雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

今昔物語集 巻二十二 ご案内

2015-08-09 09:07:40 | 今昔物語拾い読み ・ その6
               今昔物語集 巻二十二


今昔物語集の巻二十二は、全体の位置としては「本朝世俗部」にあたります。
巻二十一は欠巻となっており、本朝世俗部は実質的にはこの巻から始まることになります。
巻二十二は、八話から成っており、短い巻です。内容は、中臣鎌足が藤原氏を賜ってその祖となったことから、藤原時平の代までが挙げられています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤原氏誕生 ・ 今昔物語 ( 巻22-1 )

2015-08-09 09:06:12 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          藤原氏誕生 ・ ( 今昔物語 巻22-1 )

今は昔、
皇極天皇という女帝の御代、御子の天智天皇はまだ皇太子でいらっしゃった。
当時、蘇我蝦夷(ソガノエミシ)という大臣がいた。この人は蘇我馬子の子で、長年朝廷に仕えていたが、老い衰えたため子の入鹿(イルカ)を自分の代わりに常に参内させ政務を執り行わせた。
このため、入鹿は政権を握り天下を思いのままに動かせる力を持つに至った。

ある時、まだ皇太子であられた天智天皇が蹴鞠をされている所に入鹿もやって来て加わった。その時、大織冠(ダイショクカン・官位の最高位で鎌足が唯一授けられた。この項では鎌足を大織冠と表記している)はまだ公卿にもなっておらず大中臣鎌子といっていたが、彼も一緒に蹴鞠に加わっていた。
蹴鞠の途中で、皇太子が鞠を蹴ったはずみで沓が御足から脱げて飛んでしまった。入鹿はおごり高ぶった心が出てしまい、笑いながらその沓を外の方に蹴り出してしまった。
皇太子はこのことをとても恥ずかしく思い顔を赤らめて立っていたが、入鹿は気にする様子もなく立っていたので、大織冠は慌ててその沓を拾って差し上げたが、その時大織冠は、身分など周囲の思惑など気にせず、当然のことと思っていた。

皇太子は、「入鹿の無礼な態度に比べ、鎌子が沓を急いで取ってきてはかせてくれたことが嬉しい。この男は私に好意を寄せていたのか」と気付かれ、それ以後は何かと親しく召されるようになった。
大織冠も皇太子の人物を見込まれたのであろうか、奉仕を怠らなかった。
入鹿の傲慢な振る舞いは続き、天皇の仰せ事を無視したり、独断で物事を進めたりするようになり、皇太子の入鹿に対する憤懣は募っていった。

ある時、皇太子は誰もいない所にひそかに大織冠を招きよせて、「入鹿は常日頃私に無礼を働く。けしからぬことだと思っていたが、天皇の仰せ事に対しても反する行為がある。それゆえ、この入鹿が世にあれば、良いことがない。私は、彼を殺そうと思う」と打ち明けた。
大織冠は、自分も入鹿の振る舞いをけしからぬと考えていたので、皇太子の仰せに、「私もそのように思っておりました。ご命令があれば策を講じます」と答えた。
皇太子は喜び、その計画を十分に打ち合わせた。

その後、大極殿において節会が行われる日、皇太子が大織冠に「入鹿を今日こそ討つべきである」と仰せられた。
大織冠は皇太子の決意を承り、謀を以って入鹿が佩いている大刀を解きはずさせた。
入鹿は節会の場であり怪しむこともなく天皇の御前にゆったりと立っていると、ある皇子(蘇我倉山田麻呂とされる。蘇我一族であるが入鹿とは不仲であったらしい)が上表文を読み始めた。その皇子は、本日の計画を打ち明けられていたらしく、怖気づいた様子で震えていたので、何も知らない入鹿は、「なぜそのように震えるのか」と訊くと、「天皇の御前に出たので、気後れして震えているのです」とその皇子は答えた。

その時、大織冠は自ら大刀抜いて走り寄り、、入鹿の肩に切りつけた。
入鹿が走って逃げようとするのを皇太子が大刀を取って入鹿の首を打ち落とした。
すると、その首は飛び上がって、高御座の前に参り、「私には何の罪もありません。何事によって殺されるのですか」と申し上げた。
天皇はこの企てを前もって知らされておらず、女帝でもあることから恐れられて、高御座の戸を閉じられたので、首は戸に当って下に落ちた。

異変を知った入鹿の従者は家に走り帰り、入鹿の父である大臣蝦夷に報告した。
蝦夷はこれを聞き、驚くとともに泣き悲しみ、「もはやこの世に生きているかいもない」と言って、自ら家に火を放ち、家とともに焼死した。思うがままに集められていた公の財宝もみな焼けてしまった。神代以来伝えられてきた朝廷の財宝は、この時すべて焼失したのである。

