雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

日暮れて道遠し ・ 小さな小さな物語 ( 1839 )

2024-12-29 07:59:08 | 小さな小さな物語 第三十一部

今年もあと二日を残すだけとなりました。
会社などにお勤めの人の多くは、今年は九連休になる所が多いそうで、「奇跡の九連休」などと話していた人がいましたが、少々オーバーだとしても、あまり経験しない暦かもしれません。
すでに、ふるさとにお帰りになっている人や、旅行や帰郷で移動中の人もいらっしゃるでしょうが、くれぐれも慎重な行動を心がけていただき、何よりも、自然を司るお方も、今年は平穏にお願いしたいと思います。
もっとも、この期間も、交通機関や警察・消防といった関係の人など、むしろこの期間の方が多忙を極めるという人も少なくないと思われます。
ご苦労様ではありますが、そのいずれの人であっても、九連休の連続だという人であっても、年の瀬は等しく訪れ、行く年があり来る年があることを教えられる複雑な数日間となります。

「日暮れて道遠し」という言葉がありますが、年の瀬になると、私はいつの頃からかこの言葉が浮かびます。格別に深刻さなどないのですが、「ああ、今年も終るか」という気持ちがこの言葉と結びつくようです。
この言葉の出所は『史記』からです。
原文は、「吾日莫途遠、故倒行暴施之」となっています。「莫=暮れる」「途=道」ですから、前半部分は「日暮れて道遠し」そのものですが、後半部分は難解です。「故に良識的な行動が取れず このように暴挙を行ってしまうのだ」といった意味のようです。
この言葉を語るには背景があります。中国春秋時代の伍子胥(ゴシショ・紀元前 484 没)は、楚の平王に父と兄を殺害されたので、その復讐を果すため呉に亡命し、そこで身を立て、やがて楚の都に攻め込みますが、平王はすでに亡くなっていました。そこで伍子胥は、王の墓をあばいて死骸を鞭打ちました。それを見た友人がその暴挙をたしなめたことに対して、この言葉で答えたというのです。

また、兼好法師は、徒然草の中で、「日暮れ途遠し、吾が生既に蹉蛇たり」と述べています。(蹉蛇=サダ、不遇で志を遂げられないさま)
確かに、兼好法師の伝記を読みますと、不遇なことが多かったようですが、多くのことを悟りきっているかのように思える人物ですが、それにしても、「生涯が終ろうとしているのに、残していることの多さに茫然としている」様子が伝わってきます。

兼好法師ほどの人物が、「日暮れて道遠し」と語れば、人生の何ぞやを語っているかのように感じてきます。本家本元の伍子胥となりますと、これは、とてもとても凡人の及ぶ次元ではないような気がします。
ひるがえって、年の瀬を迎える感慨に、「日暮れて道遠し、かァ・・」などと悦に入っているのは滑稽そのものかもしれません。
しかし、あと二日で、二度と返ってくることのない今年という年が過ぎ去ろうとしていることは確かです。兼好法師ほどに、やり残したことの多さを嘆くほどの神妙さはありませんし、伍子胥ほどの恨みを抱くものも持っていません。
しかし、過ぎて行く今年とやって来る新しい年の持っている意味は、これらの先人と何ら変らないはずです。新しい年は、レベルはともかくとして、一日一日を真っ正面で受け止めるような日々にしたいと、考えているのですが、さて・・・。 


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