雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

今昔物語  巻第十九 ご案内 

2023-01-23 14:30:01 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       今昔物語  巻第十九 ご案内


『 巻第十九 』は、全体の位置付けとしましては「本朝付仏法」に属します。
ただ、同じ「本朝付仏法」であっても、『 その4 』までの作品とは相当違っていて、かなり人間の日常生活に近い説話が中心になっています。一話がかなり長文のものもありますが、比較的親しみやすい作品が多いように思われます。

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僧正遍昭伝記 (1) ・ 今昔物語 ( 19 - 1 )

2023-01-23 14:29:11 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『 僧正遍昭伝記 (1) ・ 今昔物語 ( 19 - 1 ) 』


今は昔、
深草の天皇(第五十四代仁明天皇)の御代に、蔵人頭右近少将良峰宗貞(ヨシミネノムネサダ・良岑とも。)という人がいた。大納言安世(ヤスヨ・良岑氏。桓武天皇の皇子。)という人の子である。
容姿美麗にして、正直な心の持ち主であった。学識も人に勝っていたので、天皇は格別親しく可愛がっておられた。そのため、周囲の人は彼を憎み、良く思わなかった。
その時の春宮(トウグウ・皇太子)は天皇の御子であられたが、この憎しみを抱く側近たちは、事あるごとに、この頭少将(トウノショウショウ・蔵人頭と少将を兼ねている)のことを春宮にあしざまに申し上げていたので、天皇と春宮は親子の仲ではおありだったが、春宮はこの頭少将を何かにつけ不届きな奴だとの思いが積もっていた。
頭少将は春宮の気持ちを承知はしていたが、天皇がこのように可愛がり親しく接しられるので、こうしたことを気にかけることなく、日夜朝暮に怠ることなく宮仕えを務めていたが、天皇が病となり、数か月病床におつきになったので、頭少将は胸が張り裂けるばかりに嘆き悲しんだ。
しかし、その甲斐もなく天皇は崩御なさったので、頭少将は闇夜に向かうような心地がして、身の置き所がない思いで、心の内で、「この世は幾ばくもない。法師となって、仏道の修行をしよう」と思い込むようになった。

ところで、この少将は、宮方(皇族)の娘を妻として、たいへん仲睦まじく過ごしていて、男子一人女子一人を儲けていた。
「妻は他に身寄りが無く、自分以外に頼るべき人がいない」と思うと、少将はとても心が苦しくかわいそうに思ったが、出家を望む心を抑えることが出来ず、天皇の御葬送の夜の儀式が終った後、人に何も告げずことなく姿を消してしまったので、妻子や使用人たちは泣き惑い、聞き及ぶ限りの山々寺々を捜し回ったが、まったく消息を掴むことが出来なかった。

その少将は、御葬送の明け方に、比叡山の横川(ヨカワ・東塔、西塔とともに比叡山三塔の一つ。)にたった一人で登り、慈覚大師(ジカクダイシ・・( 794 - 864 ) 最澄の弟子。天台宗山門派の祖。)が横川の北にある谷の大杉の洞に入られて、法華経を書いておられるところに参って、そこで法師になった。
その時に少将は、ひとり言に、
『 たらちねは かかれとてしも むばたまの わがくろかみを なでずやありけむ 』
( わが母は このように法師になれといって わが黒髪を 撫ではしなかったであろうに )
という歌をつぶやいた。

その後、慈覚大師の御弟子となって、仏法を学び、さらに深く学び進んで、熱心に仏道修行をしているうち、風の便りに新しい天皇(文徳天皇)が即位なさって、諒闇(リョウアン・服喪の期間)なども終って、「世間の人は皆衣の色が変わった(喪服からふつうの衣服に戻ったさま)」と推察するにつけ、ものの哀れを感じて、入道(宗貞のこと)はひとり言で、
『 みな人は 花の衣に なりぬらむ こけのたもとは かはきだにせず 』
( 世の人は皆 華やかな衣に 着替えたことだろう わが僧衣のたもとは 涙で乾くことさえない ) 
と詠んだ。
このようにして、修行を続けているうちに年月が流れた。

                   ( 以下 ( 2 ) に続く )

       ☆   ☆   ☆ 


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僧正遍昭伝記 (2) ・ 今昔物語 ( 19 - 1 )

2023-01-23 14:28:47 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『 僧正遍昭伝記 (2) ・ 今昔物語 ( 19 - 1 ) 』

       ( ( 1 ) より続く )

さて、ある年の十月頃のこと、宗貞入道が笠置寺(京都府相良郡。修験道の道場として知られていた。)という所に詣でて、ただ一人で拝殿の片隅に蓑を敷いて勤行していたが、参拝にやってくる人が見えた。
主と見える女と、女房らしい女が一人、侍(サムライ・いわゆる武士とは違い、上級の下男といった感じの身分。)と思われる男が一人、下仕えの男女あわせて二、三人ばかりが見えた。そして、座っている所から二間ばかり離れて、彼らは座った。
入道は暗い所に座っているので、人がいることに気がつかずに、忍んで仏に申す事などが、おおよそ聞き取れる。注意して聞いてみると、この女人が仏に申していることは、「世の中から姿を消してしまった人の消息を教えてください」と泣き出しそうな悲しげに申している。さらに耳をそば立ててよく聞くと、どうやら自分の妻であった人の声だと分かった。

