雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

今昔物語集 巻第十二  ご案内

2017-10-06 14:10:50 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          今昔物語集 巻第十二

「巻第十二」は全体の中の位置付けとしては、本朝仏法に当たります。
全部で四十話から成り立っていて、法会の縁起、名僧の行跡などが載せられています。本巻も、それぞれの物語は独立していますので、一話だけでも楽しめます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖人と雷の童 ・ 今昔物語 ( 12 - 1 )

2017-10-06 14:09:34 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          聖人と雷の童 ・ 今昔物語 ( 12 - 1 )

今は昔、
越後国に聖人がいた。名を神融という。世間で古志の小大徳(コシのコダイトコ)というのは、この人のことである。
幼い頃から法華経を信奉し、昼夜これを読み奉ることを勤めとして長い年月が経ち、また、熱心に仏の道を怠ることなく修業を続けていた。
それで、人々はこの聖人を尊び敬うことこの上なかった。

さて、その国に一つの山寺があった。国上山(クガミヤマ)という。
また、その国に一人の男が住んでいた。男は、深く発願して、この山に塔を建てた。その供養を行なおうとしていると、にわかに雷鳴、稲光がして落雷し、この塔を蹴破って、雷(イカヅチ)は天に昇ってしまった。(当時の人は、落雷は雷神の仕業と考えられていた)
願主の男は、泣き悲しんで歎くばかりであった。しかし、「このような事は、自然にあることなのだ」とあきらめて、すぐに、また改めて塔を建てた。
そして、また供養をしようと思っていると、前と同じように雷が落ちて塔を蹴破ったので、男は願いが遂げられないことを嘆き悲しみながら、さらにもう一度塔を建てた。

今度は何としても雷に塔を蹴破られることを防ごうと、心をこめて泣く泣く祈願していると、あの神融聖人がやって来て、願主に向かって、「嘆くことはない。私が法華経の力でもって今度は雷のためにこの塔を蹴破られないようにして、お前の願いを遂げさせてやろう」と言った。
願主の男はこれを聞いて、両手を合わせて聖人に向かい、涙を流してうやうやしく礼拝し、たいそう喜んだ。

聖人は塔の下に来て坐り、一心に法華経を読誦した。
しばらくすると、空が曇り細かな雨が降り始め、稲光がして雷鳴がとどろいた。願主の男はこの様子に恐れおののいて、「これは、前と同じように、塔を蹴破る前兆に違いない」と思って嘆き悲しむ。
聖人は塔を護るという誓いを立てて、声を高くして法華経を読み奉った。するとその時、年のころ十五、六ばかりの童が、空から聖人の前に落ちてきた。その姿を見ると、頭髪は蓬のように乱れていて、大変恐ろし気である。その体は五か所縛られていた。童は涙を流し、転げ回って苦しみながら、声を張り上げて聖人に言った。「聖人、どうか慈悲をもって私を許して下さい。これから後、決してこの塔を壊すようなことは致しません」と。

聖人は童に訊ねた。「お前は、どういう悪心から度々この塔を壊すのか」と。童は、「この山の地主の神は、私と深い交わりを結んでいますが、その地主の神が『わしの上に塔を建てようとしている。そうなれば、わしの住む所が無くなってしまう。この塔を蹴破ってほしい』と言うのです。それで、私は度々塔を壊したのです。ところが、今は法華経の不思議な力によって、きつく縛られてしまいました。この上は、速やかに地主の神を他の所に移り住まわせ、その反逆心を永久になくさせようと思います」と答えた。

聖人は、さらに「お前は、これからは仏法に従い、反逆の罪をつくってはならない。また、この寺のある所を見ると、まったく水の便がない。遥かな谷に下りて水を汲むことは難儀なことである。何とかして、お前はこの場所に水が出るようにしなさい。その水でこの寺の僧に便宜を与えよう。もしお前が水を出すことがなければ、私はお前を縛ったままにして、何年経っても自由にはさせない。また、お前は、この地の東西南北四十里の内で雷の音を轟かせてはならない」と言った。
童はひざまずいて聖人の言葉を聞き、答えて申し上げた。「私は聖人が仰せのように水を出しましょう。また、この山の外四十里の間では、雷の音を轟かせません。いわんや、こちらに向かって来るようなことは致しません」と言ったので、聖人は雷の童を許してやった。

