雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  淡路の廃帝

2013-05-14 08:00:59 | 運命紀行
          運命紀行

               淡路の廃帝

わが国の歴代天皇には全て諡号があり、従って廃帝は存在しない。
しかし、例えば中国では、歴代のそれぞれの王朝において数多くの廃帝が記録に残されている。中国四千年の歴史などと言うが、わが国の天皇の歴史も二千数百年にも及ぶ。その間に廃帝とされた天皇はいなかったのかといえば、実は二人の天皇が廃帝とされていたのである。
一人は、今回の主役である淡路廃帝と呼ばれた第四十七代淳仁天皇であり、今一人は、九条廃帝と呼ばれた第八十五代仲恭天皇である。
この二人の天皇は、明治天皇により追号されるまでは、廃帝とされていたのである。
なお、廃帝の読みであるが、奈良時代に在位していた淡路廃帝の場合は呉音で「ハイタイ」、鎌倉時代に在位していた九条廃帝の場合は漢音で「ハイテイ」と読む。

仲恭天皇の場合は、満年齢でいえば二歳での即位であり、在位期間も七十日程であり、しかも祖父の後醍醐上皇と父の順徳上皇が承久の乱で鎌倉幕府に敗れ、その首謀者としてそれぞれ流罪になっていることなどを考えれば、ある程度納得できるような気がする。
しかし、淳仁天皇の場合は、在位期間が六年あり廃位とされた時の年齢は三十一歳である。当時の三十一歳は壮年期であり、実質的な政治権力を牛耳る存在はあるとしても、最高権力者の地位である天皇を廃位することなどなぜ出来たのか。天皇位をめぐる争いが激しかった奈良時代とはいえ、相当強力な権力者がいたことになる。

その権力者とは第四十六代孝謙天皇という未婚の女帝である。
この女帝は、淳仁天皇に譲位した後、六年後には再び皇位を奪い取り、第四十八代称徳天皇として重祚しているのである。つまり、淳仁に譲位した後も上皇の地位にあり、淳仁の後は自ら復活するのであるから天皇追放も可能だったと思われるが、それにしても廃帝とするほどの理由なり憎しみなりがあったのだろうか。

一度退位した天皇が再び即位することを重祚(チョウソ)というが、わが国の天皇は今上天皇が百二十五代であるが、この間に重祚しているのは僅か二人に過ぎない。
第三十五代皇極天皇・第三十七代斉明天皇と、孝謙天皇・称徳天皇の二人である。共に女帝であることも共通した理由があるような気もする。
なお、後醍醐天皇の時代、後醍醐天皇が隠岐に流されていた間に光厳天皇が即位しその後後醍醐が復活しているので北朝をベースにすれば重祚とされることもあるようだが、南朝をベースにすれば光厳天皇の即位を認めず継続して後醍醐の在位としている。いずれにしても南北朝という混乱期であり、いわゆる重祚とは少々性格を異にする。

皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御を受けて即位したが、この時二人の皇子である中大兄皇子は十六歳になっていた。皇位に就くには若すぎるということから繋ぎの天皇として皇位に就いたと考えられる。
そして、退位の原因は、中大兄皇子や中臣鎌足らが実力者蘇我入鹿を討ち果たすという政変の収束のためと考えられる。この乙巳の変(イツシノヘン・大化の改新とも)という事件が発生した時には、中大兄皇子は二十歳であるが、なお即位はためらったようである。まだ若いというよりも、事件の首謀者であり、反対勢力の矢面に立つのを避けたかららしい。

そして、次善の策として、皇極の同母弟である孝徳天皇が即位する。
皇極や中大兄にすれば、世間が落ち着くまで皇位を預けたつもりだったと考えられるが、この天皇は様々な改革に熱心であったらしい。都も難波に移すなど中大兄らの思惑を超えた働きをしてしまったようである。
孝徳天皇は九年余の在位の後崩御するが、晩年は中大兄らの嫌がらせにあい、都を倭に戻せという進言を受けなかったため、公卿や官人たちの殆どを難波から引き揚げさせてしまったのである。中大兄のやり方もあくどいが、宮廷勢力はすでに天皇を見限っていたのであろう。

