運命紀行
流れゆくままに
飛鳥から平城京に都が置かれた時代の王権をめぐる争いは極めて激しく、その争いの陰には多くの人々の犠牲が積み上げられている。
それは、王族に生まれた人も同様で、あるいは、むしろそれがゆえの悲劇も数多く見られる。
飛鳥時代と呼ばれるのは、第三十二代崇峻天皇五年(592)から和銅三年(710)までの飛鳥に都が置かれていた百十八年間を指す。
また、その後に続く奈良時代は、一般的には第四十三代元明天皇が和同三年に平城京に遷都してから第五十代桓武天皇によって京都に平安京が開かれる延暦十三年(794)までの八十四年間を指す。
厳密に言えば、途中一時的に都が移された期間があるし、特に桓武天皇が延暦三年(784)に長岡京に都を移した以降は奈良時代とするのは不自然とする意見もあるようだ。
なお、奈良時代という呼び方は、平城京のことを奈良の都と呼んだことに基づいている。
いずれにしても、飛鳥および平城京に王権勢力の中心があったおよそ二百年間は、王族や新旧豪族の激突の激しい時代であった。
もっとも、例えば継体天皇が登場したような大幅な王権の変動など、古い時代にも激しい戦いはあったと考えられるが、ある程度正当性の高い記録が残されている量が飛鳥の頃から増えてきているので、私たちに伝えられる戦乱や悲劇の数々に迫真性が高く感じられるためと思われる。
権力をめぐる戦いは、その権力の大小にかかわらず、激しい戦いとその裏にある悲劇は避けることのできないものであるようだ。
今回のヒロインである不破内親王も、まさに、王族に生まれたがゆえに、激しい権力闘争の波に翻弄され続ける生涯を送った女性であった。
不破内親王は第四十五代聖武天皇の皇女として誕生した。母は、県犬養広刀自である。
不破内親王の正確な生没年は不詳である。姉である井上内親王の生年が西暦717年、弟である安積王の生年が西暦728年という記録などを信用するとすれば、その間、つまり神亀元年(724)前後ということにはなる。
異母姉妹に阿倍内親王(後の孝謙天皇、重祚後は称徳天皇)がいるが、彼女の母親は藤原氏の光明皇后であり、着々と朝廷の実権を手中に収めようとしていた光明皇后勢力にとっては、県犬養広刀自の子供たちは男女に問わず目障りな存在であったことは間違いあるまい。
これも時期が分からないが、不破内親王は塩焼王と結婚している。その後二人の間には数人の子供が生まれている。
塩焼王は天武天皇の孫にあたる血統であるが、天智系が皇位を繋いでいるこの頃は天武系の王は皇位とは縁のない存在であった。
本来ならば、不破内親王は皇位争いなどから遠く離れた場所で、数人の子供に囲まれて穏やかな生涯を送っていたはずなのである。
しかし、そのような平安は不破内親王には用意されていなかった。いや、それは不破内親王ばかりでなく、県犬養広刀自の井上内親王・不破内親王・安積王の三人の子供には過酷すぎる生涯が用意されていたのである。
塩焼王についても、その生年が不詳であるが、天平四年(732)に初めて従四位下が授けられているので、不破内親王とそれほど大きな年齢差はなかったように思われる。二人が結ばれた経緯などは全く分からないが、天武系の皇位争いには縁遠い王と、光明皇后からは遠ざけたいはずの内親王は、格好の夫婦だったのかも知れなかった。
そうだとすれば、皇位争いなどとは縁がなくとも、穏やかな生涯を送れるはずの不破内親王の人生を苦難へと導いた第一の原因は、基王の死去であった。
朝廷内での影響力を高めていた光明皇后の悩みの種は皇子を儲けることが出来なかったことであった。
しかし、ついに神亀四年(727)に待望の皇子が誕生した。基王(名前については他説もある)である。
基王は、生後三十二日目には皇太子になったとも伝えられているが、翌年には満一歳の誕生日を前にして他界してしまったのである。
聖武天皇の落胆は大きく、光明皇后の落胆はさらに大きかった。その上翌年には、不破親王の弟にあたる安積王が誕生しているので、光明皇后の落胆は危機感へと膨れ上がっていった。
