冤罪事件の再審の様子が話題になっています。
人が人を裁く限り、正当な裁判を経てなお冤罪ということが起こるのを、避けることはできないのでしょうか。
冤罪そのものは、何も最近になって発生したものではなく、人類が集団生活を始め、規律のようなものが定められたその時から発生していたのではないでしょうか。
また、冤罪といっても、万全の調査のもとでなお発生するものと、悪意のものとがあるように思われます。悪意のものとは、取り調べ担当者や裁判官の故意あるいは重大な怠慢によるものを差していますが、時代によっては、時の政権の方針により故意に重大犯とされた例は、洋の東西を問わず数限りあることでしょう。
一方で、麻薬常習者や、性犯罪者、あるいは異常と思われるストーカーなどによる、大変不幸な重大事件も少なくありません。
私など法律の素人からすれば、なぜ事前に問題人物を拘留するなり、具体的な刑罰を適用することができなかったのかと思うことも少なくないのですが、人権であるとか、国家権力による苦い歴史とかを考え合わせれば、難しいことなのでしょうね。
「疑わしきは罰せず」というのが、わが国の裁判の原則だそうですが、それは、「力のある人や賢い人は罪を逃れやすい」ということを差しているのだとばかり思っていたのですが、必ずしもそうではなく、人が人を裁く以上は冤罪は起こりうるという前提に立っている原則なのでしょうね。
つまり、私たちは集団生活をする限り、それも国家という膨大な数の人々が同一組織として生活圏を築く限り、そこにはルール、すなわち法律が必要であり、それを犯すものは裁かなくてはならないのです。
裁く基準は厳正に定められているとしても、実行に当たるものは人間であり、常に間違った判断をする可能性があるわけです。また、いくら危険人物であっても、現に法律を犯していなければ、あるいは犯していても立証できなければ、拘束することも裁くこともできないのでしょう。
それが法律の運用であり、若干の冤罪や犯罪の見逃しは仕方がないのでしょう。社会全体としては、その程度の誤差は受け入れなければならないのかもしれません。
ただ、その不運にぶち当たった個人にすれば、場合によっては人生の大半を失うことにもなります。そのような人をどのように救済すべきなのか、なかなか難しい課題のようです。
( 2010.02.16 )
人が人を裁く限り、正当な裁判を経てなお冤罪ということが起こるのを、避けることはできないのでしょうか。
冤罪そのものは、何も最近になって発生したものではなく、人類が集団生活を始め、規律のようなものが定められたその時から発生していたのではないでしょうか。
また、冤罪といっても、万全の調査のもとでなお発生するものと、悪意のものとがあるように思われます。悪意のものとは、取り調べ担当者や裁判官の故意あるいは重大な怠慢によるものを差していますが、時代によっては、時の政権の方針により故意に重大犯とされた例は、洋の東西を問わず数限りあることでしょう。
一方で、麻薬常習者や、性犯罪者、あるいは異常と思われるストーカーなどによる、大変不幸な重大事件も少なくありません。
私など法律の素人からすれば、なぜ事前に問題人物を拘留するなり、具体的な刑罰を適用することができなかったのかと思うことも少なくないのですが、人権であるとか、国家権力による苦い歴史とかを考え合わせれば、難しいことなのでしょうね。
「疑わしきは罰せず」というのが、わが国の裁判の原則だそうですが、それは、「力のある人や賢い人は罪を逃れやすい」ということを差しているのだとばかり思っていたのですが、必ずしもそうではなく、人が人を裁く以上は冤罪は起こりうるという前提に立っている原則なのでしょうね。
つまり、私たちは集団生活をする限り、それも国家という膨大な数の人々が同一組織として生活圏を築く限り、そこにはルール、すなわち法律が必要であり、それを犯すものは裁かなくてはならないのです。
裁く基準は厳正に定められているとしても、実行に当たるものは人間であり、常に間違った判断をする可能性があるわけです。また、いくら危険人物であっても、現に法律を犯していなければ、あるいは犯していても立証できなければ、拘束することも裁くこともできないのでしょう。
それが法律の運用であり、若干の冤罪や犯罪の見逃しは仕方がないのでしょう。社会全体としては、その程度の誤差は受け入れなければならないのかもしれません。
ただ、その不運にぶち当たった個人にすれば、場合によっては人生の大半を失うことにもなります。そのような人をどのように救済すべきなのか、なかなか難しい課題のようです。
( 2010.02.16 )