ずっと「グルメ カテゴリー」として、飲んだワインをアップしていたが、
あまりにも日常化してきて、いちいち面倒になった。
ボトルもたまる一方だし、飲んでも、
「2002年 伊藤ハム ハウスワイン」「2003年 ブルゴーニュ産」などの銘柄説明と
「あ、美味しいね」「飲みやすいわ~」「うむ、濃厚だ」「ちょっと渋いなぁ」
ぐらいの感想しか出てこない。
とりあえず、ここ3か月分の、ワインとシャンペン8本の写真を撮った。
(よく考えると、ビールや日本酒、焼酎は、飲んでいても取り上げていない)
5000円と1500円のシャンペンの違いも、何本飲んでも、いまいちよく分からないし。
前々から恐れていたが、ひょっとして私は、味オンチ??
ここからは、自分の回顧・自己満足のために綴っています。
小さい頃は、畑で自給自足の祖母が作る、オール野菜煮メニュー、
育ち盛りは、賄(まかない)のおばあさんによる、これまた野菜煮と魚メニュー、
ちょっと若い賄のおばさんに交代してからは、ハンバーグ、ポークカツ、
ビーフピカタなどのメニューもやっとお目見え。のっぺい汁や、肉じゃがなども。
背の青い魚にサヨナラできて、大感激だった。(今は、好きだが)
そういう食べもので、大きくなった。
ごく稀に、父に連れて行ってもらった神戸の「パーレスタ」というレストランで、エビフライ、
思春期食べ盛りは、2歳上の姉の作る「夜食メニュー」
ルーから手作り、本格ビーフシチューと、手作りミートソーススパゲッティ、
私が作る、ばかちょんインスタントラーメン、勝手に食べる、カップめん、
ご近所の洋食屋さんの出前「ビーフカツレツ」「カツカレー」、
学生時代は、学校帰りの寄り道「お好み焼き」、神戸「赤のれん」のチキンサラダ、
オプションとして、そういうものも加わった。
クッキー、ケーキ、和菓子などのスイーツ、ジュース類は、常にたっぷりあった。
親の目もちゃんと行き届いていないのに、よくまあ病的な肥満体にならなかったものだ。
「三つ子の魂百までも」、小さい頃の体験が、何事にも基礎をなす。
ここで、母の手料理は、ほとんど思い出にない。
カレーぐらいか?
(母が聞いたら、絶対、怒るだろう。もっとちゃんと食べさせてる、と。
そういえば、母は上品な和食がお得意のようだが、
小さい頃はそういうメニューは、賄のおばあさんメニューと、全て同じに思えた。)
幼稚園の時に、クラスメートに、料理家の母親を持つ男の子がいて、
お弁当の時間には、他の学年やクラスから先生たちが、お弁当を見に集まっていた。
私は、お弁当はいつも、通園途中で自分で買う、フルーツ牛乳と菓子パン。
実は、それが大好きだった。
小学校に上がると、学校の給食は大好きで、他の子が給食を残すのが不思議だった。
小学校後半からは、夕食は賄のおばさんに用意してもらったものを、
スタッフの人達といっしょに食べることもあったが、
彼女たちは、あまり美味しそうに食べていなかった。
美味しそうに食べない彼女たちを見て、輝きのない、元気がない大人だと感じた。
時々、漁師さんから獲れたばかりの鯛を頂き、
魚屋さんで刺身にしてもらい食卓に上がっていたが、私は刺身は苦手で、
父に「せっかくの貴重な新鮮美味を。味のわからないヤツだ」と怒られていた。
私は、鯛の味噌焼きが、大好きだったけれど。
中学になってからはお弁当になった。
時々、母がすごいお弁当(悪い意味で)を持たせてくれることもあり、
お弁当箱のふたを開けた途端、フリーズ。地雷爆発。
一瞬にしてふたを閉め、何事もなかったかのように静かに教室を出て行ったこともある。
兄姉も同じお弁当を持たされていたわけだし、
私だけが過敏に反応していただけかも知れないが。
兄姉、根性が、ある。学内でもちょっとユニークな兄妹だったようだが。
クレームを言うと、「忙しいのに何を言う???」と母のご機嫌を害するので
そういうこともあり、高校以後は、自分で作るようになった。
大したものも作れないし、美味しいわけでもなかった。
やはり、料理にセンスがないのだろう。食いしん坊ではないのだろう。
こだわりがないのだろう。
(つづく)
あまりにも日常化してきて、いちいち面倒になった。
ボトルもたまる一方だし、飲んでも、
「2002年 伊藤ハム ハウスワイン」「2003年 ブルゴーニュ産」などの銘柄説明と
「あ、美味しいね」「飲みやすいわ~」「うむ、濃厚だ」「ちょっと渋いなぁ」
ぐらいの感想しか出てこない。
とりあえず、ここ3か月分の、ワインとシャンペン8本の写真を撮った。
(よく考えると、ビールや日本酒、焼酎は、飲んでいても取り上げていない)
5000円と1500円のシャンペンの違いも、何本飲んでも、いまいちよく分からないし。
前々から恐れていたが、ひょっとして私は、味オンチ??
