昨日は、大変沢山のアクセスをいただき、またブログ村ポイントをいただき誠にありがとうございました。
とにかく20時過ぎてからの大量のアクセスに驚くばかりでした。検索ワードを見る限り、一昨日アップした「夢空間」へのアクセスが断トツ多かったように思います。もちろん、毎日日課のようにご覧いただいている方もかなり多くなってきたのではないかと推測しております。
また1週間、懐かしい写真をアップしていきたいと思いますので、引き続き宜しくお願いいたします。
さて、フィルムからのスキャニング作業に追われている日々ですが、そのお陰で次から次へとネタ被りが出てきてしまい、一向にアップネタがまとまらずに頭を痛めております。
こんな状況ですので、ある程度のメドがつくまでは「他には無いだろう」写真をアップしていくしかありません。でないと、あとでカブったネタをアップするのが非常に難しくなるのです。
そんな中で見つけたのが、私が写真を撮り始めて間もない頃の1枚です。
昭和48年頃 東北本線 蕨~西川口間にて EF57牽引 寝台急行「北星」
この写真は、小学4年生の頃に撮ったものと思われます。カメラはサクラパックといって、現在の「コニカミノルタ」の前身である「小西六」というカメラ・フィルムメーカーが発売した、単焦点・単絞りのおもちゃを発展させたようなモノでした。
小学生のときからずっと写真は持っていたのですが、劣化が激しく、EF57であること以外には何も判別できなくなっておりました。
今回、フィルムスキャナにより読み込んでみたところ、意外や意外、粒子は荒れているものの、後ろに連結されている編成が浮き彫りになったのです。※かなりの大きさにズームアップしています。
写真を見ると、後まで全車寝台で、かつA寝台が1両連結されています。機関車の次位はマニ36のようです。
当時、全車寝台の急行列車は、「北星」「新星」「天の川」「北陸2号」のみであり、「天の川」と「北陸2号」は上越線経由ですので、EF58以外の牽引は考えられません。「新星」は編成が8両と短く、上りには荷物車等は連結されません。
したがって、「北星」以外にはないという結論に至ったわけです。
その後も何度か「北星」を見たことはありましたが、全てEF58牽引のものしか見たことが無かったので、EF57が牽いていることに意外性を感じました。
そんなわけで、現在行っているスキャニングが意外な過去を掘り起こす、まるで玉手箱のような役割をしているのです。
写真を撮り始めてから35年。作業の大変さの中にも新たな楽しみを見つけ、人生最良の充実した日々を送っています・・・なんてね。
※小西六
日本では歴史のあるカメラメーカーで、フィルムも発売していました。フィルムは「サクラカラー」のブランドで発売され、「フジカラー」「コダカラー」と並んで日本の3大フィルム供給会社でした。
私が写真を撮るようになってからは、井上順のCM起用による「ジャーニーコニカ」がベストセラーになり、単体のストロボがまだ高価でなかなか手が出せない頃、コンパクトカメラに初めてストロボを内蔵した「ピッカリコニカ」が大ブレイクしたのです。
その後、一眼レフ「愛情コニカ」やコンパクトカメラでオートフォーカスを採用した「ジャスピンコニカ」が爆発的人気となりました。
現在当たり前のようにデジカメに搭載される付随機能も、すべて「コニカ」(小西六)が起源になっていると言っても過言ではないと思います。
さらに、当時12枚撮、20枚撮、36枚撮のラインナップであった35mmフィルムのうち、20枚撮フィルムを24枚撮として発売したのも「サクラカラー」(小西六)が最初でした。『4枚増えて値段は同じ!どっちが得か良~く考えてみよう!』という欽ちゃん(萩本欽一)のフレーズも大ブレイクし、富士・コダックも直ぐに追従してきたのも納得が行きました。
その後「サクラカラー」は、「SAKURA」→「Konica」→「コニカミノルタ(ミノルタと合併)」となり現在に至り、既にカメラ・フィルム業界から撤退(ソニーにカメラ部門を譲渡)してしまいました。
いや~、長ェ~うんちくだこと・・・。
とにかく20時過ぎてからの大量のアクセスに驚くばかりでした。検索ワードを見る限り、一昨日アップした「夢空間」へのアクセスが断トツ多かったように思います。もちろん、毎日日課のようにご覧いただいている方もかなり多くなってきたのではないかと推測しております。
また1週間、懐かしい写真をアップしていきたいと思いますので、引き続き宜しくお願いいたします。
さて、フィルムからのスキャニング作業に追われている日々ですが、そのお陰で次から次へとネタ被りが出てきてしまい、一向にアップネタがまとまらずに頭を痛めております。
こんな状況ですので、ある程度のメドがつくまでは「他には無いだろう」写真をアップしていくしかありません。でないと、あとでカブったネタをアップするのが非常に難しくなるのです。
そんな中で見つけたのが、私が写真を撮り始めて間もない頃の1枚です。
昭和48年頃 東北本線 蕨~西川口間にて EF57牽引 寝台急行「北星」
この写真は、小学4年生の頃に撮ったものと思われます。カメラはサクラパックといって、現在の「コニカミノルタ」の前身である「小西六」というカメラ・フィルムメーカーが発売した、単焦点・単絞りのおもちゃを発展させたようなモノでした。
小学生のときからずっと写真は持っていたのですが、劣化が激しく、EF57であること以外には何も判別できなくなっておりました。
今回、フィルムスキャナにより読み込んでみたところ、意外や意外、粒子は荒れているものの、後ろに連結されている編成が浮き彫りになったのです。※かなりの大きさにズームアップしています。
