蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

幸せな人は、傲慢である

2015-04-04 | 日々のこと

わたしのブログは、多くの人は親近感を覚えないだろう。
コメントをつけようと思う時は、「聞き捨てならん!」と文句のある場合か。

べつに、親近感は持ってもらわなくてもいい。

「わたしも、そうなんですよ」
「うちのケースは・・・これこれしかじかで・・・」

井戸端会議的な会話をしたくなくなるような、そういう雰囲気が漂っていると想像する。
店でも営業していたら、客は寄り付かないことだろう。
タカビーで、上から目。愛嬌なし。迎合なし。
あるいは、頑張っているひとをごっそり、地面すれすれの足元から切り取ってしまう冷酷さがあるかも知れない。


文章が飛びぬけ素晴らしい、あるブロガーさんがいる。
彼女の書く文章は、本質を突きすぎていて、あるとき、不意にぐさっと刺される。
彼女に救いがあるのは(ああ、また、わたしの上から目線・・・)、
彼女の身の上が不幸な状況にあること。
多くの読者は、あの日常で、あの、明るい未来を描けない悲惨な状態で、
前向きに生きようとする彼女の精神力に感服する。
感動するわけだ。

だが、同時に、悲惨でもなんでもない人を、ばさっと切り落とす場合もある。
地獄に突き落とされそうな、地獄からの、すごい引力のようなものを感じることもある。
地下洞への小さな入り口で、必死で何かを掴み、引き込まれないように留まる自分がいる。
申し訳ないけれど、わたしは、地獄にご一緒できません。
その人は、明るい朗らかな時もあるが、
振幅や、深層を垣間見たことがあり、彼女の目に見えない心の奥底にあるものを感じたことがあると、
わたしはいつなん時、その部分が噴出しないかと恐れて、心の底から自分を開放できないでいる。


同じ文章を綴ったとしても、おちゃらけな生活を送っている人が書いたとしたら、

なに言ってるの?
あんたに、なにがわかる?
偉そうなこと言うな。

となってしまう。

当たり前だ。

文章には、魂が篭る。
キャリアや経験が、行間に埋まっている。

へ?行間?
被害妄想じゃないの?

と、とっさに言う人もいるだろう。
表面だけ、上っ面の文章だけを見て、評論したり、感想を述べたりするのは簡単だ。

わたしは、不特定多数の人々に、近寄ってきて欲しいと切に願っているわけではない。
少し離れたところから、気になって、そっと見ているシチュエーションが快適かと。
ちゃらけた人間には、魂を揺さぶるヘビーなものなど書けるわけがない。
まして、幸せな人間は、不幸な人の気持ちはわからない。
わかろうとしても、経験がないのだから、想像、シュミレーションに過ぎない。
それが、へんな同情になったりすると、かえって、侮蔑したように受け取られるかも知れない。

幸せ自慢は、鼻つまみ者。
不幸自慢も、うんざり。
いくら自己肯定が良いといっても、自慢は、ダメだってことだ。

しかし、うまくいかないことの原因を自分に求めすぎると、欝になる。
内向きは、よくない。
自慢はしないで、人を非難しないで、でも、自己肯定して、人のせいにもする。
自分救済のノウハウ。こんな、バランス、難しすぎる。
が、自分との付き合いは、長いので、それなりに調合、調整していると、自分スタイルが生まれる。

 

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