雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

無償の値段 ・ 小さな小さな物語 ( 128 )

2010-07-04 18:11:56 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
日本航空の再建問題が大詰めを迎えています。
親方日の丸といった経営がここまで追い込んでしまったのだという意見があり、一方で、国策から到底採算にのらない路線でも引き受けなくてはならなかったという同情論まで、様々な人が様々な意見を述べています。この種の問題ではいつも思うことですが、幾つか示されている再建案のどれが良いのか難しいところですが、後から好き勝手を言うのは簡単なことだということだけはよく分かります。
いずれにしても、高度成長期の花型企業が今まさに地に落ちようとしていることに、一抹の淋しさを感じます。


あるテレビ番組の中で、日本航空の再建の施策の一つとして、一人前と思われるコメンテイターの人が機内食の有料化についてご高説を述べているのを聞きました。
もっとも、企業再建にあたっては、人員削減を始めとして経費の削減を図ることは、いくら凡庸な再建責任者でも考えつくことです。そういう意味では、ご高説はまことに基本に忠実なご意見だともいえますが、そもそも、機内食は無償だと本気で考えているのでしょうか。


およそ、企業が顧客のために提供するもので無償などというものは、そうそうあるはずがありません。機内食などはその典型的なもので、運賃に機内食が含まれていることなど常識以前のことだと言えましょう。機内食を有料にするということは、機内食を別建てにするというだけのことなのです。
このように、無償といわれるもののほとんどに、コストすなわち値段が付いているのです。どういう形で負担しているか、負担する人としない人があるなどの差異はあるとしても、価値のある無償など、簡単に生み出せるものではありますまい。


かつて、愛とは限りなく奪うものだと唱えた文学者があり、いや、限りなく与えるものこそ愛だと主張する人もいます。
物品に限らず、精神的なものであっても、そうそう無償のものなど少ないのかもしれません。奪うとか与えるとか意見が分かれることをみると、愛にも何らかの対価が裏付けされているようにさえ思ってしまいます。
まあ、あまり小憎らしい理屈は置くとしますが、私たちの生活の中には無償というものは極めて少ないと考えるべきです。
せめて、大切な人や愛する対象と接するときは、自分の気持ちを誠実さや真心や愛情などといったオブラートで丁寧に包んで受け取ってもらう心掛けが必要なのかもしれません。
ただ、これがなかなか難しいんですよね。

( 2010.01.11 )
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愛と勇気と希望の日 ・ 小さな小さな物語 ( 129 )

2010-07-04 18:10:44 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
本日、一月十四日は「愛と勇気と希望の日」だそうです。ご存知でしたか?
私は全く知らなかったのですが、ラジオ番組の中で話題にされていたので初めて知りました。それにしても、愛と勇気と希望ですからね、ご立派といいますか、厚かましいといいますか、どれ一つをとっても独立した記念日を作れる要素ばかりですから、記念日を作るのが好きな方から苦情は出なかったのでしょうか。素晴らしい要素を集め過ぎだと。


この記念日の由来は、1959年 (昭和34年) 南極に置き去りにされたカラフト犬二匹が、厳しい一年を生き抜いていたのが発見された日にあたることからです。
タロー、ジロー発見のニュースは、多くの日本人を感動させたばかりでなく、世界中に明るいニュースとして伝えられました。後に映画化もされていますので、それにより感動された方も少なくないのでしょう。


愛と、勇気と、希望と、これほど立派な三点セットに文句をつけるのは、我ながらどうかとは思うのですが、物語には常に側面があることも考えなくてはなりません。
タロー、ジローが発見された前年の南極観測隊は厚い氷に閉ざされヘリコプターで救助される事態となりました。十一人の隊員は無事救助されましたが、十五匹のカラフト犬は置き去りにされてしまったのです。
隊員を始め関係者の方たちは、断腸の思いでカラフト犬を置き去りにしたのでしょうが、たとえどんな思いであれ、置き去りにした事実は事実だと思うのです。