その後、ほどなく天皇が崩御され、皇太子が即位した。天智天皇である。
大織冠を早速内大臣に任命した。わが国の内大臣はこれが最初である。
そして、姓も大中臣から藤原に改めた。
新天皇は、この内大臣を寵愛され、国の政務を一任され、ご自分の后をお譲りになった。この后はすでに懐妊していて、内大臣の家で出産した。多武峰の定惠和尚(ジョウケイワジョウ)と申される方がこの方である。
その後、もと后は内大臣の子を生んだ。これが淡海公(タンカイコウ・藤原不比等の諡号)である。
このようなこともあって、内大臣は身を捨てて懸命の奉公をされた。

そのうちに内大臣は病になった。
天皇は内大臣の家に行幸してお見舞いなさったりしたが、ついには亡くなられた。
その葬送の夜、天皇が「行幸して、野辺の送りをしよう」とされたが、時の大臣や公卿たちが「天皇の御身で大臣の葬送に野辺の送りをなさるという先例は、いまだかつてございません」と繰り返し奏上したので、天皇は泣く泣くお帰りになり、宣旨により諡号を送った。
これ以来、藤原鎌足を大織冠と申すようになった。

その子孫は繁栄し、藤原氏は他氏の入り込む余地がないほどに満ち広がっている。
その祖である大織冠と申し上げる人はこのような人である、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


本項に限らないが、今昔物語の内容には、歴史的事実とされるものと一致しない部分が多々あります。
歴史研究上は大きな意味があるでしょうが、読み物として受け取る分には、あまり気にする必要はないような気もします。
指摘されている幾つかを記しておきます。

* 天智天皇、つまり中大兄皇子が皇太子(春宮)だったのは、皇極朝の次の孝徳・斉明朝の時である。
* 鎌子(鎌足)を大中臣氏としているが、中臣氏とするのが通説のようである。
* 大織冠、内大臣、さらに藤原の姓を賜ったのは、鎌足が亡くなる前日のことである。従って、鎌足は藤原氏を名乗ったことはないはずである。
* 天皇から賜った后が最初に生んだ子、つまりご落胤になるが、本項では「定惠和尚」とされているが、この子が不比等だとする記録もある。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤原四家起こる ・ 今昔物語 ( 巻22-2 )

2015-08-09 09:05:18 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          藤原四家起こる ・ 今昔物語 ( 巻22-2 )

今は昔、
淡海公と申す大臣(オトド)がおいでになった。実の名は不比等と申し上げる。大織冠藤原鎌足の長男で、母は天智天皇の御后である。
さて、大織冠が亡くなられた後、朝廷に仕えたが、極めて優れた才能が有ったので、左大臣にまで上られ、国政を一手に握るに至った。

この大臣には男子が四人いた。
長男は武智麻呂と申して、この人も大臣まで上られた。二男は房前の大臣(フササキノオトド)と申された。三男は式部卿で、宇合(ウマカイ)と申された。四男は左・右京の大夫で、麿(マロ)と申された。
この四人の御子を、長男の武智麻呂は親の邸宅からは南の方に住んでいたので南家と称した。二男の房前は親の邸宅からは北の方に住んでいたので北家と称した。三男の宇合は官職が式部卿なので式家と称した。四男の麿は官職が左京太夫なので京家と称した。

この四家のそれぞれの子孫がわが国の朝廷に満ち広がっている。
その中でも、二男の大臣の子孫は、氏の長者を継いで、今も摂政関白として栄えておられる。天下を恣(ホシイママ)にして、天皇の後見役として政務をとっておられるのは、ただこの大臣の子孫である。
長男の大臣の南家にも人物は多いが、子孫の代となっては大臣や公卿になる人はほとんどない。
三男の式家にも人物はいるが、公卿などになる人はない。
四男の京家は、これといった人物は絶えてしまっている。ただ、侍程度の身分ではいるであろうが。

このように、ただ二男の大臣の北家だけがめざましい繁栄ぶりで、山階寺(ヤマシナデラ・興福寺の別称)の西にある佐保殿という所は、この二男房前の大臣の邸宅であった。この大臣の子孫が、氏の長者としてこの佐保殿に参られた時には、まず庭において礼拝(ライハイ)してから上にあがられた。房前大臣の肖像がその佐保殿に模写して置かれているからである。

されば、淡海公のご子孫はこのようである、
となむ語り伝えたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 不比等を鎌足の長男としているが、(巻22-1)では二男としており、このあたりも不比等ご落胤説の一助になっている可能性ある。
* 正しくは、房前は大臣になっていない。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北家の祖藤原房前 ・ 今昔物語 ( 巻22-3 )

2015-08-09 09:04:08 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          北家の祖藤原房前 ・ 今昔物語 ( 巻22-3 )

今は昔、
房前の大臣(オトド)と申される方がいた。
この方は、淡海公(藤原不比等)の三男である。生まれつきたいへん優れた才能を持っておられたので、淡海公が亡くなられた後、世間の評判もたいへん良く、すぐに大臣にまで上られた。

