『 ここからは 私たちの番 』
やきもきしていた 緊急事態宣言が発令された
新型コロナウイルスの感染拡大は わが国だけが特別なはずがない
他国の厳しい状態を回避するためには
対象とされなかった地域も含めて 正念場を迎えている
政府や医療界の呼びかけに ここからは私たちが応えねばならない
社会の力の見せ所だ
一人一人が 『誰にも感染させない行動を』心がけたいと
つくづく思う
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夜をかさね 待ちかね山の 郭公
雲居のよそに 一声ぞ聞く
作者 周防内侍
( No.205 巻第三 夏歌 )
よをかさね まちかねやまの ほととぎす
くもゐのよそに ひとこゑぞきく
* 作者は平安時代後期の女房・歌人。 ( 1037頃 - 1109から1111の間らしい)行年七十三歳位か。
* 歌意は、「 幾夜も待ちかねた 待ちかね山の ほととぎすよ 空の雲の彼方に 一声聞かせていただいたよ 」といったものか。受け取り方に差はあるとしても、比較的分かりやすい和歌といえよう。
なお、「待ちかね山」は待兼山という大阪府豊中市にある山であるが、実際に作者が行ったわけではあるまい。
* 作者の周防内侍(スホウノナイシ)は、女流歌人としては当時の一流であり、歴史上においても、上位に位置付けされるべき存在のように思われる。
周防内侍の本名は、平仲子(タイラノチュウシ)。父は、周防の守従五位上源棟仲、桓武平氏の出自である。母は、従五位下加賀の守源正職の娘。共にいわゆる受領クラスの家柄である。
* 周防内侍は、はじめ後冷泉天皇のもとに出仕したが、1068年に天皇崩御により内裏を退出、相当ふさぎ込んでいたらしい。その後、次代の後三条天皇の求めにより再出仕し、以後、白河天皇、堀河天皇までの四朝に仕えた。掲題の和歌は、寛治八年(1094)の歌合での作品なので、堀河天皇の御代、作者五十八歳頃のものである。
作者は周防内侍の名前で今日に伝えられているが、「周防」は父の官職から名付けられたものであり、「内侍」は天皇の側近くに仕える「内侍司」の女官の総称である。周防内侍は、上位職である掌侍(ナイシノジョウ/ショウジ)に就いており、正五位下を賜っている。
* 周防内侍は、天皇の側近くに有り、多くの歌合にも加わっていて多くの和歌を残している。勅撰和歌集にも全部で35首選ばれている。
また、小倉百人一首にも入っているが、その前書き(詞書)はなかなか面白いものなので、最後にそれを挙げておく。
「 二月ばかり 月のあかき夜 二条院にて人々あまた 居明かして
物語などし侍りけるに 内侍周防 寄り臥して 『枕もがな』と
しのびやかに 言うを聞きて 大納言忠家 『是を枕に』とて
かひなを 御簾の下より さし入れて侍りければ よみ侍りける 」
『 春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなくたたむ 名こそ惜しけれ 』
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