写真を見ると、後まで全車寝台で、かつA寝台が1両連結されています。機関車の次位はマニ36のようです。
当時、全車寝台の急行列車は、「北星」「新星」「天の川」「北陸2号」のみであり、「天の川」と「北陸2号」は上越線経由ですので、EF58以外の牽引は考えられません。「新星」は編成が8両と短く、上りには荷物車等は連結されません。
したがって、「北星」以外にはないという結論に至ったわけです。
その後も何度か「北星」を見たことはありましたが、全てEF58牽引のものしか見たことが無かったので、EF57が牽いていることに意外性を感じました。
そんなわけで、現在行っているスキャニングが意外な過去を掘り起こす、まるで玉手箱のような役割をしているのです。
写真を撮り始めてから35年。作業の大変さの中にも新たな楽しみを見つけ、人生最良の充実した日々を送っています・・・なんてね。
※小西六
日本では歴史のあるカメラメーカーで、フィルムも発売していました。フィルムは「サクラカラー」のブランドで発売され、「フジカラー」「コダカラー」と並んで日本の3大フィルム供給会社でした。
私が写真を撮るようになってからは、井上順のCM起用による「ジャーニーコニカ」がベストセラーになり、単体のストロボがまだ高価でなかなか手が出せない頃、コンパクトカメラに初めてストロボを内蔵した「ピッカリコニカ」が大ブレイクしたのです。
その後、一眼レフ「愛情コニカ」やコンパクトカメラでオートフォーカスを採用した「ジャスピンコニカ」が爆発的人気となりました。
現在当たり前のようにデジカメに搭載される付随機能も、すべて「コニカ」(小西六)が起源になっていると言っても過言ではないと思います。
さらに、当時12枚撮、20枚撮、36枚撮のラインナップであった35mmフィルムのうち、20枚撮フィルムを24枚撮として発売したのも「サクラカラー」(小西六)が最初でした。『4枚増えて値段は同じ!どっちが得か良~く考えてみよう!』という欽ちゃん(萩本欽一)のフレーズも大ブレイクし、富士・コダックも直ぐに追従してきたのも納得が行きました。
その後「サクラカラー」は、「SAKURA」→「Konica」→「コニカミノルタ(ミノルタと合併)」となり現在に至り、既にカメラ・フィルム業界から撤退(ソニーにカメラ部門を譲渡)してしまいました。
いや~、長ェ~うんちくだこと・・・。
サクラカラーのフィルムも使った事がありましたが、フジやコダックに比べると、赤っぽくなるっていうイメージでした。なのであまり買わなかったでしたね。
さすがにこの頃はまだ形式が解かっていませんでした。115系と165系の区別さえついてなかったと思います。
でも、夢中で撮っていた中で、このような貴重な写真が残っていたことは嬉しく思います。
しかも、デジタルの時代だから復活できたのだとも思いますし・・・良い時代になりましたね。
あの頃のプリントは各社ともクセがありましたね。フィルムの世界の進歩は凄いものがありましたが、これから廃れてしまうのでしょうか。
鉄復活した時に、ネットでEF57が宇都宮の公園で静態保存されているのを偶然発見して、懐かしさのあまり会いに行きました。
とても綺麗に保存されてて、感動しました。
私も走行写真ありましたが、その当時のカメラじゃ全部ブレブレで。
そうそう、15日は出勤日でごめんなさい・・・。
宇都宮までEF577に逢いに行ったんですか?かなり鉄分濃いですね(笑)。私は未だに行ったことがありません。でも、たった1台の実物ですからねぇ~。逢いに行ってみようかな。
15日仕事なんですか?残念ですね。楽しみにしていたんですが。
オクシナだと区間が限られているので、パニックですかね?頑張って撮ってきます。
北星はゴハチと共通運用だったのでしょうね?旧客とゴナナ、絶妙ですね。
懐かしすぎるCMですね。ジャスピンコニカは欽どこの番組中にも流していたような。また思い出したのですがいつ頃だったか東武野田線(かな?)が出て、吊り掛けサウンドが聞こえていたような気がします。いつものアナウンサーが、こんなこともわからないバカ夫婦と・・・では××と各県の方言でバカにしていたのは笑えました。
サクラは当時ピンクがかるというので私は高かったですがコダック使いました。
サクラパックは私も愛用してました。先日の「みたけ」がそれなんですが、プリントできる店が少ないんですよね。
ベンチレータの数ですか?そこまで気にしたことはありませんでした(笑)。興味を持ち出したのがもう終焉の頃だったのでEF57であるだけで十分だったんですね。
欽どこの舞台は、六本木→五本木→豊四季→と1つづつ数字を減らした地名を充ててました。池田アナウンサーでしたっけ?懐かしいですね。馬鹿夫婦・・・笑っちゃいます。
当時、フジカラーは黒い影のところが緑色になってしまい、サクラは青い空がピンクに染まったり、どうにもならないクセがありました。コダックが一番安定したいたような気がします。
が、30年過ぎた現在、ネガの退色が一番激しいのがコダックみたいで、フジは殆ど退色が見られません。サクラは写真同様、空がピンクになっているものがかなりあります。フジは特徴のあった緑発色もスキャンする限り見られないので、プリントの技術が未熟だったのでしょうね。
「みたけ」はサクラパックだったのですね。あの頃のカメラは今とは比べ物にならないくらい高額でしたので、小学生くらいの年代には持って来いのカメラでした。おもちゃみたいですけどそこそこ写りましたし。
その後、コダックでも似たようなカメラを出していたようですが、間もなくポケットカメラに需要が移っていったようですね。