残されたカラフト犬も、タロー、ジローが脚光を浴びる陰で、十三匹は死んでいるのです。私たちは、極寒の地で死んでいった十三匹のカラフト犬たちに、もっと思いを寄せてもいいのではないでしょうか。
もっとも、彼らは、それも迷惑なことだと思っているかもしれません。

( 2010.01.14 )
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逝きし人に ・ 小さな小さな物語 ( 130 )

2010-07-04 18:09:23 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
一年で寒さの最も厳しいこの季節に、それでも三月のように暖かい日が来るという予報を聞きながら、大切な人を送りました。


私たちの生活において、人の死を不幸と考える限り平安な生活などないと、自分自身としては悟ったつもりですが、いざ直面してみますと、やはり寂しさは抑えることができません。


旅立っていった人は、天寿は全うしたといえますし、私にとってはおそらく最後の大きな責任を果たし終えた思いですし、旅立った人も、それほどひどい人生ではなかったよ、と思ってくれていると思われ、不幸な出来事といった思いはありませんが、今までいた人が無くなるということは、やはり一抹の悲しさや寂しさはあるものです。


一人の人生を思い起こせば、社会的な関心や影響力などとは関係なく、明らかな足跡が浮かんできます。今はただ、感謝し、次の世での平安を祈るばかりです。   合掌。

( 2010.01.23 )
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原風景を想う ・ 小さな小さな物語 ( 131 )

2010-07-04 18:07:37 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
原風景という言葉から、どのようなものを想い描きますか?
テレビ番組などで紹介される場合、里山や山並みや小川の流れ、あるいは田園風景などが多いように思われます。
いつもお世話になる「広辞苑」によりますと、原風景とは、「心象風景のなかで、原体験を想起させるイメージ」と説明されています。かなり難解な説明だと思いませんか。
具体的で分かりやすい表現をしたいと考え、「心象」や「原体験」という言葉を調べていきますと、ますます難解になっていきます。
そこで、このコラムではもっと単純に、ふと心に浮かんでくる懐かしい風景や出来事などを指すものとしました。


そこで、自分にとって原風景といえるものにどのようなものがあるのかと考えてみますと、さて、これが簡単に想い浮かべることができないのです。
幼い頃の幾つかの風景、嬉しいことや辛かったときの一瞬の映像、あるいは甘酸っぱいような青春のひとときなど、まあ、それなりに浮かんでくるものはあるのですが、それらをもって自分の原風景といえるものかどうかといえば、少々考えてしまいます。


母は、子供の頃、となり村までお使いに行った帰り道で小川の土手にたくさんの花が咲き乱れているのを見つけたことがあったそうです。言いつけられた用事の途中であることも忘れて、長い時間花を摘んで遊んだことをよく話していました。
母にとって、あの光景は、大切な原風景の一つであったことは確かなように思うのです。


問われて即答できるような強烈な原風景をもっていることが、幸せかどうか一概には言えませんが、人生の終末にあたったとき、豊かな気持ちで想い描くことができる原風景のようなものの一つや二つは持っていたいものだと思います。
いまごろ母は、母が描いていた原風景のような花が咲き乱れる野道を、道草をくいながらハミングするような軽い足取りで、彼の国に歩いて行ってくれているものと願っています。

( 2010.01.26 )
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愛妻の日 ・ 小さな小さな物語 ( 132 )

2010-07-04 18:06:29 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
明後日になりますが、一月三十一日は愛妻の日だそうですが、ご存知でしたか?
子供さんや独身の人などには関係が薄いかもしれませんが、興味がある方は同協会のホームページなどをご覧ください。