その後も光明皇后に皇子の誕生はなく、安積王が成長するにつけ光明皇后とその威光を受けて権力を高めていた藤原仲麻呂らは危機感を募らせていった。そして、その対策として実行されたのが、阿倍内親王を聖武天皇の後継者とすることであった。
天平勝宝元年(749)聖武天皇は譲位し独身女性天皇である第四十六代孝謙天皇が誕生する。そして、皇太子には天武系の道祖王(フナドオウ)を就けたのである。本当なら聖武天皇の皇子である安積王が天皇なり皇太子なりに就くべきと考えられるが、安積王は天平十六年(744)に十七歳で急死していたのである。
脚気による病死ともいわれているが、仲麻呂らによる毒殺説も根強い。
この道祖王というのは塩焼王の弟である。天武系であり、何かと問題の多い塩焼王の弟であることから、皇位からは遥かに遠い存在で世間から忘れられたような人物が皇太子として登場してきたのである。
そして、同時に、塩焼王の存在も、皇位継承をめぐる政争の中で大きな意味を持ち始めるのである。
その大きな渦は、不破内親王にも当然のように襲いかかってくるのである。
* * *
不破内親王の夫である塩焼王という人は、なかなか激しい人物であったらしい。
いくら皇位争いから遠のいているとはいえ、天武天皇の孫であり、妻は聖武天皇の内親王であるから、自ら、あるいは子供を皇位に就けるのに何の支障もない地位にあることは確かであった。本人の意思もさることながら、然るべき野心を抱く人物にとっては担ぎ上げたい存在であったことは間違いない。
それにしても、多くの争乱に関わっているのである。
天平十四年(742)に逮捕され、官位を剥奪され伊豆国に流されている。
罪状ははっきりしないが、皇位に関わる政争に巻き込まれたものらしい。後に塩焼王にも立太子という話が持ち上がったことがあり、孝謙天皇が強く反対したがその理由として「聖武太上天皇に対して無礼を働いたため」とされているが、この事件の時の事であったらしい。
この時も塩焼王の年齢は当然不詳であるが、例えば二十五歳前後だと仮定すれば、すでに不破内親王と結婚していたと考えられる。不破内親王は一度内親王の身分を剥奪されたらしいが、もしかするとこの時連座したものかもしれない。
この時の流罪は天平十七年に赦免を受け、翌年にはもとの正四位下に復している。
その後も、弟の道祖王が皇太子の座を追われるという事件があり、さらに仲麻呂と対立していた橘奈良麻呂が討たれる事件が起こるが、この事件にも関わりがあったようだ。
これらの事件では、特別罪を受けていないようであるが、政権側にとっては危険人物ともいえる存在だったようである。
しかし、天平宝字二年(758)に氷上真人の氏姓を与えられて皇族を離れた頃から仲麻呂と親しい関係となり、従三位、そして参議と昇進し、天平宝字六年には中納言に昇っている。
もしかすると、不破内親王にとって、この頃が一番平安な日々だったのかもしれない。
やがて仲麻呂は、最大の後見者であった光明皇后の死去や道鏡の出現により孝謙天皇と対立するようになり、ついに謀反を起こし滅亡する。塩焼王は仲麻呂と行動を共にし琵琶湖畔で斬殺されている。天平宝字八年(764)のことである。
未亡人となった不破内親王は、何歳ぐらいになっていたのだろう。おそらく四十歳前後であったと考えられる。
この事件でも不破内親王は連座となり、親王としての身分を削られている。
それから五年後、今度は不破内親王自身が呪詛の罪で逮捕されてしまう。
不破内親王の長男の志計志麿を皇位に就けるために称徳天皇(孝謙が重祚)を呪い殺そうとしたというのである。当時、呪詛は大罪であった。大変恐れられていたし効果があるものと信じられていたのである。
不破内親王は名前を厨真人厨女という名前に変えられ、都から追放されたのである。長男の志計志麿は土佐に流されている。
厨真人厨女というのは、料理を作っている女とでもいった意味らしく、変な画策などせずに料理でも作っていろ、とでもいうことだったのだろう。追放されている間どこにいたかは不詳である。
どうやらこの事件は冤罪だったようであるが、翌年称徳女帝が没すると赦免となり早々に都に戻り内親王に復帰している。