どうやら、「私を探し出すために、
このように祈願しているのだ」と思うと、哀れで悲しい限りであった。「『私はここにいる』と言ってやりたい」と思ったが、「ここで知らせては、何にもならない。仏は、『このような仲は別れよ(男女や夫婦の恩愛の絆を断て、という仏の教え。)』と返す返すお教えになっているではないか」と思って、じっと耐え忍んでいると、やがて明け方となり、この一行は帰るべく拝殿を出て行こうとするのを見ると、その中の男は、自分の乳母の子で、帯刀という者であった。そして、別れたとき七、八歳であった自分の男の子を背に負っている。女は、四、五歳ほどだった自分の女の子を抱いていた。
その一行は、拝殿から出て、霧が降る中に隠れて行ってしまったが、「よほど道心堅固な人でなければ、心が動かされるであろう」と思われる。

このようにして修行を続けているうちに、入道の験力(ゲンリキ)が非常に強くなっていった。病に悩む人のもとに、念珠や独鈷(ドクコ・金剛杵。仏具の一つ。)などを遣わすと、物の怪が現れて、霊験が顕著なことなどがあった。
ところで、恐れ奉っていた春宮が即位して文徳天皇と申し上げていたが、ご病気の末に崩御なさった。その後には、その皇子が清和天皇として即位されて世を治められていたが、その天皇が病気になられた。
そこで、多くの優れた僧たちを召されて、様々なご祈祷が行われたが、露ほどの験(シルシ)も現れない。すると、ある人が奏上された。「比叡山の横川に、慈覚大師の弟子として、頭少将宗貞法師が熱心に仏道を修行して、霊験あらたかでございます。彼を召して、ご祈祷させては如何でしょうか」と。
天皇はこれをぉ聞きになると、「速やかに召すべし」と度々宣旨を下されたので、入道は参内し、御前において加持申し上げたところ、たちまちその霊験が現れて、御病が治癒なさったので、天皇は法眼(ホウゲン・僧侶の位の一つ。僧正に次ぐ僧都の位に該当する。)の位を授けられた。

その後も怠ることなく修行を続けているうちに、陽成天皇の御代となり、またも霊験を示すことがあって、僧正を授けられた。
その後は、花山(元慶寺のこと。花山寺とも。後年、花山天皇が出家した寺として著名。)という所に住んだ。名を遍昭(ヘンジョウ)といった。
長年、その花山に住み、封戸(フコ・官位、勲功などに応じて給与された民戸。)を賜り、輦車(テグルマ・乗車して内裏に出入りすることを許可されること。)の宣旨を蒙ったが、遂に、寛平二年 ( 890 ) という年の正月十九日に入滅した。年は七十二であった。(入滅日、年令は諸説ある。)
花山の僧正というのはこの人のことである。

されば、出家というものはみな機縁があるものである。 
長年深草天皇(仁明天皇)の寵臣として仕え、そのため文徳天皇に恐れを感じたことから、たちまち道心を起こして出家したが、この事に出家の機縁があったと知るべきである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

 

 

 

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三河の入道伝 (1) ・ 今昔物語 ( 19 - 2 )

2023-01-23 14:24:20 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『  三河の入道伝 (1) ・ 今昔物語 ( 19 - 2 ) 』


今は昔、
円融天皇の御代に、三河守大江定基(オオエノサダモト・1034没)という人がいた。参議左大弁式部大輔済光(ナリミツ)という博士の子である。慈悲深く学識は人より優れていた。蔵人を勤め上げて三河守に任じられた。
ところで、定基には長年連れ添っている本妻の他に、若くて美しい女を愛するようになり、とても離れられない思いを抱いていたが、それを本妻が激しく嫉妬して、即座に夫婦の縁が切れてしまい別れてしまった。そこで、定基は若い女を妻として過ごしていたので、その女を伴って任国に下っていった。 

さて、三河国で過ごしているうちに、この新しい妻は重い病にかかり、長らく病床で苦しむようになったので、定基は心底から嘆き悲しんで、様々な祈祷を行ったが、その病はどうしても治らず、日が過ぎるに従って、女の美しかった容姿も衰えていった。定基はその様子を見て例えようがないほど悲しんだ。
しかし、病はさらに重くなり、遂に女は死んでしまった。死んだ後も、定基の悲しむ心は治まることなく、すぐに葬ることもせずに、女を抱いて共寝をしていたが、数日経ち、女の口を吸ったところ女の口から何ともいえぬくさい臭いが出てきたので、にわかにうとましい気持ちになり、泣く泣く葬ることにした。
その後、定基は「この世は憂きものだ」と思い至り、たちまち道心が生じたのである。