その時に、雷は掌(タナゴコロ)に瓶の水を一滴受け、指で岩の上を掴み穴をあけ激しく動かして、空に飛びあがった。すると、その岩の穴から清らかな水が涌き出した。
願主の男は、塔が壊されなかったことを喜び感激し、念願通り供養を行った。この山寺に住む僧たちは、水の便を得たことを喜び、聖人を礼拝した。
その後、数百年が過ぎたが、塔は壊れることがなかった。また、諸々の所で雷電が鳴り騒ぐことがあったが、この山の東西南北四十里以内には、今日まで雷の音を聞かない。また、その水も絶えることなく、今も出ている。雷の誓いに間違いはなかった。

まことにこれは、法華経の力である。また、聖人の誓いが真実であったことを知り、願主の深い願いが叶ったことを人々が尊んだのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

化生の女の子 ・ 今昔物語 ( 12 - 2 )

2017-10-06 14:08:41 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          化生の女の子 ・ 今昔物語 ( 12 - 2 )

今は昔、
聖武天皇の御代に、遠江国(トオトウミノクニ)磐田郡、[ 欠字あり。里の名前が入る。]の里に、丹生直茅上(ニフノアタイチガミ)という人がいた。
仏道心を起こし、塔を建てようという願いを立てた。しかし、公私ともに多忙で仕事に追われるうちに、その願いを遂げることが出来ないまま長年経ってしまい、この事をとても嘆かわしく思っていた。

そうした時、茅上の妻が六十三歳という年に思いがけず懐妊した。茅上や家の者は、不思議なことだと思い心配しているうちに、月満ちて、無事に女の子を出産した。茅上は、ともかく安産であったことを喜んだが、その生まれた赤子を見ると、左の手を握りしめていて開かない。
「こういうこともあるのか」と思いながら、父母がその手を開こうとすると、いよいよ固く握りしめて開かない。父母はこのことをひどく怪しく思った。
父は母に向かって、「そなたは、子を産むべき年齢でもないのに子を産んだ。それゆえに、根(コン・五根あるいは六根とも。本来有する能力)を備えていない子が産まれたのだ。これは、大きな恥である。しかし、そなたは前世からの因縁があって私の子を産んだのだ」と言って、その子を憎んだり棄てたりすることなく、可愛がって育てていたが、しだいに成長していくほどに、その女の子は比べる者がないほど美しい子になっていった。

やがて、その子が七歳になると、初めてその手を開いて父母に見せた。父母が喜んでそれを見ると、開いた掌の中に仏の舎利(シャリ・火葬にした遺骨。特に釈迦の遺骨を指す。仏舎利。)が二粒あった。
父母はこれを見て、「この子は手に仏舎利を握って生まれてきた。この子は普通の子ではあるまい」と思い、いよいよ大切に育て、諸々の人にこの子が仏舎利を握りしめて生まれてきたことを教えた。
これを聞いた人は皆尊び称えた。この事が世間に広く伝わり、国司や郡司も皆尊んだ。

その後、茅上はこの舎利の塔を建てようとしたが、自分の力だけでは出来かねるので、仏道心に厚い人々の協力を得て喜捨をつのり、その郡(コオリ)にある磐田寺の中に五重の塔を建てて、その舎利を安置し奉り、ついに念願通り供養を行った。
塔の供養をして後、その女の子は、間もなく死んでしまった。父母は大いに悲しんだが、どうすることも出来ない。ある悟りある人が、「これは、遂げることが出来なかった願いを遂げさせるために、仏が女の子の姿となって、舎利を持ってお生まれになり、塔を建てて供養したのちに、お隠れになったのだ」と父母に教えた。

まことに、子を産むべき年齢でないのに産んだうえ、舎利を握っていたことで、それが本当だと分かるのである。
その塔は今もある。磐田寺の中の塔がこれである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山階寺の維摩会 ・ 今昔物語 ( 12 - 3 )

