今日は、のんびりした一日。
何をするでもないのに、もう夕方。
もったいない時間を使うことこそが、贅沢なのだ。たぶん。
というよりは、頭のネジが緩んでいて、時計の針がちゃんと読めないだけか。
午前中は、あっという間に過ぎた。
何をした??
ペットボトルゴミを出して、昨日の片付けをして、うだうだ、ぼんやりスマホで他のブロガーさんのブログを読んだり、LINEでやり取りしたり(午前9時まで)。
それからは、紙の日記を書いたり、この1週間の出費をレシートから書き写したり。
その中でも特に、意外に時間がかかるにも拘らず、砂を噛むような無駄時間になるのは、紙の日記で、見たテレビの内容を書く時。
なんだった?誰だった?なんと言う名称?
などなど、なかなか思い出せなかったり、漢字をぽろっと忘れたり、、、
あっという間に時間が過ぎていることがある。
いつもスマホ入力のため、ほんとうに簡単な漢字なのに、自筆する時、自信がなかったり、、、。
これはかなり来ている。忍び寄っている。じわじわ足音を感じる。(脳)
大丈夫か、わたし。
そんなこんなで、午前はレシートを処分したり、過去の仏事記録ノートを見たり。
過去の仏事記録ノートは、舅の仏事に関して、小姑(夫の姉)が記載しているものは、きっちり正確で見やすく、わかりやすい。
それに比べて、わたしが記録した姑に関するノートは、わたしの整理能力のなさ、アタマの悪さが露呈されている。マズイ。
性格が出ている。
後から記録を見る場合、きちんとキレイに整理されたノートであれば、誰が見てもすんなり把握できる。
わたしが書いたものは、まずは、文字や数字の表し方がごちゃごちゃしていて、読む意欲を削がれる。
書類や領収書などをちゃんとノートにまとめず、そのまま束にして、どさっと紙袋にひとまとめにして置いているものもある。
自分がわかればいいというスタンスの忘備録。
後の人が調べて紐解く場合、一番、手のかかるパターン。
仕事を溜めるタイプ。仕事が出来ないタイプ。
数字や文書を扱う仕事には絶対に就けない。
ちゃんとまとめてノートに書き直せばよいものを、喉元過ぎれば熱さ忘れる。
無事に終わったことは、忘れる。
小姑のまとめたノート(2001年作成)があるから、それを参照すればよい、と、わたしはタカをくくっている。
サボっている。
第一、仏事のやり方は、まるまる踏襲しなくても、時代や人によって変わってもよい、と考える。
自治会の役員のなり手が激減しているのと同様に、煩雑で手間のかかる、時代に合わない部分は端折って合理化を推し進めなければ、誰も引き継いでくれない。
そんなノートを見比べたりしていたら、あっという間にお昼になってしまっていた。
お昼にはレターパックが届いたり、電話がかかってきたり、今年は前々から停滞していたことがやっと動き始め、なんらかの変化を見せている。
しかし、そのスピードの遅いこと。
お尻が重いので、なかなか動かない。
が、いよいよか。
そうなると、一つではなく二つまとめて処理しようとする。
めんどくさがりなのだ。
行きに用事をするとすると、帰りは絶対に別の用事を入れる。手ぶらでは帰らない。
動く時はあれもこれも、一度にまとめて。
なにしろ、ものぐさなので。
ところで。
仏事で姉一家と集まった。
欠席7人、出席16人。
姉一家は来週?また、仏事で一家の集まりがあり、総勢25人。
仏事は鬱陶しいとは思っていたが、仏事そのものは、めんどくさいものの(→不謹慎)、兄弟一家、姉妹一家が集まるのは、なかなか興味深い。
ついに、自分たちが1番年長の世代になったせいもある。
世代代わりが行われ、孫、ひ孫と、世代は若返る。
お年寄りにとっては、一族の集まりは賑やかで活気、元気をもらう。
もっと歳を取れば、娘たちの代にバトンタッチされ、我々はお客さん状態で参加することになる。
かなり高齢の人々はもう参加するのは心身ともにキツいようで、参加しない。
我々も次の代にバトンタッチするまでの間が、活力がある期間。
とは言え、つい最近、上の代からバトンタッチしたばかりだが。
エリザベス女王のあとを引き継いだ高齢のチャールズ国王のようなものか。(明らかに例えが適切ではないにしても→不謹慎)
こんなことを書いていると、ますます閲覧数は下がる一方だ。
ちなみに、スマホを触らずに、今日は今のこの時間(夜)まで持ったのだから、これは益々、今日はいったい何をしていたのだろう、と検証したくなる。
話は変わるが、人工榊を注文し、手に入った。(※榊=植物。神事、仏事などに使われることが多い)
(夫の家では今も常時、生のホンモノ榊)
わたしのは生の榊ではないのだが、うちの神棚にお供えするもの。
これは、わたしの人生の中で大転換である。
無宗教で無神論者のわたしが、、、。
しかも、人工であるところが、超矛盾している。
どういう心境の変化だろう。
いよいよあの世が近くなったという自覚に背中を押されたのか。
このまま平穏無事を祈る気持ちからか。
ささやかな気持ちではあるが、平穏無事を維持するのは1番難しいかも知れない。