雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  悲運の姉妹

2013-06-07 08:00:28 | 運命紀行
          運命紀行
   
               悲運の姉妹

現在、私たちが古代の歴史を学ぼうとした場合、その中心が天皇並びにその周辺になることは避けることが出来ない。残されている資料の大半が王権周囲に集中しているからである。その真偽のほどは別にしてではあるが。

そして、皇位継承に関しては、有力氏族や皇族関係者の利害や思惑が激しくせめぎ合っているのである。
親から子へのごく自然な継承であっても、その陰にはやはり相当の権力闘争が秘められていることが多い。
従って、継承にあたって大きな変動を伴う場合、例えば継体天皇の登場などはその最たるものであるが、激しい権力闘争があったと考えられる。そして、皇位継承に激しい変化が見られる時、その陰にある悲劇もまた凄惨なものになりがちである。
都が、飛鳥・奈良周辺から京都へと移った時代も、その激しい変化を見せた時といえる。
聖武天皇の皇女として誕生した井上内親王と不破内親王の姉妹は、皇女であったがゆえに、そして激しい歴史の転換点にあっただけに、悲劇の舞台に立たされてしまったのである。
今回の主人公は、この井上内親王である。

井上(イガミ/イノエ)内親王は、養老元年(771)聖武天皇の第一皇女として誕生した。母は県犬養広刀自で、同母の弟妹に安積親王と不破内親王が誕生するが、いずれも悲運な生涯を送っている。
同じ聖武天皇の皇女で、後に孝謙天皇となる阿倍内親王は一歳年下である。本来なら、長女である井上内親王が皇位についても不思議がないのだが、阿倍内親王の生母は宮廷に強い影響を持っている藤原一族の安宿媛(光明皇后)であった。生母の違いが、内親王たちの生涯を大きく変えていったのである。

養老五年(721)九月、五歳で伊勢神宮の斎宮に卜定され、六年後に伊勢に下向した。
伊勢斎宮は皇女から選任されるのだが、第一皇女である井上内親王が卜定された背景には、光明皇后を支援する勢力の意向が働いていたかもしれない。
井上内親王が斎宮の職を解かれるのは、天平十六年(744)一月のことで、すでに二十八歳になっていた。しかも、その解職の理由は、弟の安積親王の死去によるもので、何ともいたわしいものであった。

京都に戻った井上内親王は、やがて結婚する。
正確な時期が今一つはっきりしないが、次期天皇に阿倍内親王が確定したことで、井上内親王に皇子誕生となっても皇位を奪われる心配がなくなってからのことだと考えられる。
結婚相手とされたのは、白壁王である。
白壁王は、天智天皇の第七皇子志貴皇子の第六皇子である。血脈としては赫々たるものであるが、天武系全盛の時代が続いており、天智系に皇位がめぐってくる可能性は考えられなかった。特に白壁王の場合は、八歳で父を亡くしていたこともあって、初叙が二十九歳の頃と極めて遅く、王たちの中でも忘れ去られていたような存在であった。

結婚時、井上内親王は三十歳を過ぎていたと考えられ、当時の初婚としては極めて遅く、夫の白壁王も花嫁より八歳ほど年長で、すでに妻も子もいたのである。つまり、孝謙天皇勢力にとって、白壁王は井上内親王を権力中枢から遠ざけるのに最も適任の人物だったのである。
天平勝宝六年(754)、二人の最初の子供である酒入内親王が誕生する。井上内親王三十八歳の時である。
この頃から白壁王は目覚ましい勢いで昇進していく。
天平宝字五年(761)他戸親王が誕生する。井上内親王は四十五歳になっていた。このため、他戸親王の生年をもっと早いとしたり、井上内親王の実子ではないとする説もあるが、いずれも確たる根拠があるわけではない。要は井上内親王が高齢であるゆえの推察らしいが、井上内親王を並の女性と考えることに私は反対である。

白壁王は、その後も昇進を続け、藤原仲麻呂の乱鎮圧で功績があったことから称徳天皇(孝謙天皇が重祚)の信頼を得、ついに大納言となり政権の中枢に加わるようになる。
相次ぐ政争で、有力な親王たちは粛清されていく中で、白壁王は酒びたりの生活をして凡庸を演じていたとも、実際に凡庸であったという説も根強い。
しかし、天武の血を引く親王たちが消えていく中で、天智系とはいえ天武の血を引く内親王を妻としている白壁王の存在を、いつの間にか皇位争いの先頭に浮上させていたのである。

宝亀元年(770)十月、ついに白壁王は即位し光仁天皇となる。実に六十二歳での即位である。
井上内親王は皇后となり、翌年一月には他戸親王が立太子する。
白壁王が即位するにあたって、朝廷を牛耳っていた藤原氏の中で激しい争いがあった。
未婚の女帝称徳の崩御であり、晩年の称徳天皇が道鏡を厚く用いたこともあって、次代を担うべき有力親王は粛清されていた。それだけに、次期天皇をめぐる争いは激しく、それ以上にその先の天皇となる皇后・皇太子の選定はさらに激しいものであったと推定される。
結局、左大臣藤原永手らの支援を受けた井上内親王が立后したのである。

しかし、光仁王朝は激動に見舞われる。
井上内親王は、僅か一年半ばかり後にその地位を奪われたのである。夫の光仁天皇を呪詛したとの理由で廃后とされ、その二か月後には他戸皇太子もその地位を奪われたのである。さらに、その半年ほど後には酒入内親王も突然伊勢斎宮に卜定されている。伊勢斎宮は、皇女が任命されるもっとも神聖な存在であるはずが、この任命は流罪を思わせるものであった。

