蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

黒い果実

2015-04-11 | 人々の風景

社交ダンスをやっていると、いろんな方にお目にかかる。

あくまでも、お目にかかるだけで、口をきくといっても、挨拶程度。
中身は年齢をはじめ、推測するのみ。

どこに住んでいるか、地域名も、なんらかの拍子に耳にすることがあるが、
ぜんぜん、どうでもいい。
「パラオから来ました」
とでも聞こえたら、寄っていくかも知れないが。

要するに、なんの個人情報もないまま、見かけ、行動だけで、その人物を判断している。
あくまでも、外側だけの判断であって、上っ面の下にある顔は、知らない。

見かけの重要な判断要素は、着ているモノ。
お金持ちが、エコ精神で、さほど高くないものを着る場合はあるが、
逆に生活に困窮している人が、何十万円もするドレスは着ない。
それで、だいたい生活水準を想像する。

番外編として、ボロファッションが流行っているから、これでいい、と思ってかどうか知らないが、
ジーンズの後ろの財布を入れているポケットが、財布の淵、角部分が破れている人。
それに、底の厚いスニーカー。
65歳を越えて、生活圏から電車に乗って外出時にその格好の男性の場合、
実際に知っている人の例では、お金はあまりない。


つぎに、顔。
これは、決して出来、不出来、美醜ではない。
表情から醸し出される性格、生活環境、幸せ度。
華がある顔の人もいるが、怖い顔や、嫌な表情の顔の人もいる。
べつに、術後の回復が思わしくない病室のベッドに横たわっているわけでもないのに、
楽しいダンスをしているにもかかわらず、なんで、あんな顔なんだろう??
苦痛が染み付いたような顔の人がいる。


そのつぎに、しぐさ、踊り。
ガシャガシャと落ち着きのない動作や、なんと、足をおっ広げて椅子に座っている女性!!
ドレスなのに・・・!!
こんな人は、優雅なダンスなど、ほど遠い。
あなたの、お股、座るときぐらいは、閉じましょう。
ホールを挟んで、真正面の対面の椅子に座って見ているわたしは、同性として、首を傾げる。


声がガラガラの酒やけしたような、タバコのにおいがぷんぷんしそうな、そんな人もいる。
あのガラガラ声は、先入観で決め付けてはよくない、病気かも知れないと、その声の主を見てみると、
いかにも過去の不摂生が、声に現れるような人だった。


いろんな外見を見て、その人物を総合的に判断する。
別に親しくなりたいとは思わない。
どこに勤めていて、家族構成はどうで・・・さして興味はない。

わたしのアタマの中のデータファイルから検索すると、だいたいのおおまかなラインは出てくる。
外見で想像できる。
そして、実際に合っているかどうか、答えあわせをしたい時期は、過ぎた。
ざっくり、当たっていると思う。

性格は、その後の日々の行動で、その人独自のデータを積み重ねて、想像していく。
これは、短期、中期、長期にわたると、見方が変化する。
ぱっと見たかんじと、じっくり見たかんじ、また、本人が変化していく場合。
この、徐々に変化していくところが、面白い。
猿人が人間に変化していくごとく、徐々に、洗練されていくかんじを目の当たりにみると、
一定の法則のようなものを感じる。

あくまでも、この変化は社交ダンスにおいてであり、ビジネスや人間関係においてではない。
仕事や家庭、私生活での接点がないので、社交ダンス以外には、その人物を判断する材料がない。
(が、どの分野においても、共通するものがあるかも知れない)

中身にまで踏み込むには時間がかかるし、犠牲やリスクも大きい。
なので、わたしは、外側観察をして楽しんでいる。


透明人間人になって皆さんの中で泳いでいるのだが、
時折、バッテリー残量不足からか、透明でない、うっすら色がついている時があるようで、
そのうちの何人かと接触することがある。
そこでは、外側からだけではない、中側のネタを仕入れることになる。

すると、少し、人物像に膨らみが出る。
見かけによらない人もいるし、見かけを益々強調することになる人もいる。

わたしの見かけは、一定しているようだ。
あえて、中身を外に出さないで、見かけだけのところを保っている。
ホンネは、ろくでもないことばかり考えているので、感想などは口にしないようにしている。
けしからん奴であるから、そういう自分は、けしからんと感じるのだ。
外側と中身が違うのだが、あえて、醜い中身を表情や態度に出して、露出させる必要はないと考える。
そもそも透明人間なのであるから、バッテリー切れであったとしても、わたしとの接触は控えていただきたい思いである。

 
なぜ、そう思うかというと、
最近、私生活において、ぽんぽんとホンネが口から飛び出して、まわりを不快にさせているのではないかと危惧しているからだ。
しかし、ホンネを捻じ曲げて、偽りのことを話すのも不本意である。
が、聞かれてもいないのに、ホンネをずけずけ言って、自分だけがスッキリするのも、自分自身、あまり気持ちのいいものではない。
くしゃみを思いっきりすると気持ちがいいが、周りは迷惑。
あれに、似ている。
くしゃみを抑えると、自分自身、不快感が残る。
そこで、小さい、くしゃみにするか、人のいないところで、思いっきり大きなくしゃみをする。

そもそも、人に不快感を与えるようなホンネ自体を持たないようにすべきだとも考える。
くしゃみをしない自分に改革、改造?
そうとう苦しいだろう。

いろんな人を見て、いろいろ思考がぐるぐる。
よくある、聞き飽きたフレーズ、「なりたい自分になる」。
この歳になっても、まだ、そんな青いことをやろうかなと思う、
皺くちゃの、もはや食べられないカチンコチンの果実である自分を発見する。

どんな味なんだろう。


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