この記念日、歴史はまだ新しいようですが、その設立趣旨は「最も身近な赤の他人である妻を大切にする人が増えると世界はもっと平和になる、という甘い理想をもとに・・・」全世界に活動を広めようという遠大なもののようです。
そして、今年の記念日の活動方針は、一月三十一日の午後八時に日本中の夫が妻に対して「ありがとう」と感謝の言葉を述べることだそうです。
ごく簡単なことですが、さて、これがなかなか難しいようで、一部では予行演習が行われているとか・・・。当コラムが二日早く記念日のご案内をするのも、奥さまに感謝の言葉を述べるのが相当苦手そうなあなたのために、練習をしておくための親切心なのですよ。


ところで、愛妻家と呼ばれる人が世間には時々いますが、あれは褒め言葉なのでしょうか、ねぇ。多分、よい意味悪い意味の両方で使われるのでしょうが、なかなか微妙な意味を含んだ言葉であることは確かなようです。
今回は愛妻の日がテーマですから、夫側からの考えが中心になりますが、妻側からみた場合でも、夫婦間の在り方は実に様々で、考えてみれば不思議な関係ですよね。最近は、離婚も随分増えましたが、曲がりなりにもどちらかが亡くなるまで添い遂げる夫婦の方が多いのですから、愛妻の日に限らず、連れ添う相手を今よりもほんの少しだけでも思いやり感謝する心を育てることは大切なのかもしれません。


愛妻の日を知ったおかげで、これだけのことを考えさせてくれたことには感謝しますが、少々心配もあります。
妻に感謝の言葉を述べるとき、単に言葉だけではなく、ちょっとしたプレゼントがある方がさらに良いとか。そして、プレゼントの第一位はお花で、第二位はアクセサリーだというまことに親切な情報も伝えられています。
そう、心配なことは、バレンタインデーの二の舞にならないかという心配です。
節分の巻きずし、バレンタインデーのチョコレート、ホワイトデーのマシュマロ・・・、どうもこの季節、私たちは乗せられやすい季節のようなので、しっかり地に足をつけて、愛する妻に感謝の言葉を述べましょう。

( 2010.01.29 )
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二月如月の候 ・ 小さな小さな物語 ( 133 )

2010-07-04 18:05:16 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
今日から二月に入りました。毎年のことながら、早いものです。
昔は二月を「きさらぎ」と呼びましたが、実に美しい言葉だと放送されているのを耳にしました。


如月の語源は、寒さが大変厳しい折から、着物を更に重ね着するとの意味の「着更着」からきているという説が有力なようです。確かに、現在の私たちにとっても、二月初旬の頃は一年で寒さが最も厳しい季節にあたります。
一方で、如月の語源として「気更来」とか「生更木」という説もあるようです。こちらの方は、陽気が春めいてくるとか、草木が生えだす頃といった意味を持っています。
一見相反するような語源のように見えます。


もっとも、辞書によりますと、如月とは旧暦二月のこととあります。少々理屈っぽくなりますが、二月のことを如月というのではなく、旧暦二月のことを如月というのですから、本日、すなわち新暦二月一日である本日から「如月」となりましたというのは正しくない表現のようです。因みに、今年の旧暦の二月一日は、新暦では三月十六日にあたりますので、如月を春の到来と感じ取る方が正しいようにも思われます。
まあ、目くじら立てるほどのことではありませんが・・・。


いずれにしましても、二月というのは新暦においても慌ただしい月のようです。
昔は、二月は「ニッパチ」といって、八月とともに商売が不振の月とされていました。あまりバタバタせずに巣穴に籠っている方が無難だという先輩もおりましたが、学校へ通う子供を持つ家庭にとっては気の抜けない月でしょう。
それに何より、二月は二十八日までですから、この僅か二日、三日の差が意外に大きく慌ただしさを感じてしまいます。
しかし、二月は、ここ数日は一年で一番寒さの厳しい気候ですが、梅の便りも間もなくですし、二月の終わる頃には春めいた日もあるはずです。いつもより短い月だけに心を引き締めて、いにしえ人が名付けた「きさらぎ」という美しい言葉が新暦でも通用するように生活したいと思っています。

