故郷の 宿もる月に こと問はん
われをば知るや 昔住みきと
作者 寂超法師
( No.1551 巻第十六 雑歌上 )
ふるさとの やどもるつきに こととはん
われをばしるや むかしすみきと
* 作者 寂超法師(ジャクチョウホウシ)は、平安時代末期の貴族であり文化人である。生没年ともに未詳。
* 歌意は、「 故郷の 荒れ果てた家に漏れている月に 尋ねよう。私のことを知っているか 昔ここに住んでいたことを。」と、言葉通りに素直に受け取ることが出来る。
「故郷の月を」という題詠であるが、出家後の作者が、荒れ果てたかつての自宅を守っているかのように漏れてきている月の光を、万感の思いで思い描いているようにも受け取れる。
* 作者の生没年は未詳であるが、生年は、兄弟の生年から、1114年~1117年の間と推定できる。没年は、1170年までは生存していたようであるが、晩年は隠遁生活であったらしく確認できない。
作者の父は、従四位下丹後守・藤原為忠であるので、中級の貴族の出自といえる。
* 寂超の俗名は、藤原為経である。藤原氏の中級貴族として、備後守・長門守・皇后宮少進などを歴任し従五位上に至っており、順調に行けば、父と同様に従四位程度までは昇進する可能性は高かったのではないだろうか。
ところが、1143年、おそらくまだ三十歳に間がある頃に、出家したのである。前年には、長男の隆信(1142-1205)が誕生したところであり、妻とも離縁したうえでの出家らしく、何か大な切っ掛けがあったと想像されるが、その原因は分からない。
* 寂超の妻は美福門院加賀といい、歌人として今日に伝えられているが、寂超と離縁した後、藤原俊成と再婚し、藤原定家らをもうけている。寂超との間に生まれた隆信も立派に一家を成しているが、おそらく美福門院加賀の尽力があったと想像される。
* 出家後、寂超は大原に移り住んだ。その後、1154年には弟の寂然(頼業)が、1158年には兄の寂念(為業)が、いずれも出家して大原に移り住んだ。これによって、大原の三寂と呼ばれた。
大原に移り住んで、寂超は三十年、あるいはそれ以上過ごしており、兄弟三人がそろってからは、どの程度の時間を共有し、どのような生き様であったのか興味深いが、筆者の力では資料を得ることが出来ない。
* 寂超の晩年は、おそらく世捨て人のようなものではなかったかと推定するのであるが、一子の隆信は中級貴族として一家を成し、画家として名を残している。
また、歴史物語「今鏡」の作者は、寂超というのが、ほぼ定説になっている。
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