蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ポックリ希望

2009-03-11 | 読む人々には興味ない話
義理の親御さんと同居している人のブログを読んだ。
ものすごく苦労されている。
大変だと思う。

私は、子供が就学前に1年間だけ、同居の経験がある。
同居のエッセンス、ミニ体験コースのようなものだった。

ご苦労されている方々のブログに対して、
苦労していない私は、なんのコメントも発することができない。
「苦労は買ってでもしろ」と言うが、どうなのだろう。
その苦労やエネルギーを別の分野に、いい方向に活かすことができたら、
ものすごいパワーになるだろうに。

大事な夫の親なのだから、大切にしないといけない。
何かと大切に育ててくれた親だから、ご恩返しをしなくてはいけない。
これは理屈でクリアー。
しかし私は、同居は望まない。
少なくとも、自立した生活ができなくなる、その日までは。
その日が永遠に来ないことも、望んでいたりする。
世の中には、同居したくなくても、
各々の理由で同居せざるを得ないケースも多いだろうけれど。

親世帯も子世帯も経済的自立、生活の自立が理想だが、
なかなか絵に描いたようにはいかない。
私たちは、どうにかこうにか、円満に別居している。
病気になれば、当然、医療機関にお世話になる。
介護が必要になった時は、いよいよ同居になるのだろうか?

伯母が今年、90歳過ぎてぽっくり、家族と同居する自宅で亡くなった。
伯母は翌日にお出かけ予定があり、着ていく服も用意していそうだが、
本人も死ぬなんて思いもよらなかったようだ。

死ぬ直前まで、自立した生き方ができれば、本人も周りも最高だ。
老化に伴う現象をを全く理解しないで、まるで汚いものにでも接するかのように、
厄介者のお世話をするのがいかにも嫌!というようなお嫁さんや娘、息子に、
自分が高齢になった時、世話をしてもらいたくない。
まだお嫁さんはいないから、お嫁さんの具体的イメージはわかないが、
子供たちにお世話してもらっている自分を想像すると、涙が出てくる。
涙が出るほど、ありがたいけれど、涙が出るほど、情けない。
させたくない、してもらいたくない。
彼らの生活のペースを乱してほしくない。
お荷物には、なりたくない。

私は、近い将来、親をお世話する立場でもあるし、
遠い将来、自分が高齢になれば、お世話される立場でもある。

自分ならこうしてほしい、という理想のパターンに、
親の世話に対しても、できるだけ近づければいいが、そう、うまくいくだろうか。

自分のしたことが、自分にも跳ね返ってくると思う。
嫁いびりをした姑は、嫁に逆襲されるだろうし、
姑を虐待した嫁は、自分も嫁に痛い目に遭わされる。
しかし、姑に尽くしたのに、嫁には邪険に扱われる不幸な人もいるだろう。
姑をいじめ、さらに嫁をいじめる強い人もいるだろう。
子供を一生懸命、愛情かけて育てたのに、子供に冷たくされる親、
手抜きで育てた期待しない子供なのに、その子に思いがけない手助けを受ける親、
その他いろいろ、方程式通りにはいかないこともあるだろう。
相性もある。

ひとつ言えることは、相手に見返りを期待したり、
周りの圧力に負けて不本意な思いで行動するのではなく、
自分自身の自主的な意志で、能動的に行動すること。
かつて自分が受けてきた親からの愛情を、
子供やその周囲の人たちにお返しすること。
恩や愛情の、順送りバトンタッチ。それは自然な流れだ。
(親に虐待されて育った子供は、負のバトンタッチ、児童虐待をする。)

頭ではそう考えていても、老化して、すっかり変わってしまった
別人のようになってしまった親に、愛情を持って接することができるだろうか。

自分は、介護ゼロで、ぽっくりいきたい。
誰もがそう望んでいるだろうが、でも、そんなに甘くない。
人の世話にならずに死ぬなんてことは、できないだろう。
せめて周りの負担を少しでも少なく、人生を終えたい。
しかし親には、そんなことを望んでは、罰が当たりそうだ。

悲惨な現実が襲ってきたら、全く違うことを言っているかも知れない。
頑張っている人には、頭が下がる。