淡海公には子が四人おいでだったが、この大臣が跡を継いだが、この方が北家の祖である。
現在まで氏の長者として栄えているのは、この大臣の子孫である。この大臣のことを三ショウ門(サンショウモン・誤字らしく、正しい文字・読み・由来ともに不祥)とも申される。また、河内の大臣とも称した。それは、河内の国、渋河郡に別荘を造り、すばらしくて風流な様子で住んでいたからである。

この大臣の御子には、大納言真楯(マタテ)と申す方がいる。この大納言は、年若く大臣にもならないで亡くなられたので、その御子である内麿と申される方が大臣にまでなって、その家をお継ぎになった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 房前は、不比等の二男であり、本書でも前項ではそのように記されている。三男とあるのは、単なる誤記で、他意はないと思われます。
  また、房前は大臣にはなっていない。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暴れ馬に乗る ・ 今昔物語 ( 巻22-4 )

2015-08-09 09:02:46 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          暴れ馬に乗る ・ 今昔物語 ( 巻22-4 )

今は昔、
内麿の右大臣と申される方は、房前の大臣の孫にあたり、大納言眞楯(マタテ)と申した方の御子である。
生まれつき優れた才能をお持ちで、殿上人の頃から朝廷にお仕えになり、格別に重んじられていた。世間の人もみな深く敬い、従わぬ者はいなかった。容姿は申し分なく、また、心も麗しくて、人々に重用されていた。

ところで、この大臣がまだお若い頃に、他戸の宮(オサベノミヤ)と申される太子がいた。白壁の天皇(第四十九代・光仁天皇)の御子である。この方は、性格が猛々しく人に恐れられていた。
その頃、一頭の暴れ馬がいた。人が乗ろうとすると必ず踏み倒して噛みついた。従って、誰も絶対乗ろうとしなかった。ところが、その他戸の宮が内麿に命じてこの暴れ馬に乗らせた。
命じられて内麿はこの馬に乗ったが、周囲の人たちはこれを見て恐れおののき、「内麿はきっとこの馬に噛みつかれ踏み倒されて、大怪我をするだろう」と気の毒に思いあっていた。

ところが、内麿が乗ると、この馬は頭を垂れて身じろぎもしないのである。そのため内麿は難なく乗れた。その後、何度も鞭を打ったが、それでも暴れる気配などない。こうして、何回も庭を乗り回してから降りた。
この様子を見聞きした人は、内麿をほめたたえ、「この方はただの人で終わらない」と思ったという。

昔はこのような人がおいでになった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑院の御子たち ・ 今昔物語 ( 巻22-5 )

2015-08-09 09:01:27 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          閑院の御子たち ・ 今昔物語 ( 巻22-5 )

今は昔、
閑院の右大臣冬嗣(フユツギ)と申される方には、たくさんの御子がいらっしゃった。
長兄を長良の中納言と申される。どういうことなのか、この中納言は長男でありながら、弟二人より官位が低かった。しかし、この中納言の子孫は、ずっと繁栄を続け現在に至るまで栄えている。
太政大臣、関白、摂政におなりになったのも、みなこの中納言の子孫である。いわんや、上達部(カンダチメ・三位以上の公卿及び四位の参議)より以下の人は世に隙間が無いほどにいる。

二男は、太政大臣にまで上られた、良房の大臣と申される。白川の太政大臣と申されるのはこの方である。
藤原氏が摂政にも成り、太政大臣にも成られるのは、この方から始まったのである。およそこの大臣は、度量が広く賢明な方で、万事人に優れていた。また、和歌の道にも優れていた。
この大臣の御娘(明子)は、文徳天皇の御后で、水尾の天皇(清和天皇)の御母である。染殿の后と申されるのはこの方である。
ある時、その后の御前にとても美しい桜の花を瓶にさして置かれていたが、父の太政大臣がご覧になって和歌をお詠みになった。
 『 年ふれば 齢は老いぬ しかはあれども 花をし見れば もの思いもなし 』
后を花にたとえて詠まれたものである。
この大臣は、このように素晴らしい人物であったが、男子が一人もいなかった。世間の人は、「跡継ぎのいないことがまことに残念だ」と噂していた。

三男は、良相(ヨシミ)の右大臣と申される。世に西三条の右大臣といわれたのはこの方である。
その頃、浄蔵大徳というたいそう優れた修験僧がいた。良相大臣はこの僧と檀家として深い関係にあった。この僧により、大臣は千手陀羅尼の霊験をこうむられたことがある。
この大臣の御子は大納言右大将で、名を常行という。そして、この大将の御子が二人あり、兄は六位で典薬の助になり、名を名継といった。弟は五位で主殿頭(トノモノカミ)になり、名を棟国といった。みな身分の低い人なので、その子孫は無いに等しい。