さらに、その国では、土地の者たちが風祭りという事をしていて、猪を捕らえ、生きたまま切り裂くのを見て、ますます道心が高まり、「速やかにこの国を去ろう」と思うようになった。
さらに、雉を生きながら捕らえて持ってきた人がいたので、定基は、「どうだ、この鳥を生きながら料理して食おうではないか。一段と味が良いかもしれぬから試してみよう」と言った。
すると、守(定基)のご機嫌を取ろうと思っている思慮のない郎等どもは、これを聞くと、「結構なことでございます。きっと、さらに味が良くなるでしょう」と調子に乗ると、少しはものの哀れを知る者は、「あきれたことをするものだ」と思った。
 
そして、雉を生きたまま持ってきて羽をむしると、しばらくはバタバタとしていたが、さらにむしり取ると、鳥は目から血の涙を流して、目をしばたたいて周囲の者の顔を見ているので、堪えきれずに立ち去る者もいたが、「鳥が泣いているぞ」と笑いながら、情け容赦なくむしる者もいた。
むしり終ると、切り裂いた。その刀に血がたらたらと流れるのを、刀を拭い拭いして切り裂いていくと、鳥は何とも苦しげな声を挙げて息絶えた。
そこで、裂き終えた物を、煮たり焼いたりして郎等たちに食べさせると、「事の他に美味でございます。死んだ物を料理したのとは比べものになりません」などと言うのを、守(定基)はつくづくと見聞きして、目から大粒の涙を落とし、声を挙げて泣いたので、「良い味だ」などと言っていた者はしゅんとしてしまった。

守は、その日のうちに国府を出て、京に上った。そして、道心が堅く定まったので、髻(モトドリ)を切って法師となった。名を寂照(ジャクショウ)という。世に三河の入道というのは、この人のことである。
「よくよく心を堅めよう」と思って、このような驚くようなことをしてみたのである。

その後、寂照は京において、喜捨を請うて歩いていたが、とある家の門前に立ったところ、家の人が中に呼び入れ、畳に座らせて、ご馳走を備えて食べさせようとした。巻き上げた簾の内には、立派な着物を着た女が座っている。
よく見れば、自分が昔離縁した女であった。女は、「何と、乞食だとはね。このように乞食するのを見ることになると思っていましたよ」と言って、顔をしげしげと見たが、寂照は恥ずかしいと思う様子も見せず、「ああ、有り難いことです」と言って、出されたご馳走をすっかり食べて帰っていった。
まことに、まれに見る立派な心ばえではある。道心が堅く生じていたので、このような外道(仏道を信じない者)に出会っても、騒ぐことなく対応したのは尊いことである。

               ( 以下 ( 2 ) に続く )

     ☆   ☆   ☆

 


 


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三河の入道伝 (2) ・ 今昔物語 ( 19 - 2 ) 

2023-01-23 14:23:58 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『 三河の入道伝 (2) ・ 今昔物語 ( 19 - 2 ) 』

      (   ( 1 ) より続く )

その後、三河の入道寂照(大江定基)は、「震旦(シンダン・中国)に渡り、尊い聖跡(ショウジャク・神聖な遺跡)を巡拝しよう」と思う心が生じて、すぐに渡る準備をしていた。
ところで、寂照の子に、[ 欠字。僧名が入るが未詳 ]という僧が比叡山にいた。寂照は震旦に渡るにあたって別れの挨拶をするために比叡山に登り、根本中堂に参り、日枝神社に詣でて帰るついでに、その子の僧坊に行き、戸を叩くと、戸を開けて僧坊の縁側に出てきた。
七月の中旬頃のことなので、月がたいへん明るく、寂照は縁側で子の僧に向かい合って、「私は尊い聖跡などを礼拝したいという願いを持っていたが、この度震旦に出かけようと思っている。帰ってくることは難しいことなので、顔を見るのも今宵が最後だ。お前は、必ずこの山に住んで修行し、学問を怠ることなく積むのだ」と言った。
寂照が涙ながらに語るのを、子の僧も涙を流すこと限りなかった。
このように、子供に別れを告げ、京に帰ったが、子の僧は大嶽(オオタケ・比叡山の主峰)まで見送った。月はたいへん明るく、露は辺り一帯に白く置かれていた。虫の音はさまざまに鳴き乱れ哀れを誘う。すべてがもの悲しく身にしみて胸に迫る。
下の方まで送ったが、寂照は「すぐ帰りなさい」と言うと、霧の中に姿を隠していったので、そこより子の僧は泣く泣く帰っていった。

