ちょっぴり『老子』 ( 8 )
和光同塵
「和光同塵」とは
「和光同塵(ワコウドウジン)」という言葉は、辞書にも載っています。
その説明によりますと、「自分の才能や優越性をひけらかさず大衆と同化すること」とあり、『老子』から、とあります。それともう一つ、仏教においては、「仏が本来の知恵を隠して俗世間に現れ、人々と交わること」という説明もなされています。
この言葉は、『老子』第四章から来ています。
該当の部分は、「和其光、同其塵」となっていて、「その光を和(ヤワ)らげ、その塵(チリ)に同ず」と読まれています。
この章は、『道』は万物の始祖であることを説明しようとしていると思われます。
第四章全体の内容を説明してみますと、
「『道』は空虚な器のように空っぽであるが、いくら用いても充満することはなく、後が使えなくなるようなことはなく、奥深くて万物の始祖であるような感じがする。 そして、万物の中の鋭いものをくじき、紛争を解決し、輝いているものの光を和らげ、『道』自身は塵と同じ所に身を置いている。
このような『道』は、深い水のようで表面には何も見えないが、その奥深い所には、何かが存在しているようである。その何かが『道』そのものなのだろうが、私は、それが何から生まれたものか知らない。それは、天が生ずる前から存在しているらしい」
と、『道』の正体らしいものに触れているのですが、『老子』はそれがどうして生まれてきたものか知らない、というのです。
塵と言われるのはつらいが
「和光同塵」の辞書の説明によれば、『老子』から引用されたものも、仏教の言葉と説明されているものを見ても、私たち一般大衆を「チリ」とたとえているように思われます。
『道』という存在がいかに大きいとしても、『老子』や「仏陀」がいかに優れた存在だとしても、「お前たちはチリと同じだ」と言われているとすれば、あまり素直になれない気もします。
しかし、もう少し冷静に考えて見れば、そのように思うこと自体が、「まだまだ青い」と笑われるかもしれません。
さて、「チリ」に等しい私たちは、賢人の教えをどう受け取りますか。
( 第四章より )
★ ★ ★
和光同塵
「和光同塵」とは
「和光同塵(ワコウドウジン)」という言葉は、辞書にも載っています。
その説明によりますと、「自分の才能や優越性をひけらかさず大衆と同化すること」とあり、『老子』から、とあります。それともう一つ、仏教においては、「仏が本来の知恵を隠して俗世間に現れ、人々と交わること」という説明もなされています。
この言葉は、『老子』第四章から来ています。
該当の部分は、「和其光、同其塵」となっていて、「その光を和(ヤワ)らげ、その塵(チリ)に同ず」と読まれています。
この章は、『道』は万物の始祖であることを説明しようとしていると思われます。
第四章全体の内容を説明してみますと、
「『道』は空虚な器のように空っぽであるが、いくら用いても充満することはなく、後が使えなくなるようなことはなく、奥深くて万物の始祖であるような感じがする。 そして、万物の中の鋭いものをくじき、紛争を解決し、輝いているものの光を和らげ、『道』自身は塵と同じ所に身を置いている。
このような『道』は、深い水のようで表面には何も見えないが、その奥深い所には、何かが存在しているようである。その何かが『道』そのものなのだろうが、私は、それが何から生まれたものか知らない。それは、天が生ずる前から存在しているらしい」
と、『道』の正体らしいものに触れているのですが、『老子』はそれがどうして生まれてきたものか知らない、というのです。
塵と言われるのはつらいが
「和光同塵」の辞書の説明によれば、『老子』から引用されたものも、仏教の言葉と説明されているものを見ても、私たち一般大衆を「チリ」とたとえているように思われます。
『道』という存在がいかに大きいとしても、『老子』や「仏陀」がいかに優れた存在だとしても、「お前たちはチリと同じだ」と言われているとすれば、あまり素直になれない気もします。
しかし、もう少し冷静に考えて見れば、そのように思うこと自体が、「まだまだ青い」と笑われるかもしれません。
さて、「チリ」に等しい私たちは、賢人の教えをどう受け取りますか。
( 第四章より )
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