ある方のブログを久しぶりに、のぞいてみた。
家族旅行されている美しい写真がアップされていた。
我が家も同じところに、今年のGWに行った。
同じようなコースを辿った。
でも、なにかが違う・・・
あの豪華絢爛さ、まばゆいばかりのお写真・・・
わたしは、ケータイから撮った写真を縮小してブログに送信し、
ほんの短文をひとつ綴っただけ。
その頃、確か、デスクトップ型パソコンでのインターネットの通信状態が悪かったため、
かわりにiPadで対処したように記憶しているが、
それにしても、すごい違い。
(デジカメで撮った、膨大な写真データは、USBに保存されただけ。
他の写真ともども、アップされることもなく、CDやらUSBやらに、安らかに眠っている)
カメラのランクや撮影技術も違うと思う・・(わたしは、ふつーのデジカメ)
そのブログは、より美しく、より美味しそうに、より高品質に、
より素晴らしく撮影しようという熱意が反映されていて高く評価できる。
わたしは、なんでも中途半端。
途中で、投げ出してしまうところがある。
たとえば、食事の前にみんなが食べようとしているのに、さえぎるのも、うんざりされるだろうし
ステキと思う度に、カメラを向けていると、本当のステキの瞬間をカメラに奪われてしまっているように思えるし、
なんでもかんでもカメラを向けると、プロのカメラマン以外では、ちょっと田舎モンみたいで気恥ずかしいし。
より良い写真をアップするために、・・という熱意に欠ける。
それ以前に、技術にも欠けるのだろうけれど。
いちいち、自分のブログにアップして報告するのにも、モチベーションが必要だ。
なんのためのアップか。
自分の備忘録のためか、もういちど、その興奮を再度味わいたいためか、
はたまた、人さまに見ていただきたいためか。
最近のわたしは、パワーが落ちて、上記のすべてを満たすほどの熱さがなく、
自分の力不足を感じる。
できる能力、容量に限界があるなら、そこで、優先順位をつける。
あくまでも、自分のため。
人の目よりも、自分の内向きな欲求。
そうすると、写真に時間やエネルギーを費やさなくなる。
その場では感動して、写真に残しておきたい思いから、シャッターを切る。
でも、あとで、ゆっくり整理したり、アップしたりすることなく、また、次のリアルタイムの用件に取り掛かる。
というか、感動がいつまでも強烈なまま、新鮮なまま、瞬間冷凍保存キープしたまま長続きしないので、
じっくりあとで作業するのが億劫になっている。
時間が経てば経つほどに、その気力は失せてくる。
そういうわけで、感動のワンシーンを写真に残し、ブログにアップすることなく、
次々、日々に起こる、別のことに振り回される。
どうせ、ちゃんとあとで、ブログもアップしたりしないんだったら、
その場、その場で、自分の目に焼き付けておこう、
写真に撮るとすると、自分のメモがわりとして、撮っておこう。
ブログの利用方法が、少しずつ変化してるように思う。
でも、写真の整理はしたほうが、いいのは決まっているんだけどね。
めんどくさくなってきている。
なので、人さまが撮った写真を見て、なるほどキレイに撮られている、と驚くのである。
ああ、わたしは、ほったらかしにしているのに、なんと、マメな。
といいつつ、自分は、とても、しょーもない、ささいなことに振り回されているので、
時間を割いて写真をアップしているほうが、ずっとずっと建設的で、有意義な行為だとは、思う。
究極のところ、わたしの関心事は、自分にしかない。
自分が興味あることにしか、時間やエネルギーを割かない。
(あくまでも、自由時間の使い方です。義務はそれなりに、果たしている・・・つもり・・・)
自分自身も、どんどん変わっていっている。
これからも、どう変わるのか、自分でさえ予想できない。
それが、ある意味、自分にとって、おもしろいのであるが。
自分を自分で楽しむ。
人を楽しませることが眼中にないところが、わたしの、サービス精神のない所以だ。
これは、ある意味、反省しないといけないこと。
自分に夢中になりすぎると、イタイひとになるから。
まわりとも調和し、協調していかないと、社会では生きていけないから。
一人だけ、周囲の気持ちを考えず、浮いている自分も、心地よくない。
トップ画像、ひどいです。
いいとは全く思っていませんが、あくまでも試作、練習。
いずれ、ステキなものが創られるようになる日までのプロセス。
といって、一生、そんな日は、来ないんだけど。
アップしないでほったらかしている写真と、おんなじ?
デキの悪い、自分への言い訳にすぎない?