雅工房 作品集

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運命紀行  血脈を守る

2013-09-05 08:00:36 | 運命紀行
          運命紀行
               血脈を守る

足利尊氏が軍勢を率いて鎌倉を出立したのは、元弘三年(正慶二年・1333)三月二十七日のことであった。
何かと理由を付けて渋る尊氏に対して、幕府の実権を握る北条高時は再三出陣を促し、ついに承諾させたのである。後醍醐が隠岐島を脱出し兵を集めているのに対抗するためには、御家人第一の実力者足利氏の上洛は絶対に必要であったからである。

尊氏が出陣を渋っていた理由としては、先の出陣からまだ日が浅いことと自身病気がちであることなどを述べているが、実際は、この時点ですでに鎌倉幕府、すなわち北条政権を見限っていたためと思われる。
すでにそのような風評は幕府の中でもささやかれていたようであるが、高時にすれば、何といっても足利氏は鎌倉幕府に忠節を誓う御家人の筆頭の家柄であり、尊氏の正室は幕府執権赤橋守時の妹であり、不穏な噂があるとしても尊氏の軍事力を頼りにせざるを得なかったのである。
もちろん高時もそのあたりのことに対処するため、尊氏の正室赤橋登子と次男千寿王を鎌倉に残すことを命じていた。実質的な人質である。

尊氏の出陣は、吉良・渋川・畠山・今川・細川・高・上杉などの有力氏族七十三氏をはじめ総勢二千余騎を率いての出陣であった。
搦め手の大将名越尾張守高家は、尊氏に三日遅れて鎌倉を出立した。名越高家は、北条一門の有力武将であり、大手の大将と伝えられてもいることから、この時の後醍醐討伐軍の大将は高家で、尊氏は副大将格であったらしい。

尊氏が反旗を翻し丹波篠原に陣を構えて、諸国の兵を募り、京都における幕府の拠点である六波羅探題を攻撃したのは五月七日のことであるが、鎌倉から京都に入った四月十六日には、後醍醐から討幕の綸旨を得ていたのである。
鎌倉では、尊氏の京都攻撃より早く、人質とされていた千寿王は五月二日に行方不明となったと大騒ぎになっている。つまり、前もって尊氏から指示されていた予定の脱出行であったと考えられる。当然、正室の赤橋登子も同行していたと思われる。
しかし、前もって計画されていたとしても、幕府方としては千寿王と赤橋登子は重要な人質であり、そうそう自由に行動できるとは思えない。そこには、登子の兄赤橋守時の支援があったと考えられる。

赤橋氏は、北条一門の中でも得宗家に次ぐ家格を誇っていた。鶴岡八幡宮の前に屋敷があり、八幡宮の前の池の赤橋に因んで、赤橋氏と称していた。
赤橋守時はこの時執権職にあり、本来ならば幕府政権の最高権力者であるはずだが、尊氏の正室登子と千寿王が行方不明となった責任を問われ、北条高時から謹慎を命じられている。この頃の幕政は得宗家の高時が牛耳っていたことがよく分かる。
守時は、この後、新田義貞軍が鎌倉に侵攻してきた時、一門から裏切り者として見られているなか、先鋒隊として出撃し激戦を展開するが、衆寡敵せず打ち破られ、自刃して果てている。五月十八日のことで、享年三十九歳であった。

鎌倉を脱出した赤橋登子と千寿丸は、かねて計画していた通りに無事逃れきることが出来た。
しかし、伊豆にあった尊氏の長男である武若は、伯父の宰相法印良遍ら十余人に守られて上洛を図るも途中で全員が討ち取られている。
その後どのような経路を辿ったかは不明であるが、五月八日、新田義貞が僅か百五十騎で討幕の兵をあげると、九日には、紀五郎左衛門ら二百余騎に守られた具足姿の千寿丸はこの一軍に加わっている。
千寿丸はこの時まだ四歳であったが、家臣たちに助けられて足利尊氏嫡男の名のもとに各地の武士たちに軍忠状を発布しており、これが後に足利氏が武士の棟梁として認知される大きな要因になるが、同時に新田氏との確執を生じたともいえる。