そして、孝徳天皇が失意のうちに崩御すると、皇極上皇が重祚して斉明天皇として再登板するのである。
この時は、中大兄皇子も二十九歳になっており、年齢に不足はないはずであるが即位していない。おそらく、先帝への強引な仕打ちなどに対する風当たりが強く、即位したくても即位できない状態のため、再び母親を重祚という苦肉の策によって風よけとしたと考えられる。
結局、中大兄皇子(後の天智天皇)を皇位に就けるための道具にされた孝徳天皇は哀れといえる。

孝謙天皇は聖武天皇の姫皇子であるが、母親は光明皇后(光明子)である。光明皇后は藤原氏が朝廷の実権を握って行く過程で重要な役割を担った女性であるが、この頃は甥にあたる藤原仲麻呂を後見していた。仲麻呂は、独身天皇孝謙とも極めて親しく、政権の実権を握ろうと模索していた。
孝謙天皇の皇太子には、聖武天皇の遺言により道祖王(フナドオウ・天武天皇の孫)が就いていたが、仲麻呂は、やはり天武の孫にあたる大炊王に立太子させようと画策する。
大炊王は仲麻呂の死んだ長男の未亡人を娶り、仲麻呂の屋敷に住んでいるなど極めて親しい関係にあった。

折から、橘奈良麻呂の乱が勃発し、仲麻呂が鎮圧すると、その計画の中に道祖王が天皇候補となっていることを理由に皇太子を捕縛、獄死に追い込んだのである。
仲麻呂の強い推挙により皇太子となった大炊王は、翌年譲位を受け淳仁天皇が誕生するのである。
わが子同然の天皇が誕生し、孝謙上皇、光明皇后という後見もあり、仲麻呂が朝廷を牛耳ることが出来る体制が整っていった。

淳仁天皇を仲麻呂による傀儡と評する見方もあるようだが、即位の時点で淳仁天皇に仲麻呂に対する不満はなく、実権の所在はいずれにあるとしても、天皇としての政務に大きな支障がない体制が誕生したと考えていたと思うのである。
しかし、先の孝徳天皇と同様に、重祚の女帝に挟まれることになる淳仁天皇には厳しい運命が待ち構えていたのである。
そして、その原因になったのは、傑物ともいえる禅師の登場であった。


     * * *

大炊王(オオイオウ・後の淳仁天皇)は、天平五年(733)に誕生した。
父は天武天皇の六男舎人親王であり、その七男としての誕生である。母は上総守当麻老の娘山背である。
時の天皇は聖武天皇であるが、天智天皇の末裔であり、王族とはいえ天武天皇の孫という血縁的にはかなり遠くなっていた。さらに、父が三歳の頃に没したため官位を与えられることもなく、忘れ去られたような存在であった。
それは、道祖王(フナドオウ)にも、同じようなことがいえる。

しかし、この天武系の王族に転機が訪れるのである。
それは、聖武天皇の皇太子となった基王が夭折してしまったのである。後継者に窮した聖武天皇は娘である安倍内親王に譲位し、崩御の前には道祖王を皇太子とすることを遺言したのである。
聖武天皇没後の朝廷の実力者は光明皇后であった。新しく即位した孝謙天皇は娘であり、実家藤原氏の有望株仲麻呂とともに政権を運営して行っていた。ただ、彼らにとって、皇太子となった道祖王は歓迎されない人物であったらしい。

仲麻呂を中心とした勢力は道祖王を失脚させると、かねてから仲麻呂が手中の玉としていた大炊王を皇太子とし、やがて淳仁天皇が誕生するのである。
淳仁天皇にすれば、皇太子やまして帝位に就くなど望外のことであったし、仲麻呂は後見者ともいえる存在であったので、光明皇后、孝謙上皇、仲麻呂、そして淳仁天皇を中核とする政権運営に不満はなく、安定政権が築かれるはずであった。