2017-10-06 14:07:51 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          山階寺の維摩会 ・ 今昔物語 ( 12- 3 )

今は昔、
山階寺(ヤマシナデラ・京都の山科にあった寺で、興福寺の前身)において維摩会(ユイマエ・維摩経を説経し本尊を供養する法会。古くは諸寺で行われていたが、興福寺のものが最も知られている)が行われている。
これは、大織冠(ダイショクカン・藤原鎌足のこと。本来の意味は冠位の最高位でその象徴の冠のことであるが、この冠位を受けたのは鎌足だけである)内大臣のご命日である。
この大織冠はもとの姓は大中臣氏(オオナカトミノウジ)である。そして、天智天皇の御代に藤原の姓を賜って内大臣になられた。
十月の十六日にお亡くなりになったので、十日より始めて七日間この法会を行う。この法会は、わが国の多くの法会の中で特に優れたものであるので、震旦(シンタン・中国)にまで知られている。

この法会の起源は、昔、大織冠が山城国宇治郡の山階郷(ヤマシナノサト)の末原の家で病にかかり、長い間患っていたので、朝廷に出仕することが出来なかった。
そうした時、百済国からやって来た尼がいた。名を法明(ホウミョウ)といった。その尼が大織冠のもとに来た時、大織冠は尼に、「あなたの国に、このような病気をした者がいたでしょうか」と尋ねた。尼は、「ございます」と答えた。大織冠が、「それをどのようにして治したのか」と尋ねると、尼は、「その病は、薬の力でも治すことが出来ず、医師(クスシ)でも治すことが出来ません。ただ、維摩居士(ユイマコジ・インドの長者。大乗仏教の流布に貢献した人物)の像を造り、その御前において維摩経を読誦したところ、たちまち病は癒えました」と答えた。

大織冠はこれをお聞きになると、ただちに邸内に堂を建て、維摩居士の像を造って、維摩経を講じさせられた。そして、その尼を講師として迎えた。
初めの日、まず問疾品(モンシツホン・維摩経の一部分)を講じたところ、大織冠の病はたちまち癒えた。そこで、大織冠は大変喜び、尼を拝礼し、翌年から毎年行うことになったが、大織感が亡くなった後は、この法会は絶えてしまった。

大織冠の御子淡海公(タンカイコウ・藤原不比等)は、父の跡を継いだとはいえ、まだ若くして父が亡くなられたので、この法会のことはご存じなかった。その後朝廷で立身し大臣の位に就かれた時に、手の病にかかった。何の祟(タタ)りか占ってみると、父の御時の法事を断ってしまったことによる祟りだといった。
これにより、また改めて、維摩経を講ずる法会を行うことになったが、当時の優れた智者の僧を講師として迎え、あちこちの寺で営んだ。やがて、あの山階の末原の家を移築して寺を建てたので、奈良の京に建てたが、寺の名はやはり山階寺と称したのである。

かの維摩経の法会は、その山階寺で行われる。
承和元年(834)という年から始められ、その後長く山階寺で続けられている。毎年の公事(クジ・朝廷の儀式、行事)として、藤原氏出身の弁官(ベンカン・太政官に属する職員)を勅使に遣わして執り行われ、今に至っている。
また、諸事諸宗の学者を選んでこの法会の講師とし、毎年その賞として僧綱(ソウゴウ・僧尼を統括する僧官)に任ずることが定例としている。
聴衆(チョウジュウ・講師の講説を聴聞する役の僧)にも諸事諸宗の学者を選んで列席させた。また、藤原氏の上達部(カンダチメ・上級貴族)をはじめとして五位の者までが、寝具を縫ってこの法会の僧の布施とした。
すべて、この法会の儀式は、荘厳に行われるばかりでなく、講経や論議のすばらしいことは、昔の浄名の室(ジョウミョウのムロ・維摩居士の居室)に異ならない。仏前の供え物や僧への供え物は、皆、大国(中国を指す)の供え物にならい、他の寺ではまねられないほど盛大に行う。
わが国で仏法が末永く栄え、国王が法令により儀式を行うことに敬意を払っているのは、ただこの法会だけである。

