸せでいようと思えば、まあ歯を食いしばって必死な思いでやり続けなくても、半分は心の持ちよう一つでそれに近づけそうです。

 ただ一つだけ。どれも「自分から主体的にその方向に向かわないといけない」というのは共通のようです。

 誰かに助けてもらって始めても、できるだけ独立できるようにそこだけは頑張ると良い。

 そうやって顧みると、これまでいろいろと教えてくれた人生の師匠たちに感謝なのです。

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鈍感でいいのに

2018-06-05 23:55:56 | Weblog

 

 そろそろシラカバ花粉は終わったはずなのですが、鼻炎がなかなか収束しません。

 私自身は、以前アレルギーチェックをしたところ、スギ、シラカバはもちろん、ハウスダストからイネ科まで広範なアレルギー反応があるという結果が出ていました。

 ただ、目のかゆみとくしゃみ鼻水まで引き起こすのはスギ、シラカバくらいでした。

 ところがこの時期もまだグスグスいっているという事は、シラカバ以外のアレルゲンにも反応し始めたのかもしれません。ちょっとやっかいだな。

 いい加減、年齢も上がってきたものですから、体の反応も鈍感になってくれればよいものを、今頃敏感になってどうするのか。

 
 若いときはいろいろな出来事に、すぐに憤ったり賛同したりしていたものですが、そうした過敏な反応はだんだん落ち着きが出てきました。

 歳を取って人間が丸くなるというか、刺激に対して過敏に反応せず、「まあ深呼吸をひとつしてから考えよう」という対応ができるようになりましたが、体のアレルギー反応はそうはいかないようです。

 もっと鈍感でいいのですがねえ。

 

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釣りに行くから釣れないことがある

2018-06-04 23:28:45 | Weblog

 週末の土日は江差へ行きましたが、その途中の渓流に入って川釣りも楽しみました。

 土曜日は、ニセコの川で釣り。ここは、前日に友人二人が入って、60センチオーバーのニジマスを何本も釣り上げたというのを自慢していたところ。

「友人と行ったけれど、すぐに40センチ、次に50センチ、60センチクラスが出ました。一匹には2Xのティペット(という太めの釣り糸)を一発で切られて逃がしましたけど、相当なヤツに出会えますよ」というので、楽しみにしながら教えられたポイントへ入りました。

 ところが翌日我々が入った時には全然魚が出ません。わずかに妻に一匹30センチクラスのニジマスがかかってバレておしまい。私の竿には一匹も出てくれません。

 翌日日曜日のカレイ釣りも、波の条件が悪くて「無理することはないよね」ということで断念。海の魚にも嫌われました。

 江差からの帰りも、天気は良かったので八雲周辺の美しい渓相の川に入ってみましたが、ここもまた魚の姿が乏しくて残念。

 わずかに私の竿に20センチクラスのヤマベが一匹だけかかりましたが、(この辺りにはいそうなんだがなあ…)と思うようなところにもいないよう。

 そういえば、1㎞ほど手前の川岸に、いかにもヤマベ釣り師という風体のおじさんが川から上がっている姿を見かけました。

 昨年もそんなことがあって、ヤマベ解禁すぐの日はヤマベ釣り師がわんさか川へ入ってどんどん魚を抜いてゆくので、魚がいなくなったり恐れをなして簡単に出ないということがあるのです。

 ちょっとタイミングが悪かったかな。

 この週末は魚に嫌われました。

  でも釣りに行くから、釣れないということもあるわけ。 釣れるのも釣りですが、釣れないのもまた釣りなのです。

 まあ、きれいな川を歩いて、涼しい思いができたから良しとしますか。


 

 

 

 

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今年が最後の「落部つつじ祭り~ファイナル」

2018-06-03 23:34:32 | Weblog

 昨夜は友人と江差町内の洒落た小料理屋で夫婦同士4人で会食をしました。

 江差にしては、というと語弊がありますが、マイカやナマコなどの素材がすばらしいうえに、料理も洒落ていてとても良い時間が過ごせました。

 ところが件の友人からは、「ここは今日のために予約しておいたんですが、最近の江差は、飛び込みで入ろうとすると休んでいるお店があるんです」と言います。

「そういえば、隣のお寿司屋さんも今日はお休みでしたね」
「はい、やっぱり生の素材はお客さんが来ないと鮮度が落ちてしまうから、仕入れるのも大変なんですね、きっと」

 ちょっと寂しくなりました。

「ところで明日の釣りはどうなりますかね?」
「それが、今日の夜半くらいから風が強くなりそうで、明日はちょっと期待できない可能性が高いんです。せっかく来てもらったのですがねえ」

「そうですか、天気ばかりは仕方ありませんね」 


 結局、今日の朝は多少凪いでいたものの、やはりそこから風が強くなるかもしれないというので、出向は見合わせ。ちょっと残念なカレイ釣りとなりましたが、また次の機会もあることでしょう。


          ◆  

「釣りは残念で申し訳ないのですが、それならどこか行くようなところはありますか?実は厚沢部町の落部公園でつつじ祭りがあるのですが、それが今年が最後で、もう来年からは止めてしまうんだそうです。折角なら行ってみてはいかがでしょう?」