その後、寂照はすぐに震旦に渡り、かねてからの念願通りにあちらこちらの聖跡を巡拝した。
皇帝(宋
の帝、真宗)も寂照が来るのを待ち受けていて、深く敬い帰依された。
そして、ある時のこと、皇帝は国内の優れた聖人たちを召し集めて、仏堂を飾り、僧への供物を整え、心を込めて供養する法会を催された。
その折、皇帝は、「今日の斉会(サイエ・僧に食事を供養する法会。)に給仕の者は入ってはならない。ただ、前においてある鉢をそれぞれが飛ばして(飛鉢=托鉢の鉢を通力により飛行させる術。)、食事を受け取るが良い」と仰せられた。その本心は、日本の寂照を試すためであった。

そこで、仰せに従って、最上位の和上(僧)から始めて、順々にそれぞれの鉢を飛ばして食事を受け取っていった。寂照は、出家年次からすれば浅かったので、一番下座に着いていたが、寂照の順番になると、自分で鉢を持って立ち上がろうとすると、それを見た人が「どうして鉢を持つのか。鉢を飛ばして受け取りなさい」と言った。
すると、寂照は鉢を捧げ持って、「鉢を飛ばせることは、特別の行法であり、その行法を修得して始めて飛ばせることです。ところが、この寂照は未だその法を習っておりません。日本の国では、昔はその法を習得した人がいたと伝え聞いておりますが、この末世ではその行法を行う人はおりません。もう絶えてしまったからです。されば、どうして私が鉢を飛ばすことが出来ましょうか」と言って座ったままでいると、「日本の聖人の鉢、遅いぞ遅いぞ」と責め立てるので、寂照は困り果てて、心を込めて「故国の三宝よ、どうぞお救いください。もし私が鉢を飛ばせなければ、故国のために大変な恥をもたらします」と念じると、寂照の前にある鉢は、にわかに独楽(コマ)のようにくるくると回転して、前の僧たちの鉢よりも早く飛んでいき食事を受け取って戻ってきた。
これを見て、皇帝を始め大臣や百官たちは皆礼拝し尊んだ。それから後、皇帝は寂照に帰依すること限りなかった。

また、寂照が五臺山(ゴダイセン・中国にある霊山の一つ。)に詣でて、種々の功徳を修したが、その一つとして、湯を沸かして僧たちに入浴させることになった。その折、まず僧たちが供膳の席に居並んでいると、見るからに汚げな女が、子供を抱き一匹の犬をつれて、寂照の前にやって来た。その女は、できものだらけで何ともひどく汚い。
これを見た人たちは汚がって、大声を上げて追い払おうとした。すると、寂照はそれを制して、女に食べ物を与えて帰らせようとした。ところが、この女は、「わたしの体にはできものができていて堪え難いほど辛く苦しいので、湯浴みさせていただこうと思って参りました。ほんの少しのお湯で、私に入浴させてください」と言った。
人々はこれを聞くと、いっそう罵って追い払う。女は追われて後ろの方に逃げ去り、ひそかに湯屋に入って、子を抱きながら犬を連れて、じゃぶじゃぶと音を立てて湯を浴びた。人々はその音を聞くと、「たたき出せ」と言いながら湯屋に入ってみると、かき消すように姿が消えていた。人々は驚き怪しんで、外に出て見回してみると、軒の辺りから上に向かって紫の雲が光を放って昇っていっていた。
人々はこれを見て、「さては、文殊菩薩が姿を変えて、女となっておいでになったのだ」と言って、泣き悲しんで礼拝したが、もはやどうすることも出来ない。

これらの話は、寂照の弟子の念救(ネング・僧の人とも日本人で土佐の人とも。)という僧が、寂照と共に中国に渡ったが、帰朝した後に語り伝えたものである。
中国の皇帝は、寂照に帰依して、大師号を与えられて円通といった。
これも機縁によって出家して、このように他国において尊ばれることになったのである、
と語り伝へたるとや。

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奇行の聖人 (1) ・ 今昔物語 ( 19 - 3 )

2023-01-23 14:23:32 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『 奇行の聖人 (1) ・ 今昔物語 ( 19 - 3 ) 』


今は昔、 
[ 欠字。「円融」または「一条」が入る ]天皇の御代に、内記慶滋保胤(ナイキヨシシゲノヤスタネ・1002 没)という者がいた。本当は陰陽師の賀茂忠行の子である。ところが、[ 欠字。人名が入るが不詳。]という博士の養子となって、姓を改めて慶滋とした。慈悲深い心の持ち主で、学問にも優れていた。