( 2010.02.01 )
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立春に思うこと ・ 小さな小さな物語 ( 134 )

2010-07-04 18:04:10 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
今日は立春です。
全国的に寒い立春のようですが、ほぼ毎年、この頃は厳しい寒波を迎えることが多いようです。今年も「春は名のみ」という言葉が実感される立春となりました。


それにしても、立春という言葉は実に美しい言葉だと思われませんか。文字としても、また耳で聞く場合でも、大変美しいように思うのです。
もちろん、同じ性格の言葉としてある、立夏、立秋、立冬にも同様の感じは受けますが、やはり立春には独特の明るさや力強さが感じられます。その理由としては、かつては新年とリンクされていたことや、春夏秋冬といわれる季節の先頭であることや、八十八夜とか二百十日などが立春を起点としているなどに影響されているのかもしれません。


ご承知のように、立春は二十四節季の一つですが、昼夜の長さが同じである春分と秋分があり、これと対角の形で夏至と冬至があります。そして、冬至と春分の間に立春があり、春分と夏至の間に立夏があり、夏至と秋分の間に立秋があり、秋分と冬至の間に立冬があります。
さらに、それぞれの間を細分化し、一年を二十四等分させたものが二十四節気と呼ばれるものです。


この二十四節季、その多くが私たちの生活からは縁が薄くなってきていますが、その一つ一つが、実に美しい言葉で名付けられています。それぞれが持つ意味が私たちの生活実感と結びつかなくなっていることが多いと思われますが、時には、優雅な言葉に触れて、たとえ人工的な自然であるとしても、季節の流れを感じ取る余裕が欲しいと思っています。

( 2010.02.04 )
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子供手当 ・ 小さな小さな物語 ( 135 )

2010-07-04 18:02:59 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
民主党政権の目玉施策の中で、子供手当に注目しています。
幸か不幸か、私はこの制度の恩恵には浴さない世代なので、ある程度冷静に施策の良否を判断できるように思っています。


もともとこの制度が表舞台に出てきたのは何に原因があったのでしょうか。
この制度は、民主党政権独自のものでもなく、前自民党政権でも内容はともかく実施されていたことですから、子供手当のような制度が必要だというのは多くの方の意見だと考えられます。
それでは、何ゆえに必要なのでしょうか。
少子化対策なのでしょうか。子供の福祉のためなのでしょうか。子育て世代への家計支援なのでしょうか。あるいは、選挙対策上かなり有効なキャッチフレーズだからでしょうか。


子供は社会の宝であって、単に親の負担だけでなく社会全体で支えていくべきだという意見があります。かつて、江戸時代などでも、七歳までは神の子といわれ、幼い子供は社会全体が大切にしていたとも言われています。
つまり、歴史的に見ても、子供を社会全体で支えていくべきだということは正しいことのように思われます。
ただ、その手段が子供手当なのかといえば、少々安直な手段のようにも見えるのです。


また、この制度の実施には膨大な予算が必要となります。すでに実施を危ぶむ意見も聞こえてきています。単純に国債を増発すれば、予算など簡単に計上することができますが、膨大な国家の借財を大切なはずの子供たちに背負わせてしまうことになります。
当然そのようなことはできませんから、どこかを削って捻出することになります。埋蔵金と呼ばれるような資金を充てるのは邪道であって、現在計上されている予算の中から振り替えるのでなければ、政策とはいえないでしょう。
子供を社会全体で支える。それも口先だけではなく、経済面からもしっかりと支える。
それが絶対に正しいことだとすれば、現在私たちが恩恵を受けているあらゆる制度から、相応の肩代わりがなされることを覚悟するべきだと思うのです。

( 2010.02.07 )
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過去と未来の間にあるもの ・ 小さな小さな物語 (136 )

