中継することの政治的意味というのが大きな主題で、テレビマンたち自身が収容所体験があって、裁判でアイヒマンが自分が殺した収容所のユダヤ人たちの映像(本物!)を見ていても眉一つ動かさないのを見て、こいつは怪物だと怒りを募らせ、最後に「落ちる」のがクライマックスにしている以上、いわゆる「公正中立」ではないのは良くも悪くもはっきりしている。
それに対する批評的な視点が薄い感じなのはひっかかった。
最近、ハンナ・アーレントによる「悪の凡庸さ」に対する疑義申し立てが出ていて、アーレントはアイヒマンの「演技」に騙されたのだという話を目にしたし、この映画のプロデューサー自身、シネマトゥデイのこの記事によると
“「アイヒマンとはどんな人物だったと思うか?」と野中(章弘)氏が聞くと「私個人は、法廷での彼は、普通であることを演じていたのではないかと思う」と答えたローレンス(・ボーウェン)は「イギリスで一番のホロコースト研究家デビッド・セゾラーニ(David Cesarani)に同じことを聞いたことがあります。彼は『ナチはユダヤ人を人間以下の存在だと本当に思っていた』と言っていました。”とある。
テレビマンたちが直接脅迫されたり手榴弾を持った男が乱入するなど、メディアが危険と隣り合わせであることを示す。これに対してもろに端から腰砕けになっているのが我が国のマスメディア。
映像そのものが残ってるのは毎度のことながらあちらの記録と保存に対する姿勢に圧倒されるが、フィクション映像と交錯させて編集している演出には身構えておく必要がある。
ガガーリンとアイヒマンを比較するという発想「輝ける未来」と「暗い過去」では、ガガーリンあるいはキューバ危機の方がおいしいという理屈がいかにもテレビ的。
アイヒマン裁判がテレビ放映された国に日本は入っていなかったらしい。
どこにいてもファシズムは身近にあるというのと、アイヒマンの悪がどこまで彼の個人的資質によるものかは切り離している感。
NEWSWEEK 大場正明 映画の境界線 ナチスの戦犯アイヒマンを裁く「世紀の裁判」TV放映の裏側
「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」 - 公式ホームページ
「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」 - 映画.com