そのため、若いときから朝廷に博士として長年仕えていたが(史実としは、保胤が博士になったという記録はない。)、老境に近づくにつれて道心が生じたので、[ 欠字。場所が入るが意識的に欠字としている。]という所において髻(モトドリ)を切って法師となった。名を寂心(ジャクシン)という。世間で内記の聖人というのは、この人のことである。
出家の後には、空也聖人(コウヤショウニン/クウヤショウニン・出自は不詳も皇胤説もある。念仏を唱えながら諸国を行脚した。)の弟子となって、ひたすら尊い聖人として行動していたが、もともと仏道をよく知っていたので、「功徳となる行いの中で、何が最も優れた行いなのだろうか」と思いを巡らしていたが、「仏像をお造りし、お堂を建てることこそが最も優れた功徳である」と思い至り、まずお堂を造ろうとしたが、自分の力だけでは及ばないので、「人々の力を集めてこの願いを遂げよう」と思って、あちらこちらに出かけてこの事を話すと、浄財を寄進してくれる人たちがいたので、少々の資財が集まった。
そこで、これで材木を入手しようと考え、「播磨国に行き、信者の協力を得て材木を取ってこさせよう」と思って、播磨国に行った。
その国において寄進を募ると、その国の人たちは挙って寄進に応じた。

このようにして、寄進を募って歩いているうちに、ある川原にやって来た。見れば、川原には法師姿の陰陽師がいて、紙の冠を被ってお祓いをしている。寂心はこれを見て、馬から急いで下りて、陰陽師のそばに行って、「御坊は、一体何をしておられるのですか」と尋ねた。
陰陽師は「祓いをしているのです」と答えた。
寂心は「そのようでございますね。ただ、その紙の冠は何のためです」と尋ねた。陰陽師は、「祓殿(祓いをする場所)の神たちは法師を嫌いますので、祓いをしている間は紙の冠を被っているのです」と答えた。
これを聞くと寂心は、大きな声で叫びながら陰陽師につかみかかったので、陰陽師はわけが分からず、両手を挙げて祓いもしないで、「何をするのです、何をするのです」と言うばかりである。また、祓いをさせている人もあきれるばかりで、突っ立っている。
寂心は、陰陽師の紙の冠を取って引き破って棄て、泣きながら言った。「あなたは、どうして仏の御弟子になったあとで、祓殿の神が嫌がるからといって、如来の戒めを破って、紙の冠を被るのですか。無間地獄の罪業を造るではないですか。情けない限りだ。さあ、私を殺しなさい」と。
そして、陰陽師の袖をつかまえて、激しく泣いた。
                                                  ( 以下 ( 2 ) に続く )

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奇行の聖人 (2) ・ 今昔物語 ( 19 - 3 )

2023-01-23 14:23:02 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『 奇行の聖人 (2) ・ 今昔物語 ( 19 - 3 ) 』

       ( ( 1 ) より続く )

陰陽師は、「これはまた、おかしな事をなさる。そうお泣きになりなさるな。おっしゃることは、まことに道理です。しかしながら、世を過ごすことの難しさゆえに、陰陽道を習ってこういうことをしているのです。こうでもし
なければ、どうして妻子を養い、自分の命を保つことが出来ましょうか。さして道心があるわけではございませんので、身を棄ててひたすら修行を積む聖人にはなりきれませんでした。たしかに法師の姿はしておりますが、只の俗人のような生活をしている身ですから、『とても後世のための善行を積むことなど出来ない』と悲しく思うときもございますが、この世の習いでこのようなことをしているのです」と言う。
寂心は、「たとえそうだとしても、どうして三世の諸仏の御頭に紙の冠を被らせることなど出来るものですか。貧しさに堪えられずにこういうことをなさるのであれば、私が募った寄進の品々を、すべてあなたに進ぜましょう。たった一人の為に菩提をすすめる功徳であっても、塔や寺を建てる功徳に劣るはずがありますまい」と言って、自分は川原にいて、弟子たちを行かせて、寄進された財物をすべて持ってこさせて、この陰陽師の法師にすっかり与えて、寂心は京に上っていった。

その後、東山の如意という所に住んでいたが、六条院(東六条院のこととも、釣殿院とも。はっきりしないようだ。)から、お召しがあり、知人の馬を借りて、それに乗って早朝から出かけていった。ふつうの人は、馬に乗ると急がせていくが、この寂心という人は、のんびりと馬の歩みに任せて行くので、馬は途中で止まって草を食うと、そのまま食わせていつまでも立ち止まっている。
そのため、なかなか道がはかどらず、同じ場所で日を暮らしてしまうので、馬の口を取っている舎人の男は、辛抱しきれずに馬の尻を打った。すると、寂心は馬から飛び降りて、その舎人の男につかみかかって、「お前は、何を思ってそのようなことをするのか。この老法師が乗せていただいているので、馬鹿にしてそのように馬を打つのか。この馬だとて、前の世から、繰り返し繰り返し父母になっておられた馬だとは思わないのか。お前は、『この馬は昔の自分の父母ではない』と思って、そのように侮り奉っているのか。お前にとっても、繰り返し父母となってお前を慈しんだため、その愛執の罪によって、このように獣となり、また多くの地獄道や餓鬼道に堕ちて、苦しみを受けているのではないのか。