この一連の騒動には、光仁天皇の意志というよりは藤原氏内の政権争いが絡んでいたと考えられる。
井上皇后・他戸皇太子は、藤原北家の永手らに擁立されたものであるが、その藤原永手は宝亀二年(771)二月に死去してり、これにより藤原氏一族内の主導権争いは激しくなり、一族の実権が藤原式家へと移って行ったのである。
井上皇后らが呪詛の罪に問われたのは、藤原式家の良継・百川らの陰謀によるものと考えられる。

宝亀六年(775)四月、井上内親王と他戸親王の母子は、大和国宇智郡(現五条市)の幽閉先で非業の最期を遂げる。当然暗殺であったと考えられる。
皇女であるばかりに政争に巻き込まれ、夫となった人からの庇護も受けられることなくこの世を去って行った井上内親王の無念は如何ばかりであったかと胸が詰まる。


     * * *

他戸親王が皇太子を廃された後、山部王が皇太子となる。おそらく、藤原一族内の実権を掌握した式家兄弟たちの思惑通りの筋書きであったことだろう。
山部王は、後の桓武天皇であるが、白壁天皇の第一皇子である。白壁王が天皇に就いた時、山部王は三十四歳になっており、十歳になったばかりの他戸親王が立太子することは、山部王にせよ、彼の皇位を望んでいた勢力にとってはとても納得できないことであったのだろう。
それもこれも、井上内親王が天武の血を引く聖武天皇の皇女であったことによる。当時、この血統の差はどうすることも出来ない絶対的な権威であった。
山部王なり、支持勢力なりにとっては、井上皇后・他戸皇太子を排除する以外に勝利する方法がなかったのである。
ただ、山部王は桓武天皇として即位したあと皇太子とした実弟の早良親王も、冤罪と思われる事件の主犯として死に追い込んでいる。
王権闘争の常とはいえ、少々、度が過ぎたのかもしれない。

井上内親王が非業の最期を遂げて間もなく、都を中心に異常な現象が見られるようになる。
まず、井上皇后・他戸皇太子を破滅に追い込んだ主犯者と思われる藤原式家の兄弟が相次いで急死している。最初は、井上内親王の死後間もなく、まだ四十二歳の九男蔵下麻呂が急死。その後も、七年のうちに良継、清成、百川、田麻呂と、政権の中枢にある兄弟が死んでいった。
光仁天皇が没するのも井上内親王が亡くなってから六年八か月後のことであるが、享年が七十三歳であり、これは井上内親王の怨霊には関係ないかもしれない。

正史とされる続日本紀には、井上内親王が亡くなった後さまざまな異常現象が多発していることを記している。
宝亀六年(775)、没後間もなくから、「黒鼠の大群が現れた」「真夏に雹が降り、飢饉が襲う」「野狐が現れる」「大嵐」「伊勢・尾張・美濃で風水害」「秋にも激しい雨」「地震」
宝亀七年には、「流星」「日食」「太白(金星)昼に現れる」 六月には、大祓いを行い、六百人の僧に大般若経を読ませた。しかし、その功はなく、その後も異変が続く。「西大寺西塔に落雷」「大風」「全国でイナゴの害」「瓦石や土塊が二十日余りも降る」「地震」
宝亀八年には、「日食」「宮中にしきりに怪異があり、妖怪が出没」「四月に雹・氷が降る」「大雨」「天皇の体調悪く、山部皇太子も病になる」「この年の冬は雨が降らず、泉川が枯れる」
等々、延々と異常な現象が記されているのである。

これらの怪奇な現象は、井上内親王の怨霊が成せる業として怖れ、祈祷などを行うも効果なく、ついに朝廷は、井上内親王の墓を改装して「御墓」と称することとした。
さらに宝亀九年(778)には、山部皇太子の「枕席不安(精神不安定)」を理由に正月の朝賀が取りやめとなった。このため一月二十日に使者を派遣して、「御墓」を再び改装し、井上内親王をもとの二位の位に戻している。
しかし、山部皇太子の病状は回復しなかった。

この年の十月、山部皇太子は伊勢神宮を参詣した。
井上内親王の怒りを鎮める最後の手段として、伊勢斎宮となっている井上内親王の忘れ形見である酒入内親王の力を借りようとしたのであろう。
酒入内親王は、井上内親王の娘であり、斎宮という霊力のある地位にあり、さらに言えば山部皇太子とは母は違うが兄と妹の関係である。
山部皇太子は、おそらく自らの非を詫び、井上内親王の霊を慰めてくれるように依頼したのであろう。
その効果があったのか、その後、山部皇太子の病状は回復したらしい。

山部皇太子が伊勢神宮を訪れた時、皇太子は四十二歳、斎宮は二十五歳の頃であった。
おそらくこの時二人は結ばれ、やがて酒入内親王は一人の女の子を生む。朝原内親王である。
酒入内親王は斎宮を退下し、やがて即位した桓武天皇の妃となる。
朝原内親王もまた伊勢斎宮を勤めた後、桓武天皇の皇子である平城天皇の妃になっている。

桓武天皇の皇太子時代を苦しめたとされる怪奇現象の数々が、本当に井上内親王の怨霊が成せる業だったのかどうかは分からない。
ただ、その非業の死は、怨霊となる程の恨みを抱いていたであろうことは想像するに難くない。
しかし、もし井上内親王が怨霊となって朝廷あたりに祟りをしていたとすれば、比較的短い期間に矛を収めている。
その理由は、酒入内親王や朝原内親王という娘や孫の幸せを願う母親という愛を持った怨霊だったような気がするのである。

皇族として生まれたゆえの悲運を背負って生きなければならなかった井上内親王と不破内親王という姉妹に、たとえ怨霊という形であってでも恨みを果たして欲しいと願うのだが、やはりこの姉妹には、次の世界に備えて安らかな眠りについて欲しいと思うのである。

                                    ( 完 )




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