新田義貞率いる討幕軍は、たちまちのうちにその数を増し、二十万七千騎ともいわれる大軍となった。
そして、幕府方の激しい抵抗もあったが、ほぼ一方的に鎌倉は陥落する。北条氏一門を中心とした幕府方は壮絶な最期を遂げてゆく。その数、六千余人という。
ここまでも太平記に基づき述べてきたが、第十巻の最終部分を引用する。

『  於戯(アア)この日いかなる日なればか、元弘三年五月二十二日と申すに、九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐、一朝に開くる事を得たり。驕る者は久しからず、理(コトワリ)に天地助け給はずと謂(イ)ひながら、目前の悲しみをみる人々、皆涙をぞ流しける。 』


     * * *

わが国の歴史を俯瞰してみると、ある興味深いものが見えてくる。政権は変わっても、絶妙の形で血脈が繋がれているということである。
例えば、中国の歴代王朝の交替は、前王朝を全否定する形であることが多いように見える。
わが国の場合でも、男系で見る限りその傾向が強いが、女系を重視する形で見てみると、何とも見事なほどのバランスが見えてくるのである。

壬申の乱は、天智天皇の皇子の大友皇子と弟の大海人皇子が後継者争いをした古代の大乱であるが、勝利した大海人皇子(天武天皇)には幾人もの天智の皇女が妻になっており、その後の天皇を女系をベースで見てみると、絶妙の配慮が感じられるのである。
源平が激しく戦った時代については、その歴史的真実性はともかく平家物語という名著が残されているが、平氏は劇的な最期を遂げている。しかし、清盛平氏は滅びたが、鎌倉幕府を興した源頼朝の妻北条政子は歴とした平氏の女性であり、ほどなく幕府の実権は平氏を祖先とする北条氏が掌握するのである。
少し趣は違うが、戦国時代を収束させた人物として、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康を並べて、徳川氏が最も美味しいところを頂いたといわれることがあるが、徳川二代将軍秀忠の正室お江は、お市の方が残した三姉妹の末娘であり、やはり女系を中心に考えてみると少し様子が変わってくる。

今回の主人公、赤橋登子(アカハシトウコ・トウシ)も、そのような歴史の宿命を背負って、滅亡してゆく北条氏の血脈を次の時代に繋いだ女性なのである。
赤橋氏は北条一門の中でも、得宗家(本家)に次ぐ家格を有しており、その姫登子と源氏の名門足利尊氏との結婚は、政略的にもすばらしい縁組であった。

登子の生年は、徳治元年(1306)で、尊氏より一歳下ということになる。結婚の時期はよく分からないが、足利二代将軍となる千寿丸が誕生したのは、登子が二十三歳の時である。
二人の結婚は政略的に進められたものであろうが、二人の仲は睦まじいものであったという。千寿丸の他に初代鎌倉公方となる基氏、娘の鶴王を儲けているが、他にも数人の子供がいたという説もある。
しかし、当時としては普通のことであるが、結婚時には、尊氏にはすでに二人の側室がおり、それぞれに男児を儲けていた。
尊氏は赤橋家への遠慮から、すでに子をなしている側室母子を登子から遠ざけていたようであるが、登子が後々苦心を強いられることもあったようである。

尊氏が幕府に反旗を翻すことを決意した上で鎌倉を発った後、登子は千寿丸と共にどのように身を処していたのだろうか。
太平記を見る限り、尊氏謀反の噂はすでにあったようだ。おそらく尊氏は、武勇に優れた家臣を残していたと考えられるが、それにしても武力を使って脱出することなど難しく、おそらく兄である執権赤橋守時の支援があったと考えられる。事実として、幕府崩壊後の後醍醐新政における論功行賞で、後醍醐派の新田軍と戦って自刃した守時の未亡人に対して、土地が与えられているのである。当然、尊氏の意向と考えられる。

