蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

長々と時間を使う贅沢

2020-02-10 | ブログ
わたしは、どちらかというと、嫌なことを嫌だと言えない性格。
ずいぶん前に、そんなタイトルの、精神科医が書いた新書を買って読んだことがある。
自分に当てはまるところがたくさんあったのだろう。

何が書いてあったのか、忘れた。
わたしは、すとんとこころに落ちて問題が解決したら忘れるタイプ。
脳のキャパが小さい。
そのかわり、解決していないものや、タスクは、ごちゃごちゃ脳に混ざり込んで、へばりついている。
一掃断捨離できる日は、記憶喪失病にかかった時か、認知症のいよいよ山場、クライマックス、天国手前の時かなあと。

その時は、走馬燈のように次から次へと過去の記憶が蘇るだろうか?
意外と映画のワンシーンばかりだったりして。
だとすると、アタマがまだマシな間に、良いものに触れるのはいい。
当たり前か。

美しいもの、美食、映画、音楽、芸術(あ、これはムリ。難解なものは理解できない)、、、
といっても、わたしごときの喜ぶレベルは、たかが知れている。
そこらへんの歌謡曲だったり、簡単に観れる映画だったり、、、
商業主義に乗らされている、小さなささやかな文化を享受する大衆の一員。

オペラやミュージカル、本場のナマのステージやコンサート、ナマの会場でのスポーツ観戦など、別に、というか、全然、必要ない。
わたしは、気持ちよくなると寝てしまう。
睡魔といういたずら魔法をかける、悪魔だか天使だか知らないが、なにしろ、その魔法にかかってしまう。
気持ちよくなくても、緊張の場面でも寝てしまう。
脳がシャッターを下ろすのだろう。
だが、このわたしの脳は、お天気屋で、気分屋なので、わたし自体が自分を持て余している。
まあ、自分脳とは長年の付き合いなので、優しく暖かく見守っている。


わたしは、自分が嫌な状況を回避出来ないときは、生活以外では、たいがい破綻している。
生活では、我慢、忍耐。
生きていくためには、安泰を手に入れるのと引き換えに、努力は必要だから。

生活以外では、、、
友人関係だとか、趣味関係だとか。
仕事や社会的役割の場合は、嫌を回避するには、知恵を使う。
ズルさで、身を守る。
生活は、ズルさでは守りきれない。
運、不運もある。

最低限、これだけは許せない、耐えられない、という核みたいな、嫌なこと以外は、スルーする。
どうでもいい。

人の尊厳を踏みにじるようなもの、ことは、絶対に認めない。
壊れるから。
元凶から離れる。
幸いにして、そういう不幸に見舞われたことはない。
偶然の賜物である。
もし、偶然ではないと仮定したら、わたしの、気分屋脳が多少影響しているように思う。

自分が幸せになるものには、勝手にキャッチし、不幸になるものは、これまたわたしに無断で、拒絶している。
受け入れ係が、独断と偏見で、五感を頼りかどうか知らないが、進む道の交通整理をしているようだ。

どうしても嫌で、とことん我慢できなくなったら、自分で考えなくても、勝手になんらかの行動に移っているか、あるいは、勝手に状況が変化している。
先々先走って行動しても徒労に終わることが多い。
自分の核は何か、脳の自分担当係に丸投げしている。
なぜなら、自分で考えてもよくわからないし、眠くなるから。

今日は、まだ眠くならない。
ブログ、まだまだ書けそうだ。
脳が元気なうちに、、、
(読む側は、うんざり、、、)


ちなみに、話はころっと変わるが、
ブログ村エッセイ、ブーツさんの日本人気質についてのブログ記事を読んだ。
日本人は、優雅にするのではなく、働くことに価値を見出すとか。

わたしが思うに、何もしない人は、何もすることがないからではなく、何もしたいことがないのだ。
それを退屈だとか、生きがいがないだとか、虚しいだとか、感じる人もいるようだ。

仕事をしている自分、人に頼りにされている自分、役に立っている自分が一番好きな人もいる。

しかし、あくせく、ただただ忙しいのは、何がしたいか、自問自答の時間を持つのが怖いからではなかろうか。
何もしたいことがない自分に向き合うのが、耐えられないのでは?
「優雅に過ごす」と、「あくせくする」は反対語のようだが、あくせくすることで、自分の存在価値を実感している人もいる。
生きている実感を見出すようだ。

わたしは、全然、だ。
何もしたくない。すべきことは、最小限に留めたい。
じゃあ、手に入れた何もしない時間をどう過ごすのか。
文字通り、何もしない。
気分屋脳に任せる、自由な時間となる。
何もしないというのは、自由な時間であるということ。
好きなように出来る時間ほど至福なものはない。
で、何をするかは、各自、それぞれだ。
全く何もしない人はいないだろう。
でも寝るのが好きなら、息をして寝ているだけも至福なのかも知れない。
何がしたいか考えるだけでもワクワクするが、それで1日が終わってしまうのは、それはそれで幸せなのかなあ、、、と。
しかし、逆説的発想だ。
暇だ暇だと小さい文字で、びっしり書き込んで、時間が過ぎるのは、これ、暇から脱出している?

知人で、数独みたいなことを一日中、1週間まるまる、何年もやっている人がいる。
単なる暇つぶしではなく、宝クジだかロトだかの当選番号を予想しているのだが、一種のゲーマーかとわたしは見なしている。
没頭できる好きな時間をその人なりに見つけている。
経費、ゼロの娯楽。

わたしには明らかに不向きであるが、ゼロ予算で、人には人の楽しみの開拓があるなあと感服する。
内容や方法についてはなんの共感もしないが。
その人なりにの時間の使い方なのだろう。
寝たきりになっても継続できそうだ。

今しか出来ないことと、寝たきりになっても出来ることの二本立てが良い。
それなりのバランス感覚は必要である。


今日のブログ、、、長いばかりの時間の無駄使い。
これもわたしの究極の贅沢時間である。