第二章 それぞれの旅立ち ( 4 )
それぞれの大学生活が始まった。
早知子と希美は、自宅から近い女子大学に通い始めた。
恵まれた環境に建つ美しい校舎が印象的な学校である。学校の教育方針や多くの先輩たちのお陰もあって、阪神間では名門として知られた女子大学である。
二人は同じ英文科を選んでいたので、全ての教科を合わせていた。学校以外でも共に行動することが多かった。
新しくできた友達を加えた集まりやサークルで活動することが多かったが、二人が別々のサークルに属することはなかった。
早知子の場合はアルバイトに励む必要があったが、それ以外のウイークデーは殆んど一緒だった。
この学校の学生たちの服装は、センスの良いことで知られていた。ジーパンなどを主体にした学生も少なくなかったが、ちょっとした手直しや小物をあしらえるなどの工夫を施している場合が多かった。
もちろん、本格的なおしゃれのセンスを競うかのような服装の人が多数派だが、けばけばしさや超高級といったものを身に着ける学生は殆んどいなかった。それが伝統だった。
新入生の多くは、入学前に上級生たちの通学服を見に来ていて、自分たちの服装を整えたりしていた。
早知子と希美も二度ばかり見学に来て、二人で相談し合って何枚かを購入していたが、希美が早知子の好みに合わせることが多かった。
早知子は週に二日家庭教師のアルバイトを始めていて、日曜日にも不定期にだが半日ばかり店頭販売の仕事にも取り組んでいた。
希美は、予定のない日曜日とか、早知子に家庭教師の予定がある日には父の会社を手伝っていた。それは、高校生の時にも時々手伝っていたことだった。
俊介は、卒業した高校といくらも離れていない大学に通っていた。
ここも関西では名門の私立大学である。正直なところ、俊介には少々荷が重いと思われた大学だけに、張り切って入学したのだが、新学期が始まるとともに、講義よりアルバイトの方が忙しい生活に変わっていた。
ただ、将来は大手商社勤務と進路がはっきりしているだけに、語学だけはしっかり身に着けるように努力していた。
俊介は、月に一度くらいの割で早知子と希美に声をかけて会うことにしていた。
互いの学校の様子やアルバイトなどについて話し合うことが多かったが、啓介がいない集まりは今一つ盛り上がらなかった。
四人で集まっていた頃、啓介がリーダーシップを取っていたわけではなかった。どちらかといえば、啓介と希美は控えめな行動が多く、俊介と早知子が目立った行動を取ることの方が多かった。
しかし、三人の集まりは、俊介にとっても女性たちにとっても楽しいものではあったが、ぽっかりと穴があいているようなものが感じられることが明らかだった。そして、話題はいつも啓介のことに移って行った。
啓介が最初の一年のうちで帰郷したのは、夏と冬と翌年の春の三回である。
この時には、それぞれの予定を可能な限り調整し合って何度も集まった。四人が集まると、時の経過など何の影響も受けなかったように、以前と同じように楽しく気を許せる会話が弾んだ。
***
啓介の学生生活は、初めての下宿生活でもあり生活環境が大きく変わっていた。
下宿には八人の学生が世話になっていたが、全員が同じ大学の学生で新入生は二人だった。新入生の二人は学部が違うこともあり、学校で行動を共にするようなことはなかった。
上級生たちも、歓迎会は開いてくれたが、それ以外は干渉し合わない申し合わせで、気楽な下宿生活だった。
部屋の間取りは、六畳の和室に半畳の押し入れ、小さな炊事場とトイレ、やっと靴が脱げる広さの玄関の板間がついていた。風呂はなく、近くの銭湯を利用することになっていたが、盥を持っていて一年中行水で済ませているという先輩もいた。
炊事場にはガスコンロが設置されていて、自炊ができるようになっていた。ほぼ全員が何らかの炊事をしていたし、啓介も自炊するための食器など準備していたが、外食の方が多かった。下宿している全員が冷蔵庫を持っておらず、自炊といっても啓介と似たり寄ったりの状態だったようだ。
学校や下宿の近くには安い食堂が幾つかあって、自分で下手な料理を作るより美味しいし安かった。味の方も最初はかなりだだっ辛く感じたが、すぐに慣れた。
洗濯機は卒業していく先輩たちが順繰りで寄付してくれているものが二台あり、共用だったが不便はなかった。
東京生活を始めるにあたって、啓介の母親は、家事の真似事などさせたことのない息子の一人暮らしを大層心配していたが、いざ始めてみると心配するほどのことでもなかった。
啓介が最初に帰郷したのは、八月に入ってからである。
夏休みに入ってからも七月中は家庭教師のアルバイトを続け、それが終わってから帰郷した。
旧盆が終わるまではアルバイトは休みで、実家で過ごすことにしていた。