こういうわけで、長男の長良中納言は弟二人より官位が低くて、「辛いことだ」と思ったことであろうが、その二人の弟には子孫が無く、長良中納言のたくさんいる御子のうち、基経(モトツネ)と申される方が太政大臣、関白になり、その子孫が繁栄し、今も栄えて素晴らしい状況である。
これを思うと、昔は悪くても先々子孫が栄えることもあり、昔が良くても子孫が衰えることもある。
これもみな前世からの果報である、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
 

* 冬嗣を右大臣としているが、最終官歴は左大臣なので、上位職である左大臣冬嗣とするのが正しい。

* 浄蔵大徳(大徳は敬称)は、実在の人物であるが、良相とは時代が合わない。人物を混同しているらしい。

     ☆   ☆   ☆

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

堀河太政大臣の栄華 ・ 今昔物語 ( 巻22-6 )

2015-08-09 09:00:22 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          堀河太政大臣の栄華 ・ 今昔物語 ( 巻22-6 )

今は昔、
堀河の太政大臣と申される方がいた。御名を基経(モトツネ)という。
この方は、長良の中納言の御子である。大臣は並ぶ者のないほど優れた才能を持ち、賢明な方であったので、長年朝廷に仕え関白太政大臣にまで上られ、まことに立派な方であった。
また、その子孫は繁栄し、男女ともにみな素晴らしい方ばかりであった。
御娘(穏子・オンシ)は、醍醐天皇の御后で、朱雀、村上の二代の天皇の御母である。

男子は、一人を時平の左大臣と申される。本院の大臣と申されるのはこの方である。
もう一人は、忠平太政大臣と申される。小一条の大臣と申されるのはこの方である。
さらにもう一人は、仲平左大臣と申される。この仲平の左大臣は枇杷の大臣とも申されている。
他にもたくさんの御子がいるが、それはみな公卿以下の人であるから、書かないでおく。

さて、それにしても、子供三人が大臣になったことは珍しいこととされている。
堀河殿に住んでいたことから堀河太政大臣と申されるのである。閑院(祖父冬嗣より伝えられている居館)もこの大臣の御殿であったが、その御殿は物忌の時などに使われていた。この御殿には、さほど親しくない人はお呼びにならなかった。親しい人々だけをお呼び寄せになり、閑静な別邸とされていたので、閑院と称したのである。
堀河の院は、土地柄が素晴らしい所なので、此処を晴れの所として大饗(ダイキョウ・大宴会)が行われる時には、賓客の車を堀河より東に立て、牛を堀河の橋柱につなぎ、その他の上達部(カンダチメ・上級貴族)の車は河より西に立て並べていたが、その有様は素晴らしいものであった。賓客の車だけ別に立てておくのは、この堀河院だけである。

このように、大変なご繁栄であったが、時が移り、ついにこの大臣も亡くなられ、深草山(宇治辺りか)に葬り奉った。
その夜、勝延僧都という人が詠んだ歌は、
 『 空蝉は からをみつつも なぐさめつ 深草の山 けむりだに立て 』
また、上野の峰雄という人は次のように詠んだ。
 『 深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け 』

この大臣の兄に国経大納言という人がいた。この人は大臣が亡くなられた後、たいへん高齢で大納言になったが、それで終ってしまった。
他にも、大臣の兄弟はたくさんいたが、みな納言以下の人であり、ただこの大臣だけが最高位にまで上られ子孫が繁栄している、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高藤の純愛物語 ・ 今昔物語 ( 巻22-7 )

2015-08-09 08:59:32 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          高藤の純愛物語 ・ 今昔物語 ( 巻22-7 )

今は昔、
閑院の右大臣と申される方がいた。御名は冬嗣(フユツギ)と申された。世間の評判もよく、たいそう賢明なお方であったが、まだ若くしてお亡くなりになった。
幸い御子たちはたくさんいた。
長兄は長良中納言と申され、次兄は良房太政大臣と申され、その次は良相左大臣、さらにその次を内舎人(ウドネリ)の良門(ヨシカド)と申し上げた。
昔は、これほど高貴な家の者も、最初は内舎人に任じられたのである。

その内舎人の良門の御子に、高藤(タカフジ)と申す方がいらっしゃった。幼少の頃から鷹狩を好んだ。父の内舎人も鷹狩が好きだったので、この若君も父譲りで好きになったのであろう。
さて、この若君が十五、六歳の頃の九月、鷹狩に出かけられた。
南山階という所の渚の山辺りを、鷹を使いながら歩き回っているうちに、申の時(サルノトキ・午後四時頃)の頃、にわかに辺りは暗くなり、時雨が降り出して、同時に風が激しくなり、稲妻が走り、雷鳴が凄まじくとどろいたので、供の者どもは蜘蛛の子を散らすように走り出し「雨宿りをしよう」と好き勝手な方向に逃げ出した。