称徳の後に即位した光仁天皇の皇后は不破内親王の姉の井上皇后であったことも、早期赦免の一助になっていた可能性がある。
ところが、その二年後には、井上皇后と皇太子が投獄され獄死するという事件が起きている。
そして、それかに七年ほど経った延暦元年(782)に、息子の因幡守氷上川並の謀反が露見して逃亡、大和国で捕らえられるという事件が発生した。桓武天皇即位に絡む不満からのようであるが、川並は伊豆国三島への流罪となった。
不破内親王も、謀反人の母として淡路島への流罪となっている。おそらく六十歳に近い年であったと思われる。
その十年後には、獄死した井上皇后の祟りを恐れた桓武天皇の命で和泉国に移されている。そして、それが最後の消息である。赦免されたという記録はなく、おそらくその地で没したものと思われる。
息子の川波は、さらに十三年後の延暦二十四年(805)に赦免となり、翌年には従五位下に復帰している。その後、典薬頭や伊豆守に就任している。
長男の志計志麿の消息は、土佐に流されたまま消えてしまっている。母の不破内親王はすぐ赦免されているのに志計志麿の赦免は伝えられていない。当地で没したのかもしれないし、赦免の記録が伝えられていないのかもしれない。
ただ、志計志麿と川並とを同一人物とする説が根強くある。実際に二人が同時に登場してくる場面がないのである。個人的には同一人物という説を取りたい。
六十歳近くになって淡路島に流された不破内親王。そして、その後の十数年、あるいはそれ以上の期間は流罪人としての生活を強いられている。
ただ、淡路に流される時には娘たちも一緒だったと伝えられている。
いくら内親王という身であったとしても、流罪人としての生活は決して楽なものではなかったかもしれないが、娘たちと共に生活を送っていたとすれば、権謀が渦巻く都での親王家としての生活よりも、娘と過ごす流罪地の生活の方がずっと充実していたかもしれない。
きっと、生涯で最も平安な晩年であった、と思いたいのである。
( 完 )
流れゆくままに
飛鳥から平城京に都が置かれた時代の王権をめぐる争いは極めて激しく、その争いの陰には多くの人々の犠牲が積み上げられている。
それは、王族に生まれた人も同様で、あるいは、むしろそれがゆえの悲劇も数多く見られる。
飛鳥時代と呼ばれるのは、第三十二代崇峻天皇五年(592)から和銅三年(710)までの飛鳥に都が置かれていた百十八年間を指す。
また、その後に続く奈良時代は、一般的には第四十三代元明天皇が和同三年に平城京に遷都してから第五十代桓武天皇によって京都に平安京が開かれる延暦十三年(794)までの八十四年間を指す。
厳密に言えば、途中一時的に都が移された期間があるし、特に桓武天皇が延暦三年(784)に長岡京に都を移した以降は奈良時代とするのは不自然とする意見もあるようだ。
なお、奈良時代という呼び方は、平城京のことを奈良の都と呼んだことに基づいている。
いずれにしても、飛鳥および平城京に王権勢力の中心があったおよそ二百年間は、王族や新旧豪族の激突の激しい時代であった。
もっとも、例えば継体天皇が登場したような大幅な王権の変動など、古い時代にも激しい戦いはあったと考えられるが、ある程度正当性の高い記録が残されている量が飛鳥の頃から増えてきているので、私たちに伝えられる戦乱や悲劇の数々に迫真性が高く感じられるためと思われる。
権力をめぐる戦いは、その権力の大小にかかわらず、激しい戦いとその裏にある悲劇は避けることのできないものであるようだ。
今回のヒロインである不破内親王も、まさに、王族に生まれたがゆえに、激しい権力闘争の波に翻弄され続ける生涯を送った女性であった。
不破内親王は第四十五代聖武天皇の皇女として誕生した。母は、県犬養広刀自である。
不破内親王の正確な生没年は不詳である。姉である井上内親王の生年が西暦717年、弟である安積王の生年が西暦728年という記録などを信用するとすれば、その間、つまり神亀元年(724)前後ということにはなる。
