雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  荒ぶる魂

2013-06-01 08:00:24 | 運命紀行
          運命紀行
               
               荒ぶる魂


『 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われてもすゑにあはんとぞ思ふ 』

これは、小倉百人一首の第七十七番歌である。
「いかなる障害や世間の荒波に邪魔されて、たとえ今離れ離れになっても、いつか必ず一緒になろう」といった意味の、激しい恋の歌といえる。
作者は崇徳院、すなわち第七十五代崇徳天皇である。
崇徳院は、ある時期はわが国の歌壇を牽引した人物であり、第六番目の勅撰和歌集である「詞花和歌集」を撰進した天皇である。
小倉百人一首にあるこの和歌は、その内容の切なさや激しさゆえに、人気の高い札の一つといえよう。
しかし、崇徳院の生涯は、この恋歌を遥かに超える激しいものであり、実に切ないものだったのである。

崇徳院は、元永二年(1119)五月、第七十四代鳥羽天皇の第一皇子として誕生した。母は中宮藤原璋子(ショウシ・後の待賢門院)である。
誕生間もない七月には親王宣下を受け、保安四年(1123)一月二十八日に皇太子となり、その日のうちに践祚を受けている。僅か五歳の天皇誕生である。
このあたりのことについては、本人の意向とは全く関係なく進められていることであって、若くして聡明であったとか云々ということが有るにしろ無いにしろ、父鳥羽天皇、あるいは曾祖父の白河法皇の思惑通りの筋書きであったと考えられる。
つまり、崇徳院は、生まれながらにしての天皇候補であり、それに不足のない皇子であったと考えられるのである。

ただ、事はそれほど単純なものではなかった。
崇徳院が父から践祚を受けた時の政治を取り仕切っていた、いわゆる治天の君は白河法皇であった。従って、鳥羽天皇から崇徳天皇への譲位は、鳥羽天皇の意向は無視されて白河法皇が仕切ったものと考えられる。なにせ、鳥羽天皇はこの時まだ二十一歳だったからである。
鳥羽天皇が即位したのも五歳の時であるが、この時は父堀河天皇の崩御によるものであった。五歳から二十一歳まで、丸十五年余り天皇位にあったが、政(マツリゴト)の全ては祖父白河法皇が牛耳っており、こと政に関してはほとんど何もできなかったのである。
しかも、上皇となった鳥羽院は院政を行うにも、白河法皇は厳然と存在しており鬱々とした状態であったことは想像できる。

さらに、白河・鳥羽・崇徳の三人には、重大な秘密があったとも伝えられたいる。
鳥羽院は、かねてから崇徳院のことを「叔父子」と呼んでいたというのである。叔父子とは祖父の子という意味である。つまり、崇徳院の父親は白河法皇だということになるのである。
崇徳院の母藤原璋子は白河法皇の猶子(養女)として鳥羽院のもとに入内しているが、その前から白河法皇の寵愛を受けていたというのである。
この時代を舞台とした小説などに、このたりのことが興味深く描かれていることが多いが、叔父子に関する記録は限定的なもので、絶対に真実だと断言出来るものではないらしい。

ただ、鳥羽院と崇徳院の確執が激しかったことは事実らしい。
その原因の一つは、鳥羽院の愛情が、璋子から得子(トクコ・後の美福門院)に移っており、得子の生んだ皇子を皇位につけたいと画策し始めたことにある。
この種の争いは歴史上数多く見られることであり、それにしても父と子が武力でもって激しく戦うなどということの原因となるのか疑問があり、その観点からも「叔父子」という秘密は原因としては不足がなく強調されやすい一面を持っている。

それでも、白河法皇が健在な間は確執は表面化しなかったが、六年後に白河法皇が亡くなり、鳥羽院が院政を始めると崇徳院に圧力をかけ得子の生んだ躰仁(ナリヒト)親王が三歳になると譲位させてしまったのである。
崇徳院は二十三歳という若さで上皇となるが、父の鳥羽院と同じような皇位継承であるともいえた。
問題は、躰仁親王は崇徳院の中宮聖子の養子となっており皇太子からの践祚と思われていたが、譲位の宣命には皇太弟と記されていたのである。実は、政が院政として行われていた時代、天皇が子供である場合は院政を行うことが出来たが、弟ということになればそれは望めないのである。
この譲位により両者の対立は決定的となり、崇徳院は鳥羽田中殿に移り新院と呼ばれるようになる。

