第二章 それぞれの旅立ち ( 3 )
六甲山に行った日の三日後に、啓介は東京に向かった。
その前の日、早知子は啓介の家を訪ねた。ちょうど啓介の母と妹が連れ立って買い物に出掛けるところだった。
啓介の荷物はすでに東京に向けて送っていたが、まだ少し足らないものがあるとかで大阪まで行くと早知子にも留守を頼んでいた。
早知子が啓介の部屋で過ごすことは、小学生の頃から変わることなく続いていた。
二人は、これから始まろうとしている大学生活について語り合った。殆どは、何度も何度も話し合ってきたことの繰り返しだが、二人にはそのような自覚はなく、真剣な話題に変わりなかった。
啓介にとっては、東京での生活になるので、まさしく新しい出発になる。早知子の場合は、自宅からの通学であり、希美と同じ大学に通うので、環境の変化はあるとしてもそれほど深刻に考えるほどのことではないと考えていた。
しかし、いざその日が近づいてくると、そうではなかった。
啓介と離れることが、早知子が想像していた以上に大きな変化であることが、日ごとに大きくなっていた。
小学三年の時からずっと一緒だった啓介は、早知子にとって家族と同様だった。いつも必要な時には横に居てくれたし、どのような時でも自分のことを見守ってくれる存在だった。
小学生の頃には取っ組み合いの喧嘩をしたこともあるし、二日も三日も口を利かなかったこともあった。
中学生の頃からは激しい喧嘩をするようなことはなくなったが、意見が相当激しく対立することは何度かあった。それでも、考えを一致させることができようができまいと、自分のことを理解し守ってくれるとの信頼が揺らいだことなど一度もなかった。
それは啓介も同じだった。
学校などで意見が対立した時でも、自宅で二人だけで話し合うとたいていのことは理解しあえた。歩み寄りが難しくなったことも時々あるが、殆どの場合啓介が一歩引き下がることになったが、啓介に譲歩されると早知子はすぐに冷静さを取り戻し、対立は解消した。
啓介は、中学の終わりの頃から、早知子に眩しいようなものを感じることが時々あった。
早知子は中学では目立つ存在だった。多くの行事で中心になって活躍することが多かったし、男子生徒だけでなく女子生徒にも人気のある存在で、学校で親しく話し掛けるのに気が引けるほど輝いていた。
一方、早知子が啓介のことを強く意識し始めたのは、啓介が大学に合格してからだった。
早知子にとって啓介は意識する必要のない存在で、父や母が、父や母として意識する必要がないのと同じように、常に横に居てくれるものだと思っていた。啓介を男性として意識したことがないかといえば決してそうではなく、自分にとって一番大切な男性だとの気持ちは持っていたが、それは身内といった感情の方が強かった。
しかし、啓介の東京行きが現実のものになってくると、これまでになかった感情に襲われた。不安というか、胸騒ぎのようなものがじわじわと襲って来ていた。
ハイキングからの帰り道で生まれて初めてのくちづけを経験したのは、どちらかが誘ったものではなかったが、早知子の心の中に浮かんでいた願望を啓介が受け止めてくれたものだと思われた。
東京へ発つ啓介を想う感傷と、溢れるほどに輝く夜景に酔ったこともあったかもしれないが、このままで別れたくないという願いが込み上げてきていた。
光の海を見つめながら訴えるように言った希美の言葉が、大切なものを失おうとしている自分に投げかけられたもののように、早知子は感じ取っていたのだ。
いつか、二人は身体を寄せ合っていた。
「淋しくなるわ・・・」
早知子は、体を預けるようにしてつぶやいた。
「うん・・・。こんなに淋しい気持ちになるなんて思わなかった」
啓介も率直に気持ちを述べた。そして、早知子の肩に手を回してその体を引き寄せた。
二人は並んでソファーに座っていたが、早知子は啓介の動きに合わせるように、さらに体を寄せた。啓介はぎこちない仕草で早知子の胸に片手を当てた。薄いセーターの下に、確かな膨らみが感じられた。
「わたしたち、これからどうなるの?」
早知子は、胸に当てられた啓介の手に自分の手を添えたが、拒絶の意思は示さず、ただ心細げにつぶやいた。
「今までと同じだよ。何も変わらないよ」
「でも、啓介さんは東京へ行ってしまう・・・」
「学校へ行くためだよ。時々は帰ってくるし、何も変わらないよ」
「これまでは、ずっと一緒だったのよ。淋しいわ・・・」
「四年間だけだよ」
「四年経ったら、帰って来てくれるの?」
「もちろんだよ」
「東京で就職してしまうかもしれないでしょう?」
「いや、関西で就職するつもりだよ」
「本当に?」
「うん。それに、もし東京で就職する時は、早っちゃんが東京に来ればいい」
「わたしが東京へ行くの?」
「そう、その頃には、早っちゃんのお父さんやお母さんも行かせてくれるよ、きっと」
「その時は、啓介さんの所に行っていいの?」
「もちろんだよ」
二人はじっと顔を見合わせた。
早知子がさらに体を寄せて目を閉じた。唇が合わさり、早知子の胸にある啓介の手に力が加わった。
二人の二度目のくちづけだった。