藤原氏誕生 ・ ( 今昔物語 巻22-1 )
今は昔、
皇極天皇という女帝の御代、御子の天智天皇はまだ皇太子でいらっしゃった。
当時、蘇我蝦夷(ソガノエミシ)という大臣がいた。この人は蘇我馬子の子で、長年朝廷に仕えていたが、老い衰えたため子の入鹿(イルカ)を自分の代わりに常に参内させ政務を執り行わせた。
このため、入鹿は政権を握り天下を思いのままに動かせる力を持つに至った。
ある時、まだ皇太子であられた天智天皇が蹴鞠をされている所に入鹿もやって来て加わった。その時、大織冠(ダイショクカン・官位の最高位で鎌足が唯一授けられた。この項では鎌足を大織冠と表記している)はまだ公卿にもなっておらず大中臣鎌子といっていたが、彼も一緒に蹴鞠に加わっていた。
蹴鞠の途中で、皇太子が鞠を蹴ったはずみで沓が御足から脱げて飛んでしまった。入鹿はおごり高ぶった心が出てしまい、笑いながらその沓を外の方に蹴り出してしまった。
皇太子はこのことをとても恥ずかしく思い顔を赤らめて立っていたが、入鹿は気にする様子もなく立っていたので、大織冠は慌ててその沓を拾って差し上げたが、その時大織冠は、身分など周囲の思惑など気にせず、当然のことと思っていた。
皇太子は、「入鹿の無礼な態度に比べ、鎌子が沓を急いで取ってきてはかせてくれたことが嬉しい。この男は私に好意を寄せていたのか」と気付かれ、それ以後は何かと親しく召されるようになった。
大織冠も皇太子の人物を見込まれたのであろうか、奉仕を怠らなかった。
入鹿の傲慢な振る舞いは続き、天皇の仰せ事を無視したり、独断で物事を進めたりするようになり、皇太子の入鹿に対する憤懣は募っていった。
ある時、皇太子は誰もいない所にひそかに大織冠を招きよせて、「入鹿は常日頃私に無礼を働く。けしからぬことだと思っていたが、天皇の仰せ事に対しても反する行為がある。それゆえ、この入鹿が世にあれば、良いことがない。私は、彼を殺そうと思う」と打ち明けた。
大織冠は、自分も入鹿の振る舞いをけしからぬと考えていたので、皇太子の仰せに、「私もそのように思っておりました。ご命令があれば策を講じます」と答えた。
皇太子は喜び、その計画を十分に打ち合わせた。
その後、大極殿において節会が行われる日、皇太子が大織冠に「入鹿を今日こそ討つべきである」と仰せられた。
大織冠は皇太子の決意を承り、謀を以って入鹿が佩いている大刀を解きはずさせた。
入鹿は節会の場であり怪しむこともなく天皇の御前にゆったりと立っていると、ある皇子(蘇我倉山田麻呂とされる。蘇我一族であるが入鹿とは不仲であったらしい)が上表文を読み始めた。その皇子は、本日の計画を打ち明けられていたらしく、怖気づいた様子で震えていたので、何も知らない入鹿は、「なぜそのように震えるのか」と訊くと、「天皇の御前に出たので、気後れして震えているのです」とその皇子は答えた。
その時、大織冠は自ら大刀抜いて走り寄り、、入鹿の肩に切りつけた。
入鹿が走って逃げようとするのを皇太子が大刀を取って入鹿の首を打ち落とした。
すると、その首は飛び上がって、高御座の前に参り、「私には何の罪もありません。何事によって殺されるのですか」と申し上げた。
天皇はこの企てを前もって知らされておらず、女帝でもあることから恐れられて、高御座の戸を閉じられたので、首は戸に当って下に落ちた。
異変を知った入鹿の従者は家に走り帰り、入鹿の父である大臣蝦夷に報告した。
蝦夷はこれを聞き、驚くとともに泣き悲しみ、「もはやこの世に生きているかいもない」と言って、自ら家に火を放ち、家とともに焼死した。思うがままに集められていた公の財宝もみな焼けてしまった。神代以来伝えられてきた朝廷の財宝は、この時すべて焼失したのである。
その後、ほどなく天皇が崩御され、皇太子が即位した。天智天皇である。
大織冠を早速内大臣に任命した。わが国の内大臣はこれが最初である。
そして、姓も大中臣から藤原に改めた。
新天皇は、この内大臣を寵愛され、国の政務を一任され、ご自分の后をお譲りになった。この后はすでに懐妊していて、内大臣の家で出産した。多武峰の定惠和尚(ジョウケイワジョウ)と申される方がこの方である。
その後、もと后は内大臣の子を生んだ。これが淡海公(タンカイコウ・藤原不比等の諡号)である。
このようなこともあって、内大臣は身を捨てて懸命の奉公をされた。
そのうちに内大臣は病になった。
天皇は内大臣の家に行幸してお見舞いなさったりしたが、ついには亡くなられた。
その葬送の夜、天皇が「行幸して、野辺の送りをしよう」とされたが、時の大臣や公卿たちが「天皇の御身で大臣の葬送に野辺の送りをなさるという先例は、いまだかつてございません」と繰り返し奏上したので、天皇は泣く泣くお帰りになり、宣旨により諡号を送った。
これ以来、藤原鎌足を大織冠と申すようになった。
その子孫は繁栄し、藤原氏は他氏の入り込む余地がないほどに満ち広がっている。
その祖である大織冠と申し上げる人はこのような人である、
となむ語り伝へたるとや。
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本項に限らないが、今昔物語の内容には、歴史的事実とされるものと一致しない部分が多々あります。
歴史研究上は大きな意味があるでしょうが、読み物として受け取る分には、あまり気にする必要はないような気もします。
指摘されている幾つかを記しておきます。
* 天智天皇、つまり中大兄皇子が皇太子(春宮)だったのは、皇極朝の次の孝徳・斉明朝の時である。
* 鎌子(鎌足)を大中臣氏としているが、中臣氏とするのが通説のようである。
* 大織冠、内大臣、さらに藤原の姓を賜ったのは、鎌足が亡くなる前日のことである。従って、鎌足は藤原氏を名乗ったことはないはずである。
* 天皇から賜った后が最初に生んだ子、つまりご落胤になるが、本項では「定惠和尚」とされているが、この子が不比等だとする記録もある。
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