主人である若君は、西の山沿いに人家があるのを見つけて、馬を走らせた。供には馬の口取りをする男一人だけである。
その家に走り着いてみると、回りを檜垣で囲い小さい唐門のついた建物がある。若君は、その屋敷内に馬を乗入れた。
板葺きの寝殿の端に三間(ミマ・柱と柱の間を一間という)ばかりの小さな廊がある。そこまで馬を乗りつけて降り、馬は廊の端のあたりに引き入れ、供の男を付けておき、若君は板敷に腰を下ろした。
その間も、風は吹き荒れ雨も激しく、雷も鳴り続けていた。恐ろしいほどの荒れ模様で、引き返すことも出来ず、そのままじっとしていた。

やがて、日もしだいに暮れていった。
「どうしたものか」と、心細く恐ろしく思っていると、家の奥の方から青鈍(アオニビ・薄い藍色)の狩衣を着た四十歳余りの男が出てきて、
「これはどなたさまでございますか」と尋ねた。
「鷹狩をしているうちに、このような雨風に遭い、どこへ行くともなく馬にまかせて走らせてきたが、たまたま家が見えたので、ありがたいことと入らせてもらった。どうしたものであろうか」と若君は答えた。
「雨が降っている間はここにこのままおいでなさるのがよろしいでしょう」と男は答え、供の男の方に近付き、
「この方はどなたさまでございましょうか」と尋ねると、
「これこれのお方のお成りであるぞ」と、供の男は答える。

家の主人であるこの男はたいへん驚き、家に入って部屋を整え、灯をともしなどして、再び出てくると、
「むさくるしい所でございますが、このままここにいていただくのもいかがかと思われます。雨がやむまで中にお入りください。また、御衣もひどくお濡れのご様子なので、火で乾かして差し上げましょう。御馬にも飼い葉を与えますので、あの後ろの方に入れておきましょう」と言った。
みすぼらしい下賤の者の家であるが、いかにも由緒ありげに見える。天井は檜網代で張ってあり、回りには網代屏風が立ててある。こざっぱりした高麗べりの畳が三、四畳敷いてあった。
若君は、すっかり疲れていたので、衣装を解いて物に寄りかかっていると、家主の男が来て、「御狩衣指貫などを乾かしましょう」と言って、持っていった。

しばらくすると、廂の間の方から引き戸を開けて、年のころ十三、四歳ほどの若い女が薄紫色の衣一重(ヒトカサネ)に濃い紅色の袴を付けて、扇で顔を隠し、片手に高坏を持って現れた。
恥ずかしそうに遠くで横を向いて座っているので、若君は、「こちらへ」と言う。
その声に、そっといざり寄ってくるその姿を見ると、頭の形はほっそりとしていて、額のさま髪の様子はこのような家の娘とは思われず、何とも言えぬ美しさである。
高坏を折敷に据え、坏には箸を置いて持ってきていた。それらを前に置くと、奥へと下がった。
その後ろ姿は、髪は房やかで、その端は膝を越えているかに見える。

またすぐに、娘は折敷に色々な物をのせて持ってきた。まだ幼げな娘なので、上手に据えることが出来ず、前に置いたまま後ろの方に下がって控えていた。
見てみると、ご飯をこしらえ、それに小さな大根、あわび、鳥の乾し肉などが添えられていた。
一日中鷹狩をして疲れ果てていたところなので、「下賤の者の家の食べ物だといえ仕方あるまい」と思いながら、全部食べてしまった。酒なども出されていたが、それも飲んで、夜も更けたので眠ってしまった。

しかし、眠りについても若君は、あの娘のことが心にかかって仕方がなかった。
「一人寝るのは恐ろしい気がする。先ほどの娘、ここに来るように」と所望した。
娘がやってくると、「もっとそばに」と言って引き寄せて、抱き寝をした。そばで見る娘の様子は、遠くから見るよりさらに麗しく、可愛らしい。
すっかり気に入ってしまった若君は、まだ年端もいかぬお心ながら、行く末までの愛を繰り返し約束して、九月のとても長い夜をつゆまどろまず、細やかな愛情を示して契り明かした。
やがて夜が明け、起き上がり出て行こうとした時、若君は、帯びていて太刀を取って娘に与え、
「これを形見に取って置くように。親が深い考えもなく誰かと結婚させようとしても、決して人に身を任せてはならない」と後ろ髪を引かれる思いで娘に訴え、振り切る思いで家を出た。

馬に乗って四、五町(500mほど)ばかり行くと、供の者どもが主人を探して集まってきて、無事に京の屋敷に帰ることが出来た。
父の内舎人も心配していて、捜索の人を出す準備をしていた。
「若い頃は、こういう出歩きはなかなか抑えられないものだ。自分もよく鷹狩りに出かけたが、亡き父は止められなかった。それで、そなたにも自由にさせていたが、やはりこういうことになると心配である。今後、若いうちはこのような出歩きは止めるように」
と忠告されたため、以後、鷹狩をしなくなった。
しかし若君は、あの契りを交わした娘のことは忘れることが出来なかった。
けれども、あの家のことは供の者は誰も知らず、ただ一人知っていた馬の世話をしていた男は暇をもらって京を離れてしまっていて、あの家を知る者はいなくなってしまった。
恋しい思いは募り、悶々と思い悩むうちに、四年、五年と年月は流れていった。