 それなら、ということで、今日の朝は落部のつつじ祭りを観てきました。

 この公園にはずいぶん多くのつつじが植えられていますが、かなり長い間丁寧に手入れをされてきた様子がうかがえます。

 午後の歌謡ショーには山本譲二が来る、というので朝から大勢の町民が集まっていました。

 プログラムを配っている女性に「今年で最後と聞いたのですが、どうしてなのですか?」と訊いてみたところ、「ええ、残念ですが、関係者が高齢化したというか、なかなか続けるのが難しくなったんです」という答え。

 こんなところにも、人口減少と高齢化の影が差しているようで、こんな話がこれからはいよいよ増えてくることでしょう。

 ただ、避けようがないことならば、勇気をもってスマートに整理してゆくことも一つの知恵なのかもしれません。

 いろいろな整理の仕方を学んでみるときかもしれません。
  

 

 

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カレイを釣りたくて江差へ

2018-06-02 22:31:44 | Weblog

 

 道南の江差町の友人に誘われて、カレイ釣りにやってきました。
 
 昨年はヒラメ釣りを楽しませてくれて、そのときに「来春はカレイ釣りに誘ってください」とお願いしていたのを、ようやく釣れ出したという連絡があったのでした。
 
 もっとも、ただ江差へ向かうのはもったいなくて、ニセコ周辺の渓流でフライフィッシングを楽しみながらの南下です。
 
 渓流の方は、昨日友人がその周辺へ釣りに行き、「60センチクラスのニジマスがバンバン出て興奮した」と言っていたので、期待は大。
 
 ところが実際には、狙ったところから全くは魚が出てくれなくて、大いなる当て外れに終わりました。
 
 妻が、30センチクラスのニジマスをヒットさせましたが、途中でバレてこれもランディングには至りません。
 
 水中の昆虫が羽化し始めていて、その量も半端ではない、スーパーハッチの様相でしたが、逆にその結果、食べ物に困らなかったのかもしれません。
  
 せっかく作ったセミのフライにも反応がなくて、ちょっとがっかりです。これは近いうちにリベンジをしなくては。
 
     ◆

 さて、江差に到着して海を見ると、素人目には穏やかに見えます。
 
 ところが船を持っている友人に言わせると、「どうも明日は風が強くなる予報が出ています。駄目な確率が高いのですが、明日朝に電話します」とのこと。
 
 さて、明日は釣りになるのかなあ。ダメだったら…またいろいろ考えなくては。
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内なる動機付け、自らのやる気

2018-06-01 23:40:39 | Weblog

 

 物事を成し遂げるうえで大事なことはモチベーション=動機づけ・やる気、と言われます。

 特に最近は、イントリンシック・モチベーションという、「内なるやる気・もともと備わっているやる気」というものを発揮させる教育が注目されています。

 これと反対なのが、宿題や課題を与えられて、ひたすら叱咤されて鍛えられ、その結果成長するというやり方です。

 今話題の日大アメフト部の中の鍛えられ方ってそういうことなのでしょう。

 いや、いわゆる大学でも高校でも、運動部に入って一歳でも上の先輩であれば絶対的に従うような集団文化に身を置けば、そんな伝統的教育で鍛えられるのがごく当たり前の出来事。
 人はこれを「体育会系」と呼びます。

 一たび「体育会系」とレッテルを貼られたら、もう先輩や指導者のいう事には盲目的に従い、文句を言うことは許されません。 

 そうやって若い集団生活を終えれば、今度は先輩後輩の序列に基づくOBとしての生活が待っています。

 一生先輩には頭が上がらないけれど、一生後輩には先輩面ができるという序列制度。そこには実力で逆転できる余地はありません。

 どこかで首をかしげても、他の皆がそうだから、集団の同調圧力に逆らうことが次第にできなくなってゆく。

 でもそれに従っていれば、就職の際は「厳しい戒律を耐え抜いて頑張った証」が得られて、とても有利になるというあたりは、もうこれが日大アメフト部に限らず、日本の社会システムになってしまっているようです。

 考えてみたら、ブラック企業などというのも、今生一筋で会社のいう事を絶対視して働き詰めになるという意味で、「体育会系」の職場であり、それもまた一定の評価があったのでしょう。

 ところがだんだんそうした価値観への反省やアンチテーゼが出てくるに至って、これまでの「体育会系」的価値観はどうなるでしょうか。

 盲目的に指導者に従うことがなければ上手くいくのでしょうか。

 教育は結果論なので、結果としてうまくいったことは認められるのでしょう。さて、自分はどんな教育を受ければ成長ができるのでしょう。


    ◆


 さて、冒頭に触れた最近話題の「イントリンシック・モチベーション」ですが、一人一人の内なるやる気を引き出させることが大事、なんてずっと昔から言葉は違えど同じようなことが言われ続けています。

 すぐに私の頭に浮かんだのは、ウィリアム・アーサー・ウォードのこんな言葉です。

    凡庸な教師はよくしゃべる
    良い教師は説明する
    優れた教師はやってみせる
    真に偉大な教師は、生徒の心に火をつける

 生徒の心に火がつけば、「やれ」と言わなくてもやるし、「もうやめろ」と言われてもやめないかもしれません。

 自分の周りに偉大な教師がいなくても、自分の心に火をつけることはできないでしょうか。

 機嫌の悪いのは自分で直さなくてはなりません。

 自分の心に火がついていなければ、自分でつけてみてはいかがでしょうか。

 偉大な教師などという人が、おいそれとみつからないときのために。

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