崇徳院には不満の譲位であったが、しばらくは平穏な時期が続いた。
新帝近衛天皇はまだ幼くしかも病弱でもあったので、継嗣を儲けることなく退位というような状態が起これば崇徳院の皇子重仁親王が後継者という可能性もあることから、もっぱら和歌の道に没頭しようとしていたようである。
また、鳥羽院も、治天の君として絶対権力を掌握していたが、近衛天皇の朝覲行幸(チョウキンギョウコウ・天皇が父母あるいはそれに準ずる太上天皇・女院に拝礼することを目的とする行幸)に際して、美福門院と共に崇徳院を臨席させているし、重仁親王を美福門院の養子にして将来に含みを持たせるなど、表面的には深刻な関係には見えない。

しかし、久寿二年(1155)七月、近衛天皇が十七歳で崩御すると、後継天皇をめぐって二人は激しく対立する。結局崇徳院の願いは叶えられず、崇徳院の同母弟である雅仁親王が立太子することなく即位することとなった。後白河天皇である。
しかも、後白河天皇の皇子であり美福門院の養子になっていた守仁親王が立太子したことで、重仁親王の皇位への望みは完全に断たれてしまったのである。
近衛天皇の後継には重仁親王が一番有力であったはずだが、鳥羽院や美福門院は、近衛天皇崩御の原因は、崇徳院に近い藤原頼長による呪詛と信じていたことが、重仁親王を除いた原因らしい。
ここに、崇徳院が絶望と共に武力を持ってしても皇位奪還を決意した可能性は否定できない。

折から、前関白藤原忠実家も異腹の兄弟である関白藤原忠通と左大臣藤原頼長が対立していた。
崇徳院は忠通の娘聖子を妻に迎えており、本来は有力な味方であるはずなのだが、聖子に子供が生まれず女房・兵衛佐局が重仁親王を生んだことから、忠通・聖子親子とは仲が悪くなり、この頃には忠通からは敵視されるような状態にあった。
また、このところ台頭を見せていた武士階層も、平氏・源氏それぞれが内部対立を起こしていた。

保元元年(1156)七月二日、鳥羽院が崩御すると、事態は急変する。
鳥羽院の臨終の頃見舞いに訪れた崇徳院は後白河天皇の側近らに面会を拒絶され、憤然と鳥羽田中殿に引き上げていった。
これを挙兵の合図と取ったのか、天皇方の動きは激しくなり、五日には「上皇(崇徳院)左府(頼長)同心して軍を発し、国家を傾けんとす」という噂が流された。
八日には、はや小競り合いが起こり、九日の夜中には、身の危険を感じた崇徳院は僅かな側近とともに鳥羽田中殿を脱出し、洛東白河にある同母妹の統子内親王の御所に逃げ込んだ。
翌日には、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳院の側近である藤原教長が駆けつけ、源為義、平家広、平忠平らが集結する。

院政を行えなかった上皇と天皇とでは公家勢力にも差があったが、平清盛や源義朝など源平の主力を味方につけた天皇方が武力面で圧倒的に優勢であった。
十一日の未明、天皇方は白河北殿に夜襲をかけ、屋敷は炎上する。崇徳院は脱出し行方をくらますが、頼長は敗死する。
十三日に、崇徳院は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼するも拒絶され、幽閉状態となる。
二十三日、崇徳院は数十人の武士に囲まれた粗末な網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐国に送られたのである。

武士台頭の切っ掛けになったとされる保元の乱は、天皇方の圧倒的な勝利で幕を閉じる。
天皇あるいは上皇の配流は、淳仁天皇が淡路に流されて以来四百年ぶりの出来事であった。


