新年も十日余りが過ぎ、正月気分もぼつぼつ終わりにしなければと思っています。
今日は成人の日で、各地で華やかな催しが行われことでしょう。
新成人の方々が、希望に胸を膨らませてスタートする日のテーマが「裏と表」というのは、いささか気が引けるのですが、社会人になるということは、裏と表が渦巻く中に身を投じることでもありますから、あえて選ばせていただきました。
新年になって、個別の事件はともかく、社会的なというほどの問題としては、大雪による被害や交通障害が一番ではないでしょうか。つまり、まずまず落ち着いた新年をスタートしたということではないでしょうか。
しかし、世界的な規模で考えれば、フランスでは新聞社に対するテロという事件が発生してしまいました。これを単なる殺人事件と考えれば、不幸なことではありますが、ままある事件だともいえますが、今回の場合は、言論の自由、宗教、人種、不公平などの要因が色濃く浮かんでいて難しい事件といえます。
また、原油の暴落は依然止まらず、わが国などは恩恵を受けるのでしょうが、世界全体で見れば、財政的に追い込まれる国家も少なくない可能性があります。
各地の紛争や、傷病、極限状態の貧困などの問題も、ほとんど解決への道筋さえ見つけられないままに新年はスタートしたわけです。
これらの問題を考えてみるとき、その多くから「裏と表」ということが浮かび上がってきます。
「裏表(ウラオモテ・ウラウエともいう)」あるいは「表裏(ヒョウリ)」という言葉が生まれたもともとの意味は、「上下」「左右」などと同じように、物事の対象を成すものとして出来たのだと思うのですが、どうも「裏表」には人間の心情的な鬱屈のようなものが感じられてならないのです。
もちろん、「上下」や「左右」という言葉もそのように使われることがありますが、「裏表」であれ「表裏」であれ、その色合いが強いように思うのです。
原油が下がれば喜ぶ人々がおり、その裏で苦しむ人がいる。言論の自由を多くの血を流して得た人々がおり、絶対に容認できない誹謗というものを感じ取る人々がいる。豊かな生活を得ている人々の裏には、個人の努力では抜けきれないような極限状態の貧困がある。
「裏と表」があるのは物体に限ったことではなく、社会現象や人間の心情にも存在していて、それは、物体の裏表よりはるかに複雑で深刻なように思えるのです。
「裏を見せ表を見せて散るもみじ」
この句は、良寛のオリジナルではないようですが、良寛の辞世の句として紹介されることがよくあります。
良寛が辞世の句としてこの句を残したかどうかはともかく、晩年よく口すさんでいたらしいことは伝えられています。
江戸時代後期、厳しい飢饉の時代を禅僧として各地を行脚し、一家を成すほどの終業を積みながらも絶望を感じながら生きた良寛が、最後に辿り着いた心境が「裏を見せ表を見せて・・・」というものであったとすれば、「裏と表」を山ほど抱えた身としては、少なからず考えさせられています。
( 2015.01.12 )