2010-07-04 18:01:34 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
ほんの少しばかり、宇宙や天体に関する本を読みました。
勉強してみようという気持ちからではなく、図書館で立ち読みする程度に読み流しただけですが、それでも、考えさせられることがあります。
どうも、やりきれないような現実に直面すると、宇宙に関する本を見て、現実から逃避しようとする癖が私にはあるようです。


今回もその類なのですが、宇宙の仕組みとか、遥かなる天体から地球まで光が届くまでに要する時間などの記事を見ていますと、何とはなく気持ちが落ち着いてくるのです。
今回見た記事の中で心に残ったものは、私たちが見ているものは、すべて過去のものだというものです。
私たちが目にしているものは、その物体が発する、あるいは反射させる光を脳が認識しているものだという説明は、私には実に新鮮なものでした。
何百光年、何千光年、あるいはそれ以上遠い彼方からくる光はもちろんですが、すぐ目の前にあるものでも、私たちの目に届くまでにいくばくかの時間を要していることになります。さらに、私たちが目にしたものを脳が認識するまでにも若干の時間を必要としていますので、私たちが見ている物体や現象はすべて過去のものだということになります。


すなわち、私たちはすべて過去のものを見ており、一瞬先のことから遥かなる先の世界までを含めて、現実に存在していないものを思い描くすべてのものが未来ということになります。
さて、それでは現在はどこにあるのかということになります。
私はこれまで、多くの場合において、存在するものは現在だけであって、過去はすべて過ぎ去ったものにすぎず、未来はすべて想像上のものだという考え方が根本にありました。
しかし、どうも、最も存在が分かりにくいのが現在のような気がしているのです。


まあ、他愛もないことをあまり真剣に考えても仕方がないのですが、自分たちが現実に感じ取っていると思っている現在というものが、単に過去と未来を区分するだけのごくごくわずかなものであることだけは確かなように思えるのです。
私たちは、私たちが現在だと認識しうる中で出会う人や物に対して、もっともっと真剣に、そして誠実に対することが必要なのではないでしょうか。

( 2010.02.10 )
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春を待つ ・ 小さな小さな物語 ( 137 ) 

2010-07-04 18:00:19 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
わが家の小さな庭も、一人前に冬枯れ状態です。
このところ天候が悪く、風の強い日もあり、庭は放ったらかされています。もっとも、お天気のせいにしている部分もあるのですが。


今朝は、少し寒いことは寒いのですが日差しもあることですので、少々庭の手入れをしました。
小さな庭の中のさらに小さな菜園には、チンゲンサイ、シュンギク、ホウレンソウが、気の毒なほどつつましやかに育っていて、収穫を待っています。これらは、いずれも十一月に種を播いたものですが、時期が少し遅かったこともあり、いまだに、まことに可愛いままです。
他に、タマネギとソラマメが育っていますが、これらは六月の収穫に向けて今のところは順調なはずです。
ネギも、ほんの少しばかり伸びていますが、これはスーパーで買ってきたものの根っこを植えたもので、まあ、横着な話です。


草花の方は、買ってきた鉢植えの花が少々あるだけで、後は全く冬枯れ状態。さびしい庭です。
それでも、スイセンやフリージアは、何処にこれほど球根があったのかと不思議なほどに葉を伸ばし、スイセンは申し訳程度に花を咲かせています。そこで少しばかり丹念に見てみますと、今朝は薄氷が張っているのですが、凍てついた土の合間に、チューリップがここかしこに頭を覗かせていて、ユリも黄緑色の葉を見せています。
みんな、春を待ちかねているのですね。


年末から今年にかけて、庭の手入れを怠けてきましたが、草花たちは、それぞれの命をしっかりと育んでいるようです。
今日は、先ほど摘んできたシュンギクのおひたしなどを頂いて、私もしっかりと春を迎えることにしましょう。

( 2010.02.13 )
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