その後も、尊氏は戦乱に明け暮れることになる。後醍醐とは敵になり味方になり、一心同体ともいえる一つ年下の直義とさえも、敵として戦わねばならなかった。
そして、もう一つ、長男であるらしい直冬との何とも切ない経緯もある。
直冬は側室越前局の出生とされているが、千寿王より三歳年上である。本来なら嫡男として遇せられてもよい存在であるが、どうも尊氏に疎んじられ認知されていなかったらしい。おそらく赤橋家に対する遠慮からかと考えられるが、実は、直冬の母親は登子だという説もある。その容貌が、尊氏の実弟直義にとても似ていたというから話はややこしくなる。それに、登子が尊氏と結婚した年齢は分からないが、最初の出産が二十三歳というのも、当時としては少し遅いような気もする。しかし、直冬の父が直義であったとしても、母親はやはり登子以外の側室だったのではないか。
この問題はここまでにするとして、直冬は十代のうちに直義の養子となり、尊氏と戦うことになる。晩年の動向ははっきりせず没年も分からないが、この人の生涯も悲しくも強く魅かれる。

赤橋登子という女性は、足利尊氏という室町幕府の初代将軍の御台所としてわが子千寿王を二代将軍義詮として無事跡を継がせた、と言えばその通りかもしれない。実際にそうなっているからである。
しかし、その歩んだ道はそうそう平穏なものではなかった。
まず、登子が千寿王と共に鎌倉を脱出したのには兄の執権守時の支援があったことはすでに述べたが、その後新田軍との戦いで自刃している。そして、もう一人の兄である英時も、鎮西探題の職にあったが、ほぼ同じ頃九州の討幕勢に攻められて自刃しているのである。さらに言えば、鎌倉陥落時には北条一門はことごとくと言っていいほど壮絶な最期を遂げている。登子の血縁も知る辺も、その多くを失っているのである。

さらに、私たちは、室町幕府といえば、初代将軍が足利尊氏、二代将軍が足利義詮、三代将軍が足利義満、といったように考えるが、実は、ある程度幕府としての体制が整うのは、三代義満が力を持ち始めてからなのである。現に、現在私たちが室町幕府と呼んでいるのは、十歳で将軍職についた義満が十一年後にそれまで政庁を置いていた三条坊門の邸から花の御所と呼ばれることになる室町第に拠点を移したことに所以しているのである。
つまり、尊氏の時代は、後醍醐との戦いの他にも、直義・直冬との確執もあり、降参さえ経験しているのである。その間の赤橋登子の内助の功は伝えられていないが、御家人や公家衆たちとの関係調整に小さくない貢献を果たしているはずである。そして何よりも、千寿丸を無事二代将軍義詮へと成長させ、その正室には渋川氏の娘幸子(コウシ)を迎えるのに尽力があったと考えられる。

渋川氏は足利一門の家柄であるが、幸子の母は北条一門の娘なのである。つまり、三代将軍となる義満は、父も母も、北条の血を引く母から生まれているのである。そして、この渋川幸子は、夫義詮が病没した後、「大方禅尼」「大御所渋河殿」と呼ばれ、十歳の幼将軍を後見して、管領職はじめ御家人たちに睨みを利かせ、義満を大将軍に育て上げているのである。

尊氏が没したのは、登子が五十三歳の時である。跡を継いだ義詮はすでに二十九歳になっていて、若くから第一線で戦ってきており、武家の棟梁としての懸念はなかった。しかし、南北朝の衝突は激しく、北朝とはすなわち足利政権というのが実態のため、義詮は政治と戦乱に忙しい日々であった。
尊氏の死後出家した登子は「大方殿」と呼ばれ、義詮正室渋川幸子と共に家内を守り、尊氏が亡くなって百日目に誕生した義満の養育にも尽力したことであろう。

そして、南朝との戦いは続いてはいたが、京都朝廷は安定を見せ始め、足利将軍による武家政治が定着しつつあるのを見守りながら、登子は六十歳で没した。貞治四年(1365)のことである。
この時、義満は八歳になっていて、早くも大器の片りんを見せていた。そして、この二年後には義詮が三十八歳の若さで没してしまうが、登子の見込んだ幸子は、幼い義満を名君へと育て上げるのである。
赤橋登子、そして渋川幸子、北条の血脈を守る女性の逞しさが伝わってくるのである。

                                     ( 完 )



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