『 正月二日目 早くも・・ 』
正月二日 近くの神社に初詣
古いお札をお返しし 新しいのを頂戴する
あとは ひたすら箱根駅伝を楽しむ
自分まで走っている気持ちに なっているわけではないが
食欲旺盛 正月二日にして 体重はピンチライン・・
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『 萌え出づる春 ・ 万葉集の風景 』
石走る 垂水の上の さわらびの
萌え出づる春に なりにけるかも
作者 志貴皇子
( 巻8 - 1418 )
いはばしる たるみのうえの さわらびの
もえいづるはるに なりにけるかも
歌意は、「 岩の上を力強く流れる 滝の辺りにある わらびの新芽が 萌え出る春になったなあ 」
* 作者の志貴皇子(シキノミコ・668? - 716 )は、天智天皇の第七皇子です。
天智天皇の後継者である大友皇子と大海人皇子(天武天皇)が戦った壬申の乱は 672 年のことなので、志貴皇子はまだ幼く、戦況に影響を与えることはなかったでしょうが、皇位は天武系へと移行しました。
* 679 年、天武天皇が吉野に行幸したとき、妻である後の持統天皇も列席させて、天智・天武の六人の皇子を集めて、皇位をめぐる争いを戒め協力し合うことを誓わせました(吉野の誓い)。志貴皇子も加わっていましたが、これは二人の子である草壁皇子を次期天皇にさせるための宣言のようなものでした。
685 年には、冠位四十八階が定められ、吉野の誓いに参加した皇子たちはそれぞれ叙位を受けましたが、志貴皇子は受けることが出来なかったようです。年齢のためか、それとも何らかの思惑があったのかもしれません。
* 天武・持統朝においては、さしたる官位官職を得ることはなかったようです。これは、天智天皇の皇子であることが警戒されたものか、志貴皇子自身が目立つことを避けた面もあったのかもしれません。
異母姉にあたる元明天皇の御代になって、三品、そして二品と皇族として相応の位を受けていますが、政務に影響を与えるような地位には就いていません。
皇位をめぐる激しい争いは、多くの悲劇を生んでいますが、志貴皇子はそうした修羅場を避け続けた生涯だったのかもしれません。そして、それゆえに和歌などの世界に身を置くことが多かったのでしょうが、掲題の歌に見るように、力強くみずみずしい歌をどのような思いで詠んだのでしょうか。
* しかし、天命はこの皇子に大きな役務を託していたかのように見えます。
志貴皇子が亡くなってから54年後に、子息の白壁王が第四十九代光仁天皇として即位するのです。
実に六十二歳での即位で、これにより、天武天皇から称徳天皇まで九代続いた天武系王朝は終焉を迎え、皇位は再び天智系に戻り現代に伝えられているのです。
泉下の志貴皇子がどうお思いか分りませんが、歴史上大きな意味を担った皇子であったことは確かなことでしょう。
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