このように獣になったのも、子を愛し慈しんだことによって、その報いでこのような身を受けたのだ。そして、とても堪えがたいほど何かを食べたくなられたので、このように青い草の葉がうまそうに生えているのを見て、見過ごしがたくむしり食べようとされているのを、お前はどうしてもったいなくも打ち奉るのか。
また、この馬は前世で数知れないほど何度もこの老法師の父母になっておられたと思うと、申し訳なくは思うが、私は年老いて起居もままならず、少し遠い道は速く歩くことが出来ないので、恐れながら乗せていただいているのだ。それなのに、道々草があるのを食べようとなさるのをさまたげて、急がせて行くことなど出来ようか。なんと慈悲のない男なんだ」と言って、大声で泣き叫んだ。

舎人の男は、心の内では可笑しく思ったが、泣いているので気の毒になり、「仰せのことは、まことに道理でございます。私は乱心して馬を打ち奉ってしまいました。下郎はしようのないもので、このように馬に生まれなさった事情も知らないで、打ち奉ったのでございます。これからは、父母とも思って、大切にいたします」と言った。
それを聞いて寂心は、泣きむせびつつ、「穴貴々々(アナトウト アナトウト・・もったいない、もったいない)」と言って、また馬に乗った。
                     
                       ( 以下 ( 3 ) に続く )

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奇行の聖人 (3) ・ 今昔物語 ( 19 - 3 )

2023-01-23 14:22:39 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『 奇行の聖人 (3) ・ 今昔物語 ( 19 - 3 ) 』

      ( ( 2 ) より続く )

さて、寂心がさらに馬を進めていくと、道ばたに朽ちてゆがんだ卒塔婆(ソトバ・本来は仏舎利を奉安した塔。日本では、上部を五輪塔の形に刻み込んだ供養のための細長い板。)があった。
これを見つけると、あわてふためいて転げるように馬から下りた。舎人の男はわけが分からず、そばに寄り馬の口を取る。寂心は馬から下りると、馬を少し先に留めさせた。
舎人の男は馬を留めて振り返ってみると、薄(ススキ)が少し群がっている所に、寂心が平伏している。袴のくくりを下ろして、童に持たせている袈裟を取って着た。衣の襟を整えて、左右の袖をかき合わせて、深く腰をかがめて、卒塔婆の方を横目に見ながら、御随身がするように礼儀正しく歩み寄り、涙を流しながら卒塔婆の前に行き、卒塔婆に向かって手を合わせ、額を地面につけて、何度も礼拝し、恐懼して丁重に振る舞った。そして、卒塔婆から隠れるようにして馬に乗った。
このように、卒塔婆を見る度に同じように礼拝するので、道中何度も馬から下りたり乗ったりするので、一時(イットキ・二時間)足らずで行ける道程を、卯の時(午前六時頃)から申の下刻(午後五時過ぎ)までかかって、ようやく六条院の宮に着いた。
この舎人の男は、「この聖人のお供は、今後勘弁願いたい。まったくじれったいので」と言ったという。

また、石蔵(イワクラ・平安京造営の時、四方の山に一切経が納められ、東西南北に石蔵が設けられたことからの名称。ここでは、東石蔵のことらしい。)という所に住んでいたとき、冷えすぎで腹を下したことがあった。
厠に行ったが、隣の僧坊にいる僧が聞くと、厠の中から桶の水をぶちまくような音がした。年老いた人がこのような下痢をするのは、「とても気の毒だ」と思っていると、聖人(寂心)が何か話をしているので、きっと「誰かいるのだろう」と思って、そっと壁の穴からのぞいてみると、老いた犬が一匹いて、聖人と向かい合っている。
聖人が立つのを待っているのだろう。それに向かって話しているのだ。

その言葉を聞くと、「あなたは、前世において、人に対して後ろめたい行いをし、人に汚い物を
食わせ、むやみに欲張り、自分だけが優れた者のように見せかけて、人を軽蔑し、父母に対しても不孝を行い、このような諸々の悪心を働かし、善き心を持つことがなかったので、今このように獣の身を受けたのです。そのため、どうしようもなく汚い物を求めて、それを狙って食べるのです。しかし、遠い前世において、繰り返しわが父母となっておられた身に、このような不浄の物を食べさせ奉ることは、まことに畏れ多いことです。とりわけ、ここ数日は風邪をひき、水のような便をしておりますので、とても食べられるものではありません。大変申し訳なく思っております。されば、明日は美味い物を作って差し上げましょう。それを思う存分お食べください」と言いながら、目から涙を流して泣いていたが、やがて立ち上がった。

明くる日、「聖人が昨日言っていた犬のご馳走はどうするのだろう」と、のぞき見していた僧は、この事を誰にも言わずに見ていると、聖人は、「お客に食事を出そう」と言って、土器に飯をたくさん盛らせた。おかずを三、四種ほど添え、庭にむしろを敷いて、その上にその食膳を置いて、聖人はその前に下りて座り、「食膳の準備が出来ました。早くいらっしゃい」と大声で言った。
すると、あの犬がやって来て、飯を食う。それを見て聖人は手をすり合せて、「嬉しいことに甲斐があった。よく食べてくれる」と言って泣いていると、脇から若くて大きな犬がやって来て、すぐにはその飯を横取りすることはせず、食べている老犬を突き転がして、大げんかとなった。

