7月半ばに宮田で刈り取った薦は選別作業や天日干しを経て西の椎木町の旧公民館で保存していた。
それから4ヶ月、薦の葉の色は変わりなく美しい。
かつては宮田もなく池に生えていた薦を刈り取っていた。
それはたいそうなことだったと話す再び集まった当番の男性たち。
そのころは専業農業ばかりだった。
池がなくなり宮田を作った。
それを見守っているのが年