しかし、光明皇后が崩御すると微妙な変化が起こり始めた。
実際に政治運営を取り仕切っているのは仲麻呂であったが、それは光明皇后の絶大な後見があったからであった。その後ろ楯を失った仲麻呂に対して専横との声が聞こえ始め、さらに、病気を得た孝謙上皇に看病禅師が付いたことから政権は揺らぎ始めたのである。

看病禅師道鏡は、瞬く間に孝謙上皇の信頼を得ると政治向きにまで口を挟むようになっていった。
孝謙と道鏡の関係に良からぬ噂も立つようになり、何よりも自らの影響力低下を恐れた仲麻呂は淳仁天皇を通じて諫言すると、かえって事態は悪化してしまった。
「今後は、国政に関して、天皇は常の祀りと小事の裁決を、国家の大事と賞罰は、上皇が行う」という宣命を発してしまったのである。

ここに、上皇・道鏡勢力と天皇・仲麻呂勢力は決裂し、仲麻呂は挙兵したのである。しかし、軍事面での鍵を握る藤原一族は上皇方に味方したため仲麻呂軍は敗退し、琵琶湖で斬殺されてしまったのである。
この時淳仁天皇は都に居り反乱軍には加わっておらず、天皇であれば多少の兵力は有していたはずであるが、全く戦っていないようなである。天皇と仲麻呂は必ずしも一体ではなかったのかもしれない。
しかし、反乱の罪は厳しく追及された。上皇軍に連行された上、「仲麻呂と共に上皇排除を企てた罪により、親王に戻し淡路公とする」との上皇の詔が告げられ、そのまま馬で配流の旅に追い立てられてしまったのである。
院政というものが行われるのはずっと後のことであるが、この当時でも上皇の権力は天皇を上回っていたのである。

淡路島に送られた淳仁は淡路公として一院に幽閉されたようである。
親王としての身分は残されていたが、実質的には囚人並の幽閉生活であった。その場所ははっきりとしてはいないが、有力な豪族なり地方官が監視にあたったと考えられる。
一方、孝謙上皇は、重祚して称徳天皇となる。
先の皇極の重祚は、中大兄皇子に対する悪評の静まる時間を待つためのものだったと考えられるが、孝謙の場合は、道鏡を皇位に就けるための画策を図るためであったと思われるのである。
このあたりのことについては、多くの研究者の意見があり小説の題材にもなっている。真実がどれなのかは分からないが、現在私などが入手できる資料によれば、どうもそのように見えてくるのである。
どちらにしても、重祚というものの陰には、あまり明るいものは見えてこないのである。

幽閉の身となった淳仁のもとへは、都から訪ねてくる人が後を絶たなかった。
淳仁や仲麻呂に同情的な人たちもいたし、道鏡の台頭とともに政治を刷新させたい勢力も台頭していたようである。
新天皇方もその情報は掴んでおり、監視体制を強めていっていた。
廃位にされた次の年、天平神護元年(765)十月、淳仁は脱出を図る。
監視体制が身に危険が及ぶほど厳しいものになったためなのか、新政権の横暴を抑えるために決起を図ったものなのか、その理由は分からないが、淳仁自らの意思での脱出であった。
しかし、計画は失敗に終わり、淡路守の軍勢に捕らえられ、翌日には亡くなっている。「自ら命を失ひうせ給にき」といった記録があるが、自殺に追い込まれたものと思われる。
享年三十三歳。痛ましい最期である。

やがて称徳天皇も目的を果たせないままに没し、次に立った光仁天皇の二年目、ある事件を淡路に流された廃帝の祟りと受け止め、淡路に広大な陵墓を築かせたという。
そしてまた、淡路の廃帝と言われていた悲運の天皇は、明治三年(1870)に明治天皇によって淳仁天皇と諡号されたのである。
淡路島に無念の涙と共に散った淳仁天皇の御陵などの遺跡は、千三百年を過ぎた今も、南あわじ市を中心に幾つも残され、語り継がれているという。

                                      ( 完 )




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