その時聖人は、あわてて立ち上がり、「そのような乱暴はしなさるな。あなたの食事も用意しましょう。まずは、仲良くお食べください。そのような非道の御心なので、情けない獣の身を受けてしまったのですよ」と言って止めようとしたが、聞き分けようとしない。
飯も何もかも泥まみれに踏みにじって、大声で咬み合っている。その声を聞きつけて、他の犬も集まってきて、咬み合いうなりあって大騒ぎとなったので、聖人は、「このようなあさましい心の持ち主のすることは、見ない方が良い」と言って、逃げ出して縁側に上がった。
隣の僧坊の法師は、これを見て笑った。悟りを得た人といえども、犬の心を知らず、前世のことだけを考えて敬ったのだが、犬の方はそのようなことは知るはずがない。

この人は内記の聖人といって、仏道に深く達し、道心が盛んなお方であった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


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武人の出家 (1) ・ 今昔物語 ( 19 - 4 )

2023-01-23 14:22:13 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『 武人の出家 (1) ・ 今昔物語 ( 19 - 4 ) 』


今は昔、
円融天皇の御代に、左馬頭(サマノカミ・左馬寮の長官。官馬に関する一切を司る役所。)源満仲(ミツナカ・清和源氏。912 - 997 )という人がいた。
筑前守経基(ツネモト)という人の子である。
世に並ぶ者とてない武人であったので、天皇もこの者を大変信頼なさっていた。また、大臣や公卿を始めとして、世間の人は彼を重く用いていた。家柄も下賤ではなく、水尾天皇(ミノオテンノウ・第五十六代清和天皇のこと。)の近い子孫で、長年朝廷に仕え、諸国の国司として高い評価を受けていた。国司としての最後は摂津守であった。
やがて老境にいたり、摂津国の豊島郡多々(テシマノコオリ タダ・大阪府豊能郡および兵庫県川西市あたり)という所に屋敷を造り、隠居生活に入った。

満仲には多くの子供がいた。全員が武人として優れていたが、その中の一人は僧であった。名を源賢(ゲンケン・三男。1020 没。)という。比叡山の僧として、飯室の深禅僧正(ジンゼンソウジョウ・第十九代天台座主。正しくは尋禅。943 - 990 )の弟子である。
その源賢が多々の父の屋敷を訪れ、父の殺生の罪を見て嘆き悲しんで、横川(ヨカワ・東塔、西塔とともに比叡山三塔の一つ。)に帰り、源信僧都(ゲンシンソウズ・942 - 1017 )のもとに参って、「私の父のしていることを見ますと、悲しくてなりません。歳はすでに六十を超えていて、余命はいくらもありません。それなのに、見てみますと、鷹を四、五十羽も繋ぎ止めて、夏飼い(鷹の子を捕らえて、夏の間に鷹狩り用に訓練すること。)させていますが、この上ない殺生です。鷹の夏飼いというのは、命を絶つための第一のことなのです。また、あちらこちらの川に梁(ヤナ)を仕掛けて多くの魚を捕ったり、多くの鷲を飼ってそれに生き物を食わせたり、また、いつも海で網を引かせ、多くの郎等を山に行かせて鹿を狩らせるなど、休む間もなく行っています。

これらは、自分の屋敷近くで行っていることですが、このほかにも、遠くにある幾つもの領地に割り当てて殺させた物の数は、数え切れないほどです。
また、自分の意に違う者があれば、まるで虫でも殺すように殺してしまう。それより軽い罪の者には、足や手を切り落とすのです。『このような罪を造り積み重ねていけば、後の世ではどれほどの苦しみを受けるのだろう』と思いますと、まことに悲しく思うのです。『父に何とかして、「法師になりたい」と思う心を起こさせたい』と思いはしますが、何分恐ろしくて、申し出ることが出来ません。そこで、何とか方法をお考えいただいて、出家したい心を起こさせてくれないでしょうか。このように鬼のような心ではありますが、立派な聖人などがおっしゃることであれば、信じるように見受けられるのです」と話した。