異母姉妹に阿倍内親王(後の孝謙天皇、重祚後は称徳天皇)がいるが、彼女の母親は藤原氏の光明皇后であり、着々と朝廷の実権を手中に収めようとしていた光明皇后勢力にとっては、県犬養広刀自の子供たちは男女に問わず目障りな存在であったことは間違いあるまい。
これも時期が分からないが、不破内親王は塩焼王と結婚している。その後二人の間には数人の子供が生まれている。
塩焼王は天武天皇の孫にあたる血統であるが、天智系が皇位を繋いでいるこの頃は天武系の王は皇位とは縁のない存在であった。
本来ならば、不破内親王は皇位争いなどから遠く離れた場所で、数人の子供に囲まれて穏やかな生涯を送っていたはずなのである。
しかし、そのような平安は不破内親王には用意されていなかった。いや、それは不破内親王ばかりでなく、県犬養広刀自の井上内親王・不破内親王・安積王の三人の子供には過酷すぎる生涯が用意されていたのである。
塩焼王についても、その生年が不詳であるが、天平四年(732)に初めて従四位下が授けられているので、不破内親王とそれほど大きな年齢差はなかったように思われる。二人が結ばれた経緯などは全く分からないが、天武系の皇位争いには縁遠い王と、光明皇后からは遠ざけたいはずの内親王は、格好の夫婦だったのかも知れなかった。
そうだとすれば、皇位争いなどとは縁がなくとも、穏やかな生涯を送れるはずの不破内親王の人生を苦難へと導いた第一の原因は、基王の死去であった。
朝廷内での影響力を高めていた光明皇后の悩みの種は皇子を儲けることが出来なかったことであった。
しかし、ついに神亀四年(727)に待望の皇子が誕生した。基王(名前については他説もある)である。
基王は、生後三十二日目には皇太子になったとも伝えられているが、翌年には満一歳の誕生日を前にして他界してしまったのである。
聖武天皇の落胆は大きく、光明皇后の落胆はさらに大きかった。その上翌年には、不破親王の弟にあたる安積王が誕生しているので、光明皇后の落胆は危機感へと膨れ上がっていった。
その後も光明皇后に皇子の誕生はなく、安積王が成長するにつけ光明皇后とその威光を受けて権力を高めていた藤原仲麻呂らは危機感を募らせていった。そして、その対策として実行されたのが、阿倍内親王を聖武天皇の後継者とすることであった。
天平勝宝元年(749)聖武天皇は譲位し独身女性天皇である第四十六代孝謙天皇が誕生する。そして、皇太子には天武系の道祖王(フナドオウ)を就けたのである。本当なら聖武天皇の皇子である安積王が天皇なり皇太子なりに就くべきと考えられるが、安積王は天平十六年(744)に十七歳で急死していたのである。
脚気による病死ともいわれているが、仲麻呂らによる毒殺説も根強い。
この道祖王というのは塩焼王の弟である。天武系であり、何かと問題の多い塩焼王の弟であることから、皇位からは遥かに遠い存在で世間から忘れられたような人物が皇太子として登場してきたのである。
そして、同時に、塩焼王の存在も、皇位継承をめぐる政争の中で大きな意味を持ち始めるのである。
その大きな渦は、不破内親王にも当然のように襲いかかってくるのである。
* * *
不破内親王の夫である塩焼王という人は、なかなか激しい人物であったらしい。
いくら皇位争いから遠のいているとはいえ、天武天皇の孫であり、妻は聖武天皇の内親王であるから、自ら、あるいは子供を皇位に就けるのに何の支障もない地位にあることは確かであった。本人の意思もさることながら、然るべき野心を抱く人物にとっては担ぎ上げたい存在であったことは間違いない。
それにしても、多くの争乱に関わっているのである。
天平十四年(742)に逮捕され、官位を剥奪され伊豆国に流されている。
罪状ははっきりしないが、皇位に関わる政争に巻き込まれたものらしい。後に塩焼王にも立太子という話が持ち上がったことがあり、孝謙天皇が強く反対したがその理由として「聖武太上天皇に対して無礼を働いたため」とされているが、この事件の時の事であったらしい。
この時も塩焼王の年齢は当然不詳であるが、例えば二十五歳前後だと仮定すれば、すでに不破内親王と結婚していたと考えられる。不破内親王は一度内親王の身分を剥奪されたらしいが、もしかするとこの時連座したものかもしれない。