そうしているうちに、父の内舎人はまだ年若くして亡くなってしまった。
そのため伯父の屋敷で世話になり過ごしていたが、この若君は容貌は優れ気立ても立派であり、伯父の良房大臣はこの若者に期待を寄せていた。
だが、父親の無い身は何かと恵まれず、若君もまたいつかの娘のことが忘れられず、妻を娶ることもなく、あれから六年ほども過ぎた。
そのような時、共にあの家に立ち寄った馬飼が上京しているという噂が伝わってきた。
早速呼び寄せて、「あの鷹狩の時の家の在り処を覚えているか」と尋ねると、「よく覚えています」と答えた。
若君はそれを聞くと嬉しさを抑えきれず、「これからすぐに行きたい。鷹狩に行くふりをして出かけようと思うので、心得ていくように」と命じて、もう一人、親しく使っている帯刀舎人(タテワキノトネリ・警備を担当する下級武官)の男を供にして、阿弥陀の峰を越えて行った。
そして、いつかの所に日の入頃に着くことが出来た。

二月二十日の頃なので、家の前の梅の花はちらほらと散って、鶯は梢で美しい声で鳴いていて、鑓水に落ちた花弁が流れていき、その風情はまことに趣深い。
若君は、いつかのように馬に乗ったまま門を入っていった。
家主の男を呼び出すと、思いもかけぬ訪問に大喜びして飛び出してきた。
「いつかの娘はおいでか」
と、早速尋ねると、「おります」と答える。
喜びながらあの部屋に入ってみると、娘は几帳の陰に半ば身を隠すようにして座っていた。

近付いて見ると、前の時より女らしさが増し、別人ではないかと思われるほど美しくなっていた。
「この世に、これほど美しい人がいるものか」と思って見ていると、かたわらに五、六歳ぐらいのとても可愛らしい女の子がいた。
「これは誰か」と尋ねると、女はうつむいて泣いているような様子である。
はっきりと答えようとしないので、父の男を呼ぶと、やって来て平伏した。
「ここにいるこの子供は誰なのか」と尋ねると、
「先年お見えになられました後、娘は他の男に近付くことなどございません。もともと、まだ幼い娘でございましたから、男のそばに寄りつくことなどございませんでしたが、あなた様がお見えになりました頃に懐妊し、やがて産まれたのがその子でございます」と家主が答えた。

これを聞くと若君は強く心打たれ、枕元の方を見ると、形見に渡しておいた太刀がある。
「そうであったか。このように深い契りもあったのだ」と思うと、いっそう深い感動に打たれるのであった。
女の子を見てみると、自分と全くよく似ていた。
その夜はここに泊まることになった。
翌朝、帰るときには、「すぐに迎えに来る」と言い置いて家を出た。
それにしても、「この家の主は何者だろう」と思って調べさせたところ、その郡の大領(ダイリョウ・一郡の長官。在地の有力者がなった)である宮道弥益(ミヤジノイヤマス)という者であった。

「このような下賤な者の娘とはいいながら、前世からの契りが深いからであろう」と思い、その翌日、蓆張りの車に下簾をかけ、侍二人ばかりを連れて訪れた。
そして、車を寄せてかの女を乗せる。姫君も一緒である。
他に供がいないというのも具合が悪いので、母を呼び出して乗るように言うと、四十歳余りの小柄でこぎれいな、いかにも大領の妻といった様子の女が、薄黄色のごわついた着物を着て、垂れ髪をその下に着込めた姿で乗り込んだ。
こうして御屋敷に連れておいでになり、部屋などを整えて車から降ろされた。
その後は、他の女には見向きもしないで、仲良く暮らされていたが、やがて男子が二人続けて生まれた。

さて、この若君は、高藤の君と申されるが、たいへん立派な方で、次第に出世なさり大納言にまでなられた。
かの姫君は、宇多院が天皇であられた時に女御になられた。その後間もなく、醍醐天皇を産み奉った。
男子二人は、兄は大納言右大将となり、名を定国と申された。泉の大将と申すはこの方である。弟は右大臣定方と申された。三条の右大臣と申すはこの方である。
祖父の大領は四位に叙され、修理大夫になった。
その後、醍醐天皇が位に就くと、その外祖父に当たる高藤大納言は内大臣になられた。

あの弥益の家は寺にしたが、今の勧修寺がこれである。向いの東山のほとりに、妻が堂を建てた。その名を大宅寺という。
この弥益の家のあたりを懐かしく慕わしく思われたのか、醍醐天皇の御陵はその家の近くにある。
つらつら思うに、かりそめの鷹狩の雨宿りによって、このようにめでたきことになったのであるが、これもみな前世からの契りなのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* この物語は、勧修寺縁起としても伝えられている。

