ギリシャとトルコとアルメニアの血が入っていて、撮影もギリシャとトルコで行われたが、「エリア・カザン自伝」では当局の介入があったりして始祖の地とはいっても歓迎されたわけではない苦労が綴られている。
(オスマン・トルコ帝国によるアルメニア人のナチスによるユダヤ人虐殺に匹敵する規模の虐殺は最近になって問題になっている)
舞台演出家として名を上げてから映画に進出し、「波止場」「エデンの東」「欲望という名の電車」などの名作を残した人だが、一方で赤狩りの時代に非米活動委員会に仲間を「売った」ことで非難され、アカデミー特別賞を授与された時も売られたエイブラハム・ポロンスキーをはじめとしたデモが押し寄せ、客席でもエド・ハリスとニック・ノルティほかが腕組みして絶対拍手などしないぞというポーズをとっていたのが中継で写っていた。
複雑な経歴と評価と共に人間の見方が複眼的でアメリカ映画に陰影とコンプレックスの表現を持ち込んだ人といえる。
主人公の貧しい青年が家を出て肉体労働者をしている時に先輩にかけられるセリフがひとつのキモになっていて、いわく「ちっこいカネとでかいカネは別のものだ。ちっこいカネは娼婦だ。男たちの間を渡り歩いて、朝になると消えている。でっかいカネはどんどん子供を産んで増える」「デカいカネを手にする方法はふたつ、盗むか、金持ちと結婚するかだ」。
で、実際主人公は金持ちの娘に気に入られて上流階級に出入りするようになるわけで、なんだかドライサーの「アメリカの悲劇」(映画化が「陽のあたる場所」)みたいでもある。
とにかくアメリカに渡ることをずっと夢見ているので、周囲に「アメリカ アメリカ」とあだ名をつけられるくらい。
結局、初志貫徹でアメリカに渡るわけだが、その船の中でも階級の違いというのは厳然としてあって(「タイタニック」みたい)、初めて陸が見えた時や自由の女神が見えた時の感激は「ゴッドファーザーPARTⅡ」のようでもあり、陸に上がった時には地面にキスするくらいだが、しかし階級はついてまわることは暗示されている。
故郷のトルコで主人公からの手紙を受け取った家族が同封された50ドルに仰天するあたり、今に至る南北問題とトルコとアメリカの微妙な関係がだぶって見える。
ハスケル・ウェクスラーの白黒撮影がドキュメンタリー的なリアリティを持つ一方でセリフが最初から英語というのは違和感を拭えない。移民した後で言葉の壁に苦しめられる感じも本来出なくてはいけないところ。
もちろん興行のことを考えたら英語にせざるを得ないのだが、
スタッフキャストの名前が文字が出るだけでなく声で読み上げられる。
出演者は知らない人ばかりで、唯一知っていたのが俳優というより俳優出身の監督として秀作「ジョーイ」を撮ったルー・アントニオだけ。
カザンは監督として成功したのちに小説も書くようになり、そのひとつ「アメリカの幻想」は自らの脚本監督で「アレンジメント 愛の旋律」として映画化したが、それはアメリカで成功した男が突然娼婦的な女に溺れて地位も家庭も投げうってしまうというアメリカへの夢に対するアンサー的な内容だった。