この時の流罪は天平十七年に赦免を受け、翌年にはもとの正四位下に復している。
その後も、弟の道祖王が皇太子の座を追われるという事件があり、さらに仲麻呂と対立していた橘奈良麻呂が討たれる事件が起こるが、この事件にも関わりがあったようだ。
これらの事件では、特別罪を受けていないようであるが、政権側にとっては危険人物ともいえる存在だったようである。
しかし、天平宝字二年(758)に氷上真人の氏姓を与えられて皇族を離れた頃から仲麻呂と親しい関係となり、従三位、そして参議と昇進し、天平宝字六年には中納言に昇っている。
もしかすると、不破内親王にとって、この頃が一番平安な日々だったのかもしれない。
やがて仲麻呂は、最大の後見者であった光明皇后の死去や道鏡の出現により孝謙天皇と対立するようになり、ついに謀反を起こし滅亡する。塩焼王は仲麻呂と行動を共にし琵琶湖畔で斬殺されている。天平宝字八年(764)のことである。
未亡人となった不破内親王は、何歳ぐらいになっていたのだろう。おそらく四十歳前後であったと考えられる。
この事件でも不破内親王は連座となり、親王としての身分を削られている。
それから五年後、今度は不破内親王自身が呪詛の罪で逮捕されてしまう。
不破内親王の長男の志計志麿を皇位に就けるために称徳天皇(孝謙が重祚)を呪い殺そうとしたというのである。当時、呪詛は大罪であった。大変恐れられていたし効果があるものと信じられていたのである。
不破内親王は名前を厨真人厨女という名前に変えられ、都から追放されたのである。長男の志計志麿は土佐に流されている。
厨真人厨女というのは、料理を作っている女とでもいった意味らしく、変な画策などせずに料理でも作っていろ、とでもいうことだったのだろう。追放されている間どこにいたかは不詳である。
どうやらこの事件は冤罪だったようであるが、翌年称徳女帝が没すると赦免となり早々に都に戻り内親王に復帰している。
称徳の後に即位した光仁天皇の皇后は不破内親王の姉の井上皇后であったことも、早期赦免の一助になっていた可能性がある。
ところが、その二年後には、井上皇后と皇太子が投獄され獄死するという事件が起きている。
そして、それかに七年ほど経った延暦元年(782)に、息子の因幡守氷上川並の謀反が露見して逃亡、大和国で捕らえられるという事件が発生した。桓武天皇即位に絡む不満からのようであるが、川並は伊豆国三島への流罪となった。
不破内親王も、謀反人の母として淡路島への流罪となっている。おそらく六十歳に近い年であったと思われる。
その十年後には、獄死した井上皇后の祟りを恐れた桓武天皇の命で和泉国に移されている。そして、それが最後の消息である。赦免されたという記録はなく、おそらくその地で没したものと思われる。
息子の川波は、さらに十三年後の延暦二十四年(805)に赦免となり、翌年には従五位下に復帰している。その後、典薬頭や伊豆守に就任している。
長男の志計志麿の消息は、土佐に流されたまま消えてしまっている。母の不破内親王はすぐ赦免されているのに志計志麿の赦免は伝えられていない。当地で没したのかもしれないし、赦免の記録が伝えられていないのかもしれない。
ただ、志計志麿と川並とを同一人物とする説が根強くある。実際に二人が同時に登場してくる場面がないのである。個人的には同一人物という説を取りたい。
六十歳近くになって淡路島に流された不破内親王。そして、その後の十数年、あるいはそれ以上の期間は流罪人としての生活を強いられている。
ただ、淡路に流される時には娘たちも一緒だったと伝えられている。
いくら内親王という身であったとしても、流罪人としての生活は決して楽なものではなかったかもしれないが、娘たちと共に生活を送っていたとすれば、権謀が渦巻く都での親王家としての生活よりも、娘と過ごす流罪地の生活の方がずっと充実していたかもしれない。
きっと、生涯で最も平安な晩年であった、と思いたいのである。
( 完 )