事務所終いをしている。
20年ぐらい前からの名刺が出てきた。
捨てる前に目を通しておこうと思い、最初の名刺ホルダーをパラパラとめくった。
一枚一枚見ていたら、どっと疲れた。
初期の頃のもの。
色々な分野にまたがっている。
中には映画関係、演劇関係のものもある。
名刺だけ見ていたら、どんなにすごい業界人なのだろうかと思われるかも知れないが、小粒の集まり。
最小粒は、わたし。
名刺を集めているだけに過ぎない。
キャラクターシールや、ポイントを集めているようなもの。
コレクターだ。
色んな人が果敢に挑戦している、競争の激しい世界で、名刺だけ集めて、何をしてるんだか。
もしわたしが、やる気のある有能な人物なら、いろんなキッカケを生かす努力をするだろう。
が、全然。
このギャップがいかにも、わたしらしい。
ため息。
今となっては、楽しい思い出。
もちろん、楽しくない思い出もたくさんある。
まだ5分の1ぐらいしか名刺をチェックしていないで、疲れてほったらかしにしている。
他には、食、文化、行政、マスコミ、広告、クリエイター、出版、教育、メーカー、、、などなど、各業界、多岐にわたる。
全員もう引退されているだろう。
全部目を通したら、捨てなければ、、、。
捨てられずに、ゴミ屋敷山に埋もれさせる可能性があることは否めない。
わたしの20年は、なんだったんだろう?
断捨離しないと、ゴミが一向に減らない。
ある日、晩年の宍戸錠がテレビ取材を受けていた。
(たぶん豪邸の)モノが溢れかえる、ごちゃごちゃの一室に埋もれて生活していた姿を思い出した。
モノを取り出すには、他のモノが崩れないように、なおかつ自分がよろけないように、バランス感覚が必要だと言っていたような。
モノの雪崩から身を守る身体能力が必要だ。
田原総一朗氏の部屋も、ここ狭しと資料だらけ、紙だらけ、本だらけだった。
あの中で資料を探すと絶対に、紙の山が崩れる。
探すことを前提にせずに、どんどん積み重ねているのでは?
本人の精神安定上、良いならそれでよし。
が、あの紙の山の中では、急な病状で倒れていても発見が遅れそう。
あれが電子データなら、部屋には何一つ置かれてないのだろうけれど。
と、断捨離をする余裕のない人、する気のない人はたくさんいる。
(話の流れがまたまた変わっている)
なんでもかんでも断捨離は、実家が他人に迷惑をかけるほどゴミ屋敷化して困り果てた家族には納得出来るが、そうでもないなら、人のプライバシーは、ほっておいて欲しい。
家族の部屋を占領して寝る場所もないなら別だが、巣立って空になった子供部屋が余っているなら、その空き部屋に好きなモノを蒐集して何が悪い?
と、ここまで書いて、あることが頭をよぎった。
(また話が変わっている)
リタイアした人が、過去の栄光、前職の肩書が忘れられず、肩書なしのタダの人になった時の落差に耐えられない、虚無感に襲われるということがよくある。
だがしかし、わたしはなんの肩書もなかったので、リタイアした後も全く同じだった。
突然リタイアしたわけではなく、徐々に徐々に少しずつ仕事が減ってきた。
失業したようなもの。
映えある栄光にしがみつく、なんてことは全くなく、むしろその逆。
ではあるが、外の世界(社会)で色々経験できて、良かったと思っている。
何も知らないよりは、知ったほうが人生が深まる。
チャレンジ精神、冒険心は大事だ。
いくつになっても、、、と、言いたいところだが、わたしはもう結構。
(卑怯な政治家のように)保身のみ。
政治家ではなく、タダの人だから良い。
わたしはこのまま先細って縮小していけば良いと思っている。
惨めで悲しくて不幸だなんて感じない。
楽しかったり苦しかったり刺激的だったりする思い出が胸の中で膨らんで、それぞれが融合して、新しい自分を形成している。
その自分がまたリアルタイムで新しいものに触れて反応するのを感じるのは楽しい。
化学変化は何歳になっても起こる。
年齢は毎年重ねられ、常に自分の新しい歳を迎えるのだから。
これはある意味、退化ではなく、進化だと思う。
※(裕さん、蝶記事インスパイアありがとうございます)