     * * *

崇徳院の讃岐国での配所は、現在の坂出市にあたる。
最初の三年間ほどは長命寺という寺院で過ごし、その後木の丸殿に移された。
木の丸殿は仮御所ということになるが、粗末な造りの獄舎に近いものであったらしい。

崇徳院は軟禁生活の中て、仏教に深く傾倒してゆき、五部大乗経の写本作りに専念した。血で書かれたものともいわれる壮絶な写本は、戦死者の供養と反省の証として京都の寺院に納めて欲しいと朝廷に差し出したが、呪詛が込められていることを懸念した後白河院は拒絶した。
送り返されてきた写本を前に激怒した崇徳院は、舌を噛み、流れ出る血潮で、
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」
「この経を魔道に回向す」
と、写本に書き加えたという。
この後は、爪も髪も伸ばし続け、夜叉のような姿となり、後に生きながらにして天狗になったともいわれている。

以上は、「保元物語」をベースに、近世文学などで描かれている崇徳院の姿である。
どこまでが事実であるかは確認できないが、崇徳院が怖れられ敬われることになるのは、これから後のことなのである。

崇徳院が亡くなったのは、配流九年目の長寛二年(1164)八月二十六日のことである。享年四十六歳であった。
保元の乱が終結した後、崇徳院は罪人として扱われていた。崩御した時も、後白河院は「服喪の必要なし」として、その死を全く無視したのである。葬儀も、国司によって執り行われただけで、朝廷は全く関与していなかった。
さらに、配流となっていた藤原教長らが帰京が許された後も罪人としての扱いに変わりがなかった。

しかし、やがて京都の人々は、事の重大さに気付き始めるのである。
安元二年(1176)、建春門院(平滋子、後白河妃)、高松院(妹子内親王、後白河の皇子二条天皇の中宮)、六条院(六条天皇、後白河の孫)、九条院(藤原呈子、近衛天皇の中宮)など、後白河法皇や藤原忠通に近い人物が次々と死去したことから、崇徳院や藤原頼長の祟りではないかという噂が誰からとなく語られるようになったのである。
そして、翌安元三年になると、延暦寺の強訴、大火、鹿ケ谷の陰謀など都を揺るがせるような大事が次々と起こったのである。この頃になると、多くの公卿たちが崇徳院や頼長の怨霊の祟りではないかと、日記に書き残している。

寿永三年(1184)、かつて崇徳院の側近であった藤原教長は、悪霊とされている崇徳院と頼長の霊を神霊として祀るべきと主張を始め、精神的に追い込まれていた後白河法皇は受け入れたのである。
後白河法皇は、怨霊鎮魂のため、崇徳院らを罪人とした保元の宣命を破却し、讃岐院とされていた院号を崇徳院に改め、頼長には正一位太政大臣が追贈されたのである。
さらに、保元の乱の戦場であった春日河原に崇徳院廟(後の粟田宮)を設置している。

しかし、崇徳院にまつわる怨霊伝説や、逆に守護神としての言い伝えは、後々の世まで発生しているである。
近くは、明治天皇は慶応四年(1868)八月、即位の礼を執り行うにあたって、勅使を讃岐に遣わして崇徳院の御霊を京都に帰還申し上げて白峰神宮を創建しているのである。

わが国史上最強の怨霊とさえ称せられる崇徳院とは、本当はどういう人物であったのだろうか。
崇徳院イコール怨霊のイメージが極めて強いが、「今鏡」という書物には、恨みや怒りの話は少なく、寂しく絶望の中で病を得て没したという内容が書かれているそうである。

『 思ひやれ都はるかにおきつ波 立ちへだてたるこころぼそさを 』
『 花は根に鳥はふる巣にかへるなり 春のとまりを知る人ぞなき 』
この二首も崇徳院の作品である。
冒頭にある激しい恋の歌と、そこはかとなく寂しさが漂っているような二首を見る限り、何とも親しみを感じる人柄のように思えてくるのである。

何人をも恐怖のどん底に陥れる怨霊崇徳院の魅力は捨て難いが、温かみや弱さを感じさせる一面も、崇徳院は持っていたのではないだろうか。

                               ( 完 )


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