蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

人の幸せほど鬱陶しいものはない

2015-04-19 | 日々のこと

昨日の某会場、女性更衣室。

わたしの他に、あと二名。
わたしより少なくとも5歳は年上だろう。
ドレスに着替えて、楽しいダンスを!という前段階である。

A「Cさん、年金らしいけど、厚生年金やって」
B「ええなあ。たくさんあって」
A「しかも、旦那さんは、現役でまだ稼いではるらしいで」
B「そりゃ、すごいわ。年金だけやったら、ちょっとやもんな」
A「うらやましいなあ。お金もどっさり、そのままダンスにかけれるもんなあ」

とまあ、ここまでは、よかった。
へえ~。現役だったら、確かに毎月、ランニング・インカムがあって、心強い。
ふむふむ・・・と納得しながら、二人の会話を聞いていた。

A「毎日、ご主人の夕食も用意しなくていいらしいよ」
B「へえ~。いいなあ」
A「毎日、夜が遅いから晩ごはんは、いらないらしいわ」
B「仕事で遅くなるんかな」
A「なんちゃら、かんちゃらで、遅くなるとか言ってるらしいけど、そんなことあるかいな。
毎日毎日なんて、こんな不景気では残業もないはずやし」
B「マージャンていうても、毎日は、ないわなあ」
A「平日、そんなに遅くなるのは絶対おかしいわ。それも毎日やで。女でも囲ってるんと違うか」
B「ほんまやな、ぜったい、そうやわ」

と、収入が良く、さらに、夕食を作らなくても良いという羨望の黄金ステイタスに、
二人の女性は、羨ましいを通り越し、妬みに移行した。
Cさんのご主人は、女を囲っていることになってしまった。
もし、わたしがこれを他の人に伝えたとすると、あらぬ噂が広がるという図が出来上がる。

わたしは、見知らぬこの二人の会話をただただ面白く聞いていただけであるし、
Cさん自体を知らないし、知る気もない。

同じようなラインに立つ仲間が、ほんの少しの違いで、いい目をするのは、腹が立つ。
しかも、自分の力量や努力とは関係のないことで、優位に立たれると、むかむかするようだ。
ぐんとレベルが違う人であれば、あの人は特別だから、と、一目置くのかも知れない。
あるいは、陰湿にいじめたり、意地悪をしたりするのかも知れない。
人の幸せは、鬱陶しいってことだ。

とはいうものの・・・
年金しか収入がなく、毎日、ご飯の用意をしなければならない夫。
かたや、まだ稼いできてくれて、自宅には不在、夕食不要!!
この違い、天と地。

じゃあ、自分も老体に鞭打って、パートに行って稼いだらどうか。
絶対にしない。
いっそ、離婚したら?
絶対にしない。
せめて、幸せな人の悪口でも言って、憂さをはらすほうが、リスクが少ない。


ほんのちょっとだけ、自分より幸せな人、
しかも、その人の力ではない部分で、幸せな人がほんの近くにいると、気になるし、比較もしてしまうし、
実際、鬱陶しいものである。

わたしも、若い頃、学生時代の同級生だった人で、そういう人がいた。
どれをとっても、わたしの置かれている立場や状況より、ほんの少し上だった。
わたしが努力して頑張っている、その頑張り部分は、すでに備わっている人だった。
わたしは頑張りながら、彼女はいいなあ、こういう頑張りをせずに、すでに手に入れているんだから、と、
羨ましいような、腑に落ちないような、自分の頑張りが虚しいような、不公平なような、そんな気になって気分がよくなかった。
人生そのもののモチベーションが、一気に下がる思いだ。

今も彼女とわたしは、同じような暮らしをしている。
ライバル意識もなければ、気にもならない。
長い間に自分のスタイルが確立して、べつに人の生活や生き方が羨ましいと思わなくなったからだ。
自分の生き方に、そこそこ満足しているからだろう。

あまり人を羨ましいとは思わない。
更衣室の二人のように、自分にはないことを欲しがっても、しかたない。
自分で充足する気もないなら、我慢するしかない。

例えば、ダンスの才能・・・これを羨ましがったとしても、資質は人によって差がある。
プロで、家族を養わなくてはいけないなら、また話は別だが。

なんでも長期戦。長い目で見ると、シーソーゲームのように、上がったり下がったり。
悪いと思えたことも、さして悪くないようになったり、その逆もある。
その場その場では、気に入らなくても、大きな航路の中では、小さなことである。
羨ましいと感じていたことが、逆転することもある。
逆に、人を羨ましがらせていたことも、暗転することもある。

人の神経を逆撫でするような、幸せオーラを誰彼なく、あたりかまわず振りまくと、
自分の知らないところで、妬みの種になり、藁人形に五寸釘でも打たれかねない。
自分が楽しければそれでいいのだから、幸せを人におすそ分けしようとしても、相手を見てやらないと、逆効果になる。

分野が細分化され、この分野では、この人が上で、あの分野では、あの人が上で・・・
あるいは、ここ数年は、この人が上で、10年前は、その人が上で・・・
などなど、序列をつけても、疲弊するばかり。
なので、幸せ比べをするために外に出るのではなく、
幸せはすっぽり、自分の中で覆ってしまうと、母の胎内のようで案外安定していて、気持ちいい。
これは、内向的で、非社交的、目立つのが嫌いなわたしには向いているが、
派手好きで、誰の目にも、はっきりわかるカタチで誉めて欲しい人には、つまらない方法だろう。

おしゃべりして、発散するのもひとつの方法。
わたしがブログをアップするのと同じ。
あっちこっちで、ぺちゃくちゃ話して空気抜きをするのは、悪くないことだと思う。

今日も更衣室では、どういう話が展開されていることやら。
人々は、絶対に、人のこと、褒めません、悪口専門。
自分が居ない所では、自分の悪口を言われていると思っても過言ではない。
が、知らなければ、それでいい。

各々が、各々のストレス発散のお手伝いになっていることだろう。


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