ちょっぴり『老子』 ( 3 )
『道』を尋ねて
『道』って何?
『 道可道 非常道。 』
これが、『老子』の冒頭部分の言葉です。
日本語の読みとしては、「道の道とすべきは 常の道に非ず」(ミチのミチとすべきは ツネのミチにアラず)となります。
なお、この部分に限りませんが、読み方については研究者により異なりますし、原文さえも文献により違う部分があることはご承知おきください。
さて、この冒頭部分ですが、『老子』の中で最も難解な部分だと説明している研究者さえいます。
まあ、どんな物事であっても、難しいといえば限りなく難しくなってしまうわけですが、この部分が完全に理解できてしまえば、『老子』の大半を理解したことになるということなのかもしれません。
冒頭部分でこんなことを言ってしまえば、後は何のために読むのかということになりますが、極論すれば、『道』とは何ぞかを理解し、体得するためのヒントのようなものが列記されているということなのかもしれません。
この『道』というのは、道教などでいわれる『タオ』にあたります。
つまり、『老子』の教えの根源を成すものといえましょう。
では、『道』とはどういうことなのかについて、まず冒頭に記されているわけです。
つまり、「『道』とは、こういうものだよ、と説明されるようなものは、本当の『道』ではないよ」と、『老子』はまず述べているわけです。
言葉に出して、あるいは文字にして伝えられるようなものは、いくら立派なことを言っても、それは正しい『道』を説明していることにはならない、というわけです。
『道』を尋ねて何千年
『老子』の教えの根源となるものは間違いなく『道』だと思うのですが、それがどのようにものであるか、言葉で表せないとしても例えばこのような感じだということで例を挙げてみますと、「全てを司っているもの」「大いなるもの」「絶対的な真理」といったものをイメージしていただきたいと思うのですが、これらのすべてが、「ただしい『道』ではない」ということも、同時にご承知していただく必要があるわけです。
『老子』という大人物が出現し、『老子』という文献を後世に残してくれたのは、おそらく二千五百年ばかりも昔のことです。
その後、多くの人たちが、『老子』について学び、研究して来ているのでしょうが、それはまさに「『道』を尋ねて何千年」という歴史なのかもしれません。
その過程で『道』を体得したいわゆる聖人といわれるような人は数知れずいるのでしょうが、今なお、「これが『道』ですよ」と言葉や文字に出来る人はいないようです。
では、ほんのちょっぴり『老子』に触れようとしている私たちはどうすればよいのかということになります。
とりあえずは、私たち一人一人が「『道』とはこういうものだろう」というものを心に描いて、この後『老子』に触れて行きながら修正していくことではないかと考えています。
(第一章、より)
* * *</f0nt>
『道』を尋ねて
『道』って何?
『 道可道 非常道。 』
これが、『老子』の冒頭部分の言葉です。
日本語の読みとしては、「道の道とすべきは 常の道に非ず」(ミチのミチとすべきは ツネのミチにアラず)となります。
なお、この部分に限りませんが、読み方については研究者により異なりますし、原文さえも文献により違う部分があることはご承知おきください。
さて、この冒頭部分ですが、『老子』の中で最も難解な部分だと説明している研究者さえいます。
まあ、どんな物事であっても、難しいといえば限りなく難しくなってしまうわけですが、この部分が完全に理解できてしまえば、『老子』の大半を理解したことになるということなのかもしれません。
冒頭部分でこんなことを言ってしまえば、後は何のために読むのかということになりますが、極論すれば、『道』とは何ぞかを理解し、体得するためのヒントのようなものが列記されているということなのかもしれません。
この『道』というのは、道教などでいわれる『タオ』にあたります。
つまり、『老子』の教えの根源を成すものといえましょう。
では、『道』とはどういうことなのかについて、まず冒頭に記されているわけです。
つまり、「『道』とは、こういうものだよ、と説明されるようなものは、本当の『道』ではないよ」と、『老子』はまず述べているわけです。
言葉に出して、あるいは文字にして伝えられるようなものは、いくら立派なことを言っても、それは正しい『道』を説明していることにはならない、というわけです。
『道』を尋ねて何千年
『老子』の教えの根源となるものは間違いなく『道』だと思うのですが、それがどのようにものであるか、言葉で表せないとしても例えばこのような感じだということで例を挙げてみますと、「全てを司っているもの」「大いなるもの」「絶対的な真理」といったものをイメージしていただきたいと思うのですが、これらのすべてが、「ただしい『道』ではない」ということも、同時にご承知していただく必要があるわけです。
『老子』という大人物が出現し、『老子』という文献を後世に残してくれたのは、おそらく二千五百年ばかりも昔のことです。
その後、多くの人たちが、『老子』について学び、研究して来ているのでしょうが、それはまさに「『道』を尋ねて何千年」という歴史なのかもしれません。
その過程で『道』を体得したいわゆる聖人といわれるような人は数知れずいるのでしょうが、今なお、「これが『道』ですよ」と言葉や文字に出来る人はいないようです。
では、ほんのちょっぴり『老子』に触れようとしている私たちはどうすればよいのかということになります。
とりあえずは、私たち一人一人が「『道』とはこういうものだろう」というものを心に描いて、この後『老子』に触れて行きながら修正していくことではないかと考えています。
(第一章、より)
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