『 鬼さんも福さんも 』
今日は節分
鬼さんも福さんも お元気な一年をと
祈りつつ 豆をまく
恵方巻をいただきました イワシもいただきました
豆も・・・
豆は 年の数だけ食べるとすれば
さて お腹の方が 少々心配・・・
☆☆☆
『 鬼さんも福さんも 』
今日は節分
鬼さんも福さんも お元気な一年をと
祈りつつ 豆をまく
恵方巻をいただきました イワシもいただきました
豆も・・・
豆は 年の数だけ食べるとすれば
さて お腹の方が 少々心配・・・
☆☆☆
『 露は染めける 』
花の色は ただひとさかり 濃けれども
かへすがへすぞ 露は染めける
作者 高向利春
( 巻第十 物名 NO.450 )
はなのいろは ただひとさかり こけれども
かへすがへすぞ つゆはそめける
* 歌意は、「 花の色は ただひと時の盛りのために 華やかな濃い色で咲いているが それも 何回も何回も 露が染め上げた辛苦の結果なのだ 」といったものでしょう。
この歌は、「物名」に組み入れられていますように、前書きには、「さがりごけ」とあります。この「さがりごけ」とは、「さるおがせ」とも言い、奥山の木の枝から垂れ下がる糸状の地衣類の総称で、黄、緑、紅などの色があるようです。
また、歌の二句から三句にかけて、「さかり こけ」と、名前が読み込まれています。
* 作者の高向利春(タカムカノトシハル)は、平安前期の人物です。
生没年は未詳ですが、官暦が残されていますので、活躍した年代は明らかです。
890 年に、刑部丞に就いています。この職掌は従六位クラスですので、初任としては決して低くないと思われます。
ただ、次に記録として残っているのは、910 年に、武蔵権少掾に就いていますが、この職掌は従七位上程度ですので、二十年を経て左遷か、好意的に見ても同等で地方官になったと考えられます。
* しかし、翌 911 年には、武蔵野介に昇っていますので、武蔵権少掾としての働きが認められたのでしょう。
そして、914 年には従五位下を叙爵し、貴族の仲間入りを果たしています。
918 年には、武蔵守に昇っていますので、この地での働きの評価は高かったのでしょう。
928 年には、甲斐守となり、これが最終官位のようです。
* 高向氏は、河内国錦部郡高向(現在の河内長野市辺り)を本貫地とした豪族です。武内宿禰の流れをくむとされますので、蘇我氏などと同祖の古代豪族です。
しかし、この頃には、一族の力は弱体化していました。利春も、小野美材の養子になっています。この小野美材も従五位下の下級貴族ですが、あの参議小野篁の孫に当たる人物です。
* これによって、利春は小野氏の系図に組み入れられて、小野氏横山党の祖に擬せられています。小野篁の後継とする文献も多いようですが、系図上は矛盾はないと言えます。
この小野氏横山党は現在の八王子市辺りを本拠とする有力武士団ですが、利春が長く武蔵国の官吏であったことが影響していたのかもしれません。
横山党は武蔵七党の一つとされる有力武士団でしたが、鎌倉時代、執権北条義時と和田義盛とが対峙した時に和田義盛に味方したために敗北、以後、一族は衰退していったようです。
* 平安時代初期は、古代からの豪族の多くが、力を失っていく時代でもありました。利春もその一人だったのかもしれません。
しかし、武蔵国権少掾の任命は、おそらくは左遷または冷遇されたものと推察されるのですが、それを逆手に取るかのように、介から守(国守)にまで上り詰めて、この地に確固たる地盤を築いたのではないでしょうか。
これは、全く個人的な推定ですが、資料があるのであれば魅力のある題材であり、利春の意外な一面が隠されているのではないかと考えています。
☆ ☆ ☆