されば、公私共にこれを尊ぶことは並々ならない、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 「浄名の室」という言葉が出てきますが、これは、維摩居士が大乗仏教の根本思想を説いた居室のことを指します。その居室は、一丈四方(ほぼ四畳半位)の簡素なものであったと伝えられています。「方丈」という言葉は、禅宗などの住持の居室や、住職そのものを指しますが、この維摩居士の居室が語源となっています。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高野姫天皇の御仏事 ・ 今昔物語 ( 12 - 4 )

2017-10-06 14:06:55 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          高野姫天皇の御仏事 ・ 今昔物語 ( 12- 4 )

今は昔、
高野姫の天皇(孝謙・称徳天皇)と申される帝王(ミカド)がおいでになった。聖武天皇の御娘である。女の御身でおわしましたが、学問に優れ、漢詩文の道を極められていた。

この天皇の御時に、大極殿(天皇の政治執行の場所)において御斉会(ミサイエ・僧衆に食事を供養する法会)が初めて行われることになった。
大極殿を飾り、正月の八日より十四日に至るまでの七日七夜を限り、昼は最勝王経(鎮護国家の経典として重視された)を講じ、夜は吉祥懺悔(キチジョウサンゲ・吉祥天に懺悔し、災難の消除と招福を祈願する)が行われる。その最勝王経を講ずる講師には、山階寺の維摩会の去年の講師を勤めた人を起用する。
聴衆(チョウジュウ・講説を聞く僧)や法用僧(法会の用務を行う役僧)は、皆、諸寺の優れた学問僧を選んでお召しになった。
結願の日は、天皇は、その講師や聴衆を宮中に招き入れて、布施を与えられ供養をなされる。また、講師を高い床に座らせて、天皇が礼拝される。これは、最勝王経の中で仏が説かれていることである。また、「吉祥懺悔は、これを行う人は、五穀がよく実り、諸々の願い事がみな叶う」と、同じように経の中でお説きになっている。

これによって、この天皇は思慮深く国家を安泰に護るために[ この辺り、一部欠字ある ]、この法会を始められ、永久の行事とされた。今も絶えず行われている。
そういうことで、大臣・公卿も、皆、心を尽くしてこの法会に協力している。また、ある時には、天皇が大極殿に行幸されて、この法会を礼拝なされる。これはみな、経に説かれている通りのことである。また、諸国の国分寺においても、この法会を同じ時に行う。

そういうわけで、わが国の優れた仏事供養といえば、何といってもこの法会である。高野姫の天皇は、神護景雲二年(768)という年の正月の後七日(ノチノナノカ・二十七日を指す。但し、この行事は正月八日から始まるので、「七日の後」といった意味かもしれない)にこの法会をはじめて制定された。
これを御斉会という、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

薬師寺の最勝会 ・ 今昔物語 ( 12 - 5 )

2017-10-06 14:06:08 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          薬師寺の最勝会 ・ 今昔物語 ( 12 - 5 )

今は昔、
天智天皇が薬師寺を建立されて以来、この寺の仏法は栄えている。
ところで、淳和天皇(第五十三代天皇。823年に即位)の御代に、中納言従三位兼中務卿・直世王(ナオヨノオウ・天武天皇の五世王)という人がいた。聡明であり、信仰心があり、仏典にもその他の典籍にも熟達していた。

その人が、天長七年(830)という年、天皇に、「かの薬師寺において、毎年七日間を限って法会を行い、天下を繁栄させ、帝王(ミカド)の万歳を祈らせるために最勝王経を講じて、それを永久の行事といたそうと思います」と奏上した。
帝王は、「申すところもっともである。速やかに申す通りに行い、代々の帝王の御子孫たちを施主とすべし」と仰せられた。
これにより、その年の三月七日、この法会を始めることになった。最勝王経を購読するのを、後々までの勤めとしようとした。その法会の講師には維摩会・御斉会の講師を用い、聴衆には諸寺諸宗の学僧を選んで列席させる。講経や論議は、みな維摩会と同様である。朝廷から勅使を遣わして行われ、講師や聴衆へは並々ならぬ布施が与えられた。僧への供え物は寺に委託された。