     ☆   ☆   ☆












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

妻を盗む ・ 今昔物語 ( 巻22-8 )

2015-08-09 08:58:26 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          妻を盗む ・ 今昔物語 ( 巻22-8 )

今は昔、
本院の左大臣と申す人がいた。名を時平と申される。昭宣公(ショウセンコウ・藤原基経)という関白の御子である。本院という所に住んでいた。
年わずか三十歳ばかりにして、容貌、容姿ともに優れていて、醍醐天皇はこの大臣を高く評価していた。

さて、天皇が政務についていた時、この大臣が参内されたが、禁制を無視した格別に美々しい装束を着ていた。天皇は離れた所から御覧になって、たいへんご機嫌を損じられた。ただちに蔵人を呼び、
「最近、世間に奢侈の禁制を厳しく通達しているにかかわらず、左大臣が、たとえ第一番の大臣だとはいえ、そのように美々しく着飾って参内するとは不届きである。早々退出するよう、厳しく申し付けよ」
と仰せられたので、勅命を承った蔵人はどうなることかと恐れ、震えながら、「これこれの仰せがございました」と伝えた。
大臣は大いに驚き、恐縮して急いで退出した。供の随身や雑色が先駆けについたが、先払いの声さえ制せられて、屋敷に戻った。
その後は、ひと月ほども本院の門を閉じて、簾の外にも出ず、ひたすら謹慎した。心配して伺う人には、
「天皇のお咎めが重いので」と言って、訪問者に会おうともしなかった。
だいぶ後になって、天皇のお召があり、以前と変わらぬ参内が許されるようになった。
実は、この一件は、あらかじめ天皇と相談していて、他の者を戒めるために計画したしたことであった。

この大臣は、たいへん好色であったようで、少々欠点に見えるほどであった。
当時、この大臣の伯父に国経大納言という人がいた。この大納言の妻に、在原某の娘がいた。大納言は八十歳ほどになっていたが、この妻は僅かに二十歳を過ぎたばかりで、美人で色っぽい人であったので、こんな老人の妻であることに不満を抱いていた。
大納言から見れば甥に当たる時平大臣は好色な人なので、伯父の大納言の妻が美人だという噂を聞き、会いたいものだと思っていたが、機会が無いままであった。
当時、好色家として知られた人物に、兵衛佐(ヒョウエノスケ)平定文という人がいた。某親王の孫にあたり、人品賤しからぬ人で、通称を平中(ヘイジュウ)といっていた。好色家といわれるだけあって、人の妻であれ、娘であれ、宮仕えの女であれ、関係を持たない女は少ないというほどであった。

その平中は、時平大臣の屋敷に常々出入りしていたので、大臣は、「この男は伯父大納言の妻を見ているかもしれない」と思って、冬の月の明るい夜、四方山話のついでに、「真剣に尋ねるが、最近の素晴らしい美人となれば誰ですかな」と尋ねた。
すると、平中は、「御前で申し上げるのはいささか具合が悪いのですが、あえて本当のことを申しますと、藤大納言(伯父の国経のこと)の北の方こそ実に世にも稀なる美人にございます」と答えた。
「それは、どのようにして見たのか」と聞くと、平中は、「その屋敷に仕えていた女と知り合っておりましたが、その女が『北の方は、年寄りに連れ添って、とても情けなく思っている』というのを聞きましたので、人を介してお会いしたい旨伝えてもらいますと、北の方も『憎からずお思いだ』ということなので、こっそりと、ほんの少しだけお会いしました。いえ、すっかり許し合ったということではありません」と言う。

大臣は、「それはまた、とんでもなく悪いことをしたな」と、その場は笑ったが、心中では、「何とか、その人をものにしたい」との思いが強くなった。
その後は、この大納言は伯父でありますから、事に触れて丁重に扱ったので、大納言は大変感謝していた。大臣は、自分が妻を盗もうとしていることを大納言が気づいていないので、心の内では可笑しく思っていた。
そうしているうちに正月になった。以前はなかったことなのに、「三が日の間に一日お伺いしたい」と大臣から伝言があったので、大納言は大喜びで家中をきれいにし接待の準備を整えて待っていると、三日になると、大臣はしかるべき上達部(カンダチメ・公卿クラス)、殿上人を数人引き連れてやって来た。大納言は慌てふためきながら、大喜びで饗応の用意に手を尽くした。

申の時(サルノトキ・午後四時頃)を過ぎる頃の来訪で、杯を重ねているうちに、日も暮れた。
歌を詠(ウタ)い、管弦を楽しみ、興趣が盛り上がった。中でも、大臣は容姿が優れている上に、歌を詠われる様子はたとえようもないほどに素晴らしい。人々は目を留めてほめたたえたが、この家の大納言の北の方は、大臣の席のすぐ近くの簾越しに間近で見ていたので、大臣の顔や声や姿やたきしめた香の匂いなど、すべてが世に並ぶものが無いほど素晴らしいのを見て、わが身の不運が思われ、「いったい、どのような人がこういう人と連れ添っているだろう。それにひきかえこの私は、老いぼれて古臭い人に連れ添って、何と情けないことだろう」と思った。
北の方の大臣を見る目は熱を帯び、ますますわが身の不運が感じられていた。 
大臣は、詠いながらもたえず簾の方に目線をやり、北の方もその視線を感じ取って、簾越しであっても恥ずかしいほどであった。
さらに大臣は、あからさまに簾の奥を窺うように笑顔を送ったりするので、「どのように思っておられるのだろうか」と、北の方の恥ずかしさが増す。

そのうち夜もしだいに更けて、皆すっかり酔ってしまった。誰も彼も帯を解き、片肌脱いで、盛んに舞い戯れる。
やがて、もう帰ろうという時に大納言が大臣に言った。
「ひどくお酔いになっているご様子。お車をここに寄せてお乗りください」
「それは甚だ失礼なことです。とてもそのようなことは出来ない。ひどく酔っているようであれば、このお屋敷にしばらく留まり、酔いをさましてから帰ることにしよう」
と大臣が言うと、上達部たちも、「そうなさるのがよろしい」と言う。

大納言は、引き出物に立派な馬二匹を引き出し、みやげとして筝(ショウノコト)を取り出した。
これに対して大臣は、「このように酔ったついでに申すのは失礼ですが、私が私的な関係を重んじて参ったことを本当に喜んでいただけるなら、特に心のこもった引き出物を頂戴したいものです」と言った。
大納言は、すっかり酔ってしまった状態であったが、「自分は伯父だと言っても大納言の身である。その家に首席の大臣がおいでになるなどこの上ない光栄だ」と思っていたが、そう言われてしまうと対応に困った。大臣が、流し目に簾の方をしきりに見ているのも煩わしく、「こういう美人を妻に持っているとお目にかけよう」と思いついた。
「私はこの添っている人を最高の宝だと思っています。どれほど偉い大臣であっても、これほどの者を手にしている者はおられますまい。この年寄りの許には、こんなに素晴らしい者がいるのですぞ。これを引き出物に差し上げましょう」
と、酔っぱらった勢いもあって言うと、屏風を押したたみ、簾から手をさし入れて、北の方の袖を取って引き寄せ、「ここにおります」と言った。
すると大臣は、「実に伺ったかいがあった。本当にうれしく思います」と言って、北の方の袖を引き寄せて、そこに座り込んだ。

大納言はその場を離れながら、
「ほかの上達部、殿上人の方々は、もうお帰り下さい。大臣は、しばらくの間はお帰りになりますまいから」
と言って、手を振って人々を追い払うようにするので、皆はめいめい目配せしあい、ある者は帰って行き、ある者は何かの陰に隠れて、事の成り行きを見ようと残っていた。
大臣は、「ひどく酔ってしまった。もう、車を寄せてくれ。どうにもならぬわ」と言う。
車は庭の隅に寄せていたので、多くの人が寄って行って、近くに引き寄せた。
大納言は車に近付いて、車の簾を持ち上げた。
すると、大臣はその北の方をかき抱いて車に乗せ、続いて自分も乗り込んだ。
大納言はなす術もなく、「やいやい、婆さんよ、わしのことを忘れるなよ」と叫んだが、大臣はそのまま車を出させ帰ってしまった。

大納言は奥の間に入り、装束を脱いで倒れ込んでしまった。ひどく酩酊していて、めまいがし気分も悪く、そのまま前後不覚に寝てしまった。 
明け方酔いがさめ、昨夜のことが夢のように思われて、「あれは皆そら事だろう」とそばにいる侍女に、「北の方は」と尋ねると、侍女たちが昨夜の出来事を詳しく話すのを聞くにつけ、何ともあきれるばかりであった。
「嬉しさに錯乱してしまっていたのだ。酩酊していたとはいえこんなことをする奴がいるものか」と思うにつけ、馬鹿らしくもあり、堪えがたい気持ちが募った。
しかし、今更取り返すことも出来ず、「これもまた、あの女の幸せのためだ」と思ってはみたが、女が自分のことを老いぼれと感じているらしい様子が見えていたこともしゃくで、悔しくて、悲しくて、恋しくて、人目には自分の意志で行ったことのように思わせていたが、心中では、恋しい思いに打ちのめされていた・・・。
    ( 以下、欠文)

     ☆   ☆   ☆


* この項も、書き出しは「今は昔」となっているので、最後は「となむ語り伝へたるとや」で完結すると考えられるのですが、ここで終わっています。書かれていたものが欠落したのか、その他の理由があるのかは不詳です。

     ☆   ☆   ☆






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする