第三章 予期せぬ運命 ( 4 )
人間の記憶というものは、どのような構造から成り立っているのだろうか。
さまざまな事象や衝撃は、それが激しいものであれば記憶として深く刻み込まれ、その肉体がある限り失われないもののように思われる。
また、記憶という働きは、人間のどの部署が受け持っているものだろうか。それが本当に脳の働きによるものだとすれば、その肉体が滅びれば記憶も消え去っていくと思われる。
しかし、もし、記憶というものが心に刻み込まれるものであるとすれば、そして、例えば心というような言葉で呼ばれているものが肉体を超えて存在しているものだとすれば、肉体の消滅に何の影響も受けないことになる。
そしてそれは、記憶する側であれ記憶される側であれ同じことが言えるように思われる。
一方で、どんな悲しみであっても時が解決してくれる、という見事なまでの処世術を多くの人が教えてくれる。
人間が多くのことを記憶することができるのが、神さまなり造物主なりが与えてくれた能力だとすれば、時間の経過とともに記憶が薄れてゆき、時には完全に忘れ去ることさえあるのも、これもまた、天が人間に与えてくれた何にも増して勝れた能力だということになるのだろうか。
しかし人は、忘れることができるものは忘れることができるが、忘れることのできないものは絶対に忘れ去ることができないことも事実である。
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啓介は茫然自失の状態で日を過ごしていたが、それでも、一つの流れに身を任せたかのように大学に通い家庭教師を続けていた。
早知子のことはできるだけ考えないことにして、大学仲間と馬鹿騒ぎをしたり、あまり余裕のない金で遊んでしまったりした。
東京に来てからの友人たちは、早知子のことや不幸な出来事について知らせていなかったので、馬鹿騒ぎをしても余計な気遣いをされることがないので気が楽だった。
しかし、夜中にふと目を覚ました時などに、頭に浮かんでくるのは早知子のことだった。
一度浮かんだ早知子の面影は、切なく啓介に語りかけ激しく彼の心を揺るがせた。手を少し延ばせば触れることができそうな早知子だったが、その面影が捉えることのできない存在であることは啓介も承知はしていた。
早知子は、今どこにいるのか・・・。
それが、いつも啓介が辿り着く疑問だった。早知子がすでにこの世の人でないことは、よく分かっていた。死んでしまった以上、二度と逢えないこともよく分かっていた。
しかし、逢いたかった。
早知子と逢えないことの淋しさや悲しさに襲われることより、どうすれば逢えるのか思いつめて苦しむことの方が多かった。早知子が亡くなったことでもう逢えないのだということが、どうしても自分自身に納得させることができなかった。
啓介が早知子の面影を追い求めて行った時、必ず行き着くのは「とっても、不安なの・・・」という哀しげな表情だった。
早知子が言った「不安」とは、何を指していたのだろうか。
「もしかすると、早っちゃんは、死ぬことを予感していたのか・・・」
早知子が病気だったとしたら、そのようなことも有り得ることのように思えるが、突然の事故による死まで予感することなど出来るものなのか。そして、遥々東京まで来たのは、自分の運命を感じ取った上での行動だったのか。
それは、早知子の理性が承知していることではなく、もっと違う形で予感したものだったのかもしれない。
もしそうだとすれば、あの日の早知子の行動は、二人の愛の今生の思い出とするためのものだったのか。さらに、その先まで続く二人の愛を確認するためのものだったのか・・・。
ぐるぐると、啓介は出口を見つけだすことができない煩悶を繰り返していた。
これは、ずっと後で俊介が話したことだが、俊介と希美が東京まで訪ねてきたのは、啓介の自殺を心配する部分もあったらしい。
啓介が死について真剣に考えていたことは事実だった。
ただそれは、自分が悲しみに耐えかねて死ぬということではなかった。死の意味を知りたかったのである。死んだ先のことを知りたかったのである。
いくら煩悶を繰り返しても確信できるものを何一つ掴んでいなかったが、早知子という存在が「死」という現象ですべて消滅するということだけは有り得ないとの考えが固まりつつあった。
「ずっと一緒よね」と言った早知子の言葉の意味を考えた。
「死んだ後も、ずっと一緒よね」と言った早知子の本当の意思を知りたかった。
啓介は、心中や後追い自殺や殉死といったことをテーマとした小説や文献を読み漁った。
それらを通して、そのような行動をした人が先の世で想う人に巡り逢えたという確証が得られたら、自分も早知子の後を追ってもいいという考えも漠然とであるが抱いていた。
同時に啓介は、生まれ変わるということも気掛かりであった。早知子が真剣に考えていたからである。
早知子が再びこの世に生まれてくるかもしれないという思いも否定できなかった。早い機会に生まれ変わってきた時のためには自分がいなくてはならないとも思った。
ただ、そのようなことが起きるとしても、早知子に再び巡り逢えることができるのか確信できなかった。
手当たり次第に読んでいった書物の中には、具体的な事例も数多く示されていたが、いずれも啓介を確信させるものではなかった。
早知子の夢を見ることも時々あった。
かなり明確なストーリーを伴うこともあるが、たいていは目覚めた後断片的な場面しか思いだせないことが多かった。早知子の姿にしても、夢の中で早知子だと認識することは少なく、目覚めた後で早知子だったのだと気付くことの方が多かった。
啓介はこれまで夢について特別な思い込みは持っていなかった。
正夢であるとか、夢占いなどは信じていなかったが、単純に五臓六腑の患いだと割り切ることもできなかった。
早知子の夢が、早知子からの何らかのメッセージを伝えるものとまでは考えなかったが、早知子の気配を感じることも確かにあった。
その早知子の気配のようなものは夢の中だけではなく、校舎の片隅で一人考えごとをしている時、繁華街の雑踏をさ迷っている時、風の音に振り返った時・・・、いずれも突然のように早知子の気配のようなものを感じた。
声が聞こえたわけではなく、姿が見えたわけでもない。感触でも香りでもなかった。それは、紛れもなく気配だった。
早知子が今どうしているのか、まだ確信することができていなかった。次の世界のことを示してくれる答えは、まだ見つけることが出来ていなかった。しかし、気配はあった。
早知子は、意外に身近な所にいるのではないかと、啓介は考え始めていた。