源信僧都はこれに答えて、「まことに、大変気の毒なことだ。そのような人を勧めて出家させることは、出家の功徳だけではない。多くの生類を殺すことがなくなることで、この上ない功徳となるだろう。されば、何か方法を考えてみよう。ただ、私一人ではとても出来ない。覚雲阿闍梨(カクウンアジャリ・覚運が正しいか?)や院源君(インゲンクン・第二十六代天台座主となる。)などに相談して、一緒に事を運ばねばならない。あなたは、先に多々に行っていなさい。私はこの二人の人を誘って、修行の途中であなたがおいでになっている所を尋ねてきたかのようにして、そこへ行きましょう。
その時、あなたは大騒ぎして、『然々の尊い聖人方が、修行のついでに私を訪ねておいでになられた』と守(父)に伝えなさい。守もさすがに私たちのことは聞いているでしょう。そして、守が驚き畏まる気配があれば、あなたはさらに言いなさい。『この聖人方は、朝廷がお召しになっても簡単には山を下りない方々です。修行の途中でここにおいでになられたのは、並大抵のことではありません。されば、折角の機会ですから、ほんの少しでも功徳を造るためにも、この方々の説法をお聞きください。この方々の説法をお聞きになることで、多くの罪が滅し、長生きできましょう』と勧めなさい。そうすれば、その説教のついでに、出家するべきことなどを説き聞かせましょう。また、世間話の時にも、守の心に染み入るような話をいたしましょう」
などと言うと、源賢君は喜びながら多々に帰っていった。

                  ( 以下 ( 2 ) に続く )

     ☆   ☆   ☆

 

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武人の出家 (2 ) ・ 今昔物語 ( 19 - 4 )

2023-01-23 14:21:41 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『 武人の出家 (2) ・ 今昔物語 ( 19 - 4 ) 』

     ( ( 1 ) より続く )

さて、源信僧都は、源賢法師に話した覚雲阿闍梨と院源君の二人に会って言った。
「然々の事をやってみようと思い、摂津国に出かけます。同道願えませんでしょうか」と。
二人はこれを聞いて、「まことに結構なことだ」と言って、三人そろって摂津国へ行った。
二日かかる道程なので、次の日の午の時(正午)ごろに多々の辺りに到着し、人を遣って伝言させた。
「源賢君のもとに、然々の人たちが参っています。箕面の御山(当時、修験の場として知られていた。)に参詣に来ましたが、『折角の機会にお訪ねしないわけにはゆきますまい』と思って参りました」と。
使いの者が中に入ってこの由を伝えると、源賢君は、「早くおいでくださいと伝えてくれ」と言うと、父のもとに走って行き、「横川から然々の聖人方が参られました」と言うと、守は、「何だ、何だ」と言って、来客の名前をもう一度確認すると、「『大変尊い方々だ』とわしも聞いている。ぜひともお会いして、拝み奉ろう。とても嬉しいことだ。十分にご接待せよ。お使いいただく部屋もよく整えよ」と言って、うろうろと落ち着かず立ち騒ぐ。

源賢君は心の内で「うまくいった」と思って、聖人たちをお迎えした。立派に手を尽くした部屋に入れて休ませると、守は源賢君を通じて聖人たちに、「早速そちらに参ってご挨拶申し上げるべきですが、道中お疲れのところに参上いたしますのも心ないことでしょうから、今日はゆっくりお休みいただいて、夕方には入浴などなさってください。明日参上して、ご挨拶申し上げたいと思います。決してお帰りにならないでください」と申し上げさせた。
聖人たちは、「箕面の山に参詣いたしましたついでのことですので、『今日にも失礼しよう』と思っておりましたが、そのような仰せでございますので、お会いいたしましてから帰ることにいたしましょう」と答えた。

源賢はその由を戻って守に伝えると、守は「たいへん嬉しいことだ」と言うと、源賢君は「このおいでくださっている三人の聖人方は、朝廷のお召しでさえ参内しないような方々です。その方々が、思いがけなくおいでくださいました。この機会に、仏像や経典を供養していただいたら如何でしょうか」と言った。
守は、「良いことを言ってくれた。お前の言うようにすべきだ」と言って、ただちに阿弥陀仏の絵像を描かせ奉った。また、法華経の書写を始めながら、聖人たちに人を遣って、「この機会に、このようなことを思いつきました。明日一日だけは、御足を休めがてらご逗留ください」と伝えさせると、聖人たちは、「このように参りました上は、仰せに従いましたあと帰ることにしましょう」と返答があったので、その夜は湯を沸かした。

湯殿の設えは立派で、清浄なこと言い尽くせないほどである。
聖人たちは一晩中湯浴みしていたが、次の日の巳の時(御前十時頃)ばかりになると、仏像も写経も皆出来上がった。
また、以前から等身の釈迦仏の像を造り奉り、その供養をしようとは思っていたが、罪作りな事ばかりに心を奪われ、未だに供養していなかったので、この機会にこれも供養しようと思い、すべてを整えて、午未の時(午後一時頃)ばかりに、神殿の南面(正面)に仏像を懸け経典を皆並べて置き奉った。
そして、「それでは、こちらにおいでいただき、ご供養をなさってくださるように」と伝えさせると、聖人たちは皆やって来て、院源君を講師(コウジ・法事で説教をする役)にして供養を行った。
次いで、説教が行われたが、出家すべき因縁が到来していたのか、守は説教を聞いて、声を挙げて泣いた。
守ばかりでなく、館の方の郎等たちも、鬼のような心を持つ武者までが、皆泣いた。

                  ( 以下 ( 3 ) に続く )

     ☆   ☆   ☆


 

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