他の素晴らしいブログを読まずに、書く。
読むとエネルギーが吸い取られる場合と、ヒント、共感を得て、書く気が湧き上がってくる場合がある。
わたしの場合は、なりゆき、偶然のようだ。
さて、昨夜、夫は孫Aが神社の護摩木に願い事として書いていたプレゼントを渡した。
夫は孫Aと一緒に遊ぶでもなく、電池を入れるために必要なため、娘婿に要請されたドライバーを取ってきただけで、テレビを見ていた。
遊ぶ部屋は和室で、ダイニングルームから離れている。
夫は二回ほど姿を見せ、立ったまま、高い位置から、
「プレゼント、嬉しい?」と、聞いていた。
いつも、夫は、ああ言う。
「ほら、おじいちゃんに、ありがとうって、言いなさい」と娘に促され、「おじいちゃん、ありがとう」と言う(言わされる)孫A。
夫は感謝の気持ちを言葉に出してもらわないと満足できないのか。
楽しそうに遊んでいるのを見たら、わかるではないか。
わたしは、しゅるしゅると温度が下がった。
と同時に、モノやお金でしか愛情のカタチを表現できない夫が、生産性を追求する社会での外貨獲得戦士である大勢の夫たちの姿と重なり、少しかわいそうにもなった。
成績で評価される競争社会の犠牲者か?
まあそのおかげで、プレゼントも買えたのだし、悪いことばかりではない。
昨夜、放映されたテレビ番組、デカ刑事ものドラマにあったが、自白の強要が、サブテーマだった。
まあ、それに近い、そういう自己満足が欲しいのだろう。
でなきゃ、マザー・テレサじゃあるまいし、はっきり口に出してお礼の言葉を耳に刻み、私利私欲を満たさないと、やってられない。
たんに、喜んだ顔を見たいのだろう。
例えば、奥さんが愛情たっぷり込めて、時間も手間もお金もかけ、研究もじっくりして技術も磨いて作った食事を給仕し、食べる家族の一挙一動を食い入るように見つめ、「美味しい?」と真横で聞かれると、食べる側は、喉を通るにも目を白黒させ、味どころではなくなる。
暑苦しい押し売りは、喉が詰まる。
「美味しい」の脅迫、強要。
それなら、そんなにまでのご馳走、作っていらんです、、、。
そこまではひどくないにしても、感謝の強要とも取られるる、「おじいちゃん、ありがとう」も、気持ちを言葉で表す世間の常識ルールを幼い頃から身に付けさせるのは、教育の一環かも知れないが。
まあ皆んな善人である。
重箱の隅を突いても、誰も幸せになれない。
美味しい!も、普通に自然に、笑顔が物語っているだろう。
ちなみに、娘によると、あの電車シリーズでまだ喜んで遊んでいるのは幼稚らしい。
よほど電車が好きな子は別として、大概の子供は就学前に卒業するとか。
まあ幼稚もいいんじゃないかと。
罪のない電車遊びで、喜んでもらって、まだまだ楽しい時期は続く。
家族の皆んな、良かったねーー。