ここからは、自分の回顧・自己満足のために綴っています。
小さい頃は、畑で自給自足の祖母が作る、オール野菜煮メニュー、
育ち盛りは、賄(まかない)のおばあさんによる、これまた野菜煮と魚メニュー、
ちょっと若い賄のおばさんに交代してからは、ハンバーグ、ポークカツ、
ビーフピカタなどのメニューもやっとお目見え。のっぺい汁や、肉じゃがなども。
背の青い魚にサヨナラできて、大感激だった。(今は、好きだが)
そういう食べもので、大きくなった。
ごく稀に、父に連れて行ってもらった神戸の「パーレスタ」というレストランで、エビフライ、
思春期食べ盛りは、2歳上の姉の作る「夜食メニュー」
ルーから手作り、本格ビーフシチューと、手作りミートソーススパゲッティ、
私が作る、ばかちょんインスタントラーメン、勝手に食べる、カップめん、
ご近所の洋食屋さんの出前「ビーフカツレツ」「カツカレー」、
学生時代は、学校帰りの寄り道「お好み焼き」、神戸「赤のれん」のチキンサラダ、
オプションとして、そういうものも加わった。
クッキー、ケーキ、和菓子などのスイーツ、ジュース類は、常にたっぷりあった。
親の目もちゃんと行き届いていないのに、よくまあ病的な肥満体にならなかったものだ。
「三つ子の魂百までも」、小さい頃の体験が、何事にも基礎をなす。
ここで、母の手料理は、ほとんど思い出にない。
カレーぐらいか?
(母が聞いたら、絶対、怒るだろう。もっとちゃんと食べさせてる、と。
そういえば、母は上品な和食がお得意のようだが、
小さい頃はそういうメニューは、賄のおばあさんメニューと、全て同じに思えた。)
幼稚園の時に、クラスメートに、料理家の母親を持つ男の子がいて、
お弁当の時間には、他の学年やクラスから先生たちが、お弁当を見に集まっていた。
私は、お弁当はいつも、通園途中で自分で買う、フルーツ牛乳と菓子パン。
実は、それが大好きだった。
小学校に上がると、学校の給食は大好きで、他の子が給食を残すのが不思議だった。
小学校後半からは、夕食は賄のおばさんに用意してもらったものを、
スタッフの人達といっしょに食べることもあったが、
彼女たちは、あまり美味しそうに食べていなかった。
美味しそうに食べない彼女たちを見て、輝きのない、元気がない大人だと感じた。
時々、漁師さんから獲れたばかりの鯛を頂き、
魚屋さんで刺身にしてもらい食卓に上がっていたが、私は刺身は苦手で、
父に「せっかくの貴重な新鮮美味を。味のわからないヤツだ」と怒られていた。
私は、鯛の味噌焼きが、大好きだったけれど。
中学になってからはお弁当になった。
時々、母がすごいお弁当(悪い意味で)を持たせてくれることもあり、
お弁当箱のふたを開けた途端、フリーズ。地雷爆発。
一瞬にしてふたを閉め、何事もなかったかのように静かに教室を出て行ったこともある。
兄姉も同じお弁当を持たされていたわけだし、
私だけが過敏に反応していただけかも知れないが。
兄姉、根性が、ある。学内でもちょっとユニークな兄妹だったようだが。
クレームを言うと、「忙しいのに何を言う???」と母のご機嫌を害するので
そういうこともあり、高校以後は、自分で作るようになった。
大したものも作れないし、美味しいわけでもなかった。
やはり、料理にセンスがないのだろう。食いしん坊ではないのだろう。
こだわりがないのだろう。
(つづく)