「そもそもこの寺の施主は、代々の天皇のご子孫を用いるべし」との宣旨があるので、源氏の姓を賜った御子の子孫をもって施主とする。従って、源氏の中の高位の者をこれに用いた。この法会の勅使にも源氏の者をお遣わしになる。
そういうことで、維摩会、御斉会、そしてこの最勝会を三会(サンエ)という。日本国の大きな法会は、この三会に過ぎるものはない。講師は、一人でこの三会を勤めると、已講(イコウ)という称号が与えられて、この三会の講師を勤めた褒賞として、僧綱(ソウゴウ)の位が授けられた。

されば、この最勝会は、優れた法会なのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本第一の法会 ・ 今昔物語 ( 12 - 6 )

2017-10-06 14:04:04 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          日本第一の法会 ・ 今昔物語 ( 12 - 6 )

今は昔、
山階寺に涅槃会(ネハンエ)という法会がある。これは、二月十五日は釈迦如来が涅槃に入られた日であることから、この寺の僧たちが、「昔の沙羅林(シャラリン・釈迦が入滅した所)の儀式を思うに、その時には、心がない草木さえ、釈迦如来が入滅されたことを知って、慕い悲しんだのである。いわんや、道心があり知恵もある者は、釈迦大師のご恩にお報いしなければならない」と思って相談し合い、この寺の本尊仏が釈迦如来であったので、その御前で、二月十五日に一日だけの法会を行うことにしたのである。
四色の衣をつけた高僧たちは威儀を整え、三部の伎楽(サンブノギガク・三種類の舞楽)は美しい音楽を奏する。

ところで、この法会の儀式は、初めは少々粗略なものであったが、尾張国の国府に仕えるある書記官が、国司の政治の不法を見て、心を仏法に移し、剃髪して、その国を去ろうとしていたところ、たまたま山階寺の僧で善殊僧正(ゼンシュソウジョウ)という人が招かれてこの国に来ていた。この書記官はかねてからの願いから、この僧正の供をして故郷を棄てて山階寺に行き、頭を剃り法衣を着て、その僧正の弟子になった。名を寿広(ジュコウ)という。
もともと心清くして、聡明でもあったので、仏法を学び、音楽の方も習得した。それゆえ、世間の人は皆、この寿広を敬い尊んで、和尚(ワジョウ・宗派により、カショウ、オショウとも呼ぶ)という名で呼んだ。
やがて、この寿広は、涅槃会の儀式を以前より立派に制定し、色衆(シキシュウ・儀式の時の役僧)を整え、楽器を加え、荘厳なものにしたのである。

すると、その翌日、尾張国の熱田の明神が、童子に託して寿広和尚にお示しになった。「そなたは、もとはわが国の住人である。ところが、そなたが『今、尊い法会を行っている』と聞いたので、私は昨日、聴聞のために遥々やって来たのに、大和国全域はことごとく仏の世界になっていて、奈良坂の口には、梵天、帝釈、四大天王が護っておられるので、私は力及ばずして寄ることが出来ず、聴聞することが出来なかった。そのため、大いに歎き悲しんでいる。いったい、どうすればこの法会を聴聞することが出来るだろうか」と。
寿広はこれを聞いて、明神を気の毒に思い、「あなたが、昨日仏法のためにおいでになられたことを、私は存じ上げませんでした。それでは、熱田の明神の御為に特別の配慮をして、もう一度この法会を行いましょう」と言って、歌舞の間に法華経百部を読誦して、昨日と同じように、にわかに法会を行った。
そこで、熱田明神はこれを聴聞[ 欠字あり。「した」と言った意味の言葉か? ]したことは疑いないと思われる。
翌年、法華経百部を書写し、これを講じて、以後末永く二日の法会を行うようになった。これを法華会というのである。
この後、この両方の法会は、寺の行事として絶えることなく今も続いている。

これを思うに、まことに道心ある人は必ずこの涅槃会を聴聞すべきである。「この世の人は、皆、釈迦の四部(シブ・比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷を指す)の御弟子である。それゆえ、ひたすらに釈迦入滅の日を思い、この法会に参詣するならば、罪業を滅し浄土に生まれることは疑いない」と思われる。
また、世間の人が広く言い伝えていることは、「この国の人が、この世を去って冥途に行く時、閻魔王や冥途の役人がいて、『お前は山階寺の涅槃会を拝んだことがあるや否や』と問うそうである。このことから、涅槃会に参詣した道俗男女は、皆、この法会にお供えした唐花(カラハナ・造花の一種)を取り、冥途へ行った時に、涅槃会を参詣した証拠にしよう」と言っている。
このことは、真偽のほどは分からないが、世間の人が語り伝えている。

ともかく、この法会の儀式、作法、舞楽の興はすばらしいもので、他のものとは比べものにならない。想像を超えるものである。極楽とはこういう所なのかと人々は言っているようである。日本第一の法会である、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東大寺の花厳会 ・ 今昔物語 ( 12 - 7 )

2017-10-06 14:03:16 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          東大寺の花厳会 ・ 今昔物語 ( 12 - 7 )

今は昔、
聖武天皇が東大寺を建立され、まず、開眼供養をなさったが、その時、婆羅門僧正という人が天竺からおいでになったが、行基菩薩は前もって知っていて、この人を講師に推薦して供養をしようとされたが、「読師(ドクシ・法会において、講師と相対して仏前の向かって右側に座り、経文などを読み上げる役僧)には誰を迎えようか」と思い悩んでいらっしゃった。
すると、天皇の御夢に、高貴な方が現れて、「開眼供養の日の朝、寺の前に最初にやって来た者を、僧俗を選ばず、貴賤を嫌わず、読師に迎えるべきである」とお告げがあり、夢から覚められた。

その後、天皇はこの夢のことを深く信じられて、その日の朝、寺の前に使いをやって見張らせていると、一人の老翁が笊を背負ってやって来た。その笊には鯖(サバ)という魚が入っている。
使いはこの老翁を連れて天皇の御前に参り、「これが最初にやって来た者でございます」と申し上げると、天皇は、「この翁は、きっと何かわけのある者であろう」と迷いながらも思われて、すぐに翁に法衣を着けさせて、この供養の読師にさせようとしたが、翁は、「私は、とてもそのような器の人間ではありません。長年、鯖を荷って持ち歩き[ 欠字あり。「売る」といった文字か? ]のを仕事にしている者でございます」と申し上げた。
しかし、天皇はその申し出を許さず、ついにその時が来て、講師と並んで高座に登らせた。笊は鯖を入れたまま高座の上に置いた。笊を荷っていた杖は堂の東の方に突き立てた。
供養がすっかり終わり、講師は高座から下りられたが、この読師は高座の上でかき消すように姿を消した。

その時に、天皇は、「そうであろう。この者は、夢のお告げがあったからには、普通の人ではなかったのだ」とお信じになり、残された笊をご覧になると、確かに鯖が入っていたと見えていたのに、それは花厳経(ケゴンキョウ・華厳経)八十巻であった。それを見て、天皇は涙を流して礼拝し、「私の願いの真心が通じて、仏が姿をお見せになられたのだ」と仰せになり、いよいよ深く信仰なされた。
これは、天平勝宝四年(752)という年の三月十四日のことである。

この後、天皇はこの開眼供養の日には、毎年欠かさずこの花厳経を講じて、一日の法会を行われた。その法会は、今も絶えることなく続いている。これを、花厳会という。
寺中の僧たちは、これを毎年の行事として、法衣を調え、請僧(ショウソウ・法会などに招請された僧)となる。朝廷では勅使を遣わし、音楽を奏して法会を行う。道心ある人は、必ずお参りしてその経を礼拝すべきである。

あの鯖を荷った杖は、今も御堂の東の方の庭にある。その丈は長くなることもなく、また、葉が茂ることもなく、常に枯れた姿のままである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

薬師寺の万灯会 ・ 今昔物語 ( 12 - 8 )

2017-10-06 14:02:08 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          薬師寺の万灯会 ・ 今昔物語 ( 12 - 8 )

今は昔、
薬師寺の万灯会(マンドウエ)は、この寺の僧である恵達(エダツ)が初めて行ったものである。
昼は本願薬師経(ホンガンヤクシキョウ・薬師本願経とも)を講じて一日の法会を行う。寺の僧たちは法衣を調え、みな色衆(シキシュウ・法会の際の役僧の総称)を勤める。法会は音楽を中心として歌舞が休みなく奏せられる。夜は万灯を掲げて様々に飾られる。これらはみな、寺の僧の経営であり、施主の寄進によるものである。
三月二十三日と定められ、この法会は今もなお絶えることなく続いている。
わが国の万灯会は、これから始まったのである。

かの恵達は後に僧都になった。
在世中はこの法会を自ら行った。死に臨んで、寺の僧たちに託した。
この恵達僧都は寺の西の山に葬られた。この万灯会を行う夜は、その墓に必ず光がある。

これを思うに、何ともしみじみとして貴いことである。信仰心のある人は必ず参って結縁すべき法会である、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

比叡山の舎利会 ・ 今昔物語 ( 12 - 9 )

2017-10-06 14:01:05 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          比叡山の舎利会 ・ 今昔物語 ( 12 - 9 )

今は昔、
慈覚大師(ジカクダイシ・最澄の弟子)が震旦(シンタン・中国の古称)より多くの仏舎利をもって帰朝し、貞観二年(860)という年に惣持院(ソウジイン・比叡山東塔の一院)を建てて、舎利会を初めて行い、以後長くこの比叡山に伝えられている。
多くの僧を招き、音楽を調えて一日の法会を行う。比叡山全山の僧がこの法会を営み、今もなお絶えることがない。但し、その日は定められておらず、ただ、山が花盛りの時と決められている。

ところで、比叡山の座主・慈恵(ジエ・第十八代天台座主)大僧正は、この法会を母に拝ませるために、貞元二年(977)四月二十一日[ 年月日の部分は欠字になっており補記。]、舎利を山から下ろし奉って、吉田という所でこの法会を行った。多くの僧を招き、音楽を調え、一日の法会を行った。それは当時、すばらしいことと評判になった。

その後、比叡山の座主[ 欠字あり。「院源」らしい。]は、「この舎利会を、京じゅうの上中下の女が拝めないのはまことに残念なことだ」と言って、まず、舎利を法興院に下ろし奉って、京じゅうの上中下の道俗男女がお参りし、大騒ぎして拝んだ。[ 欠字あり。「治安四」らしい ]年のことである。
そして、四月[ 欠字あり。「二十一」らしい。]日に、祇陀林寺(ギダリンジ)において舎利会を行う。舎利を法興院から祇陀林へお移しする間の様子は、他に例がないほどすばらしかった。二百余人の招僧が四色の法衣を着て、定者(ジョウジャ・大法会の通行で、柄のついた香炉を捧げて先頭を歩く小僧)二人を先頭にして二列に並んだ。唐・高麗の舞人・樂人、菩薩・鳥・蝶(いずれも楽曲名)の姿をした童が左右に並んでいる。音楽の音色がすばらしい。

舎利の御輿をお持ちする者は、頭に兜を着け、身には錦を着ている。
朱雀大通を上って行く行列の儀式はまことに尊い。大路の左右には見物の桟敷が隙間なく並んでいる。小一条院(敦明親王。三条天皇の第一皇子)や入道殿(藤原道長)の御桟敷をはじめ、その他の人々の桟敷の様子は想像されたい。道には宝の樹などを多く植えて、空からは色とりどりの花びらを降らせる。僧の持つ香炉には種々の香をたきくゆらせているのが、とてもすばらしい。
舎利を祇陀林に安置し奉ると、法会の儀式や舞楽が終日行われ、大変趣深いものであった。祇陀林寺そのものの荘厳さもすばらしく、極楽そのものである。

その後、舎利を宮中にも、各宮家にもお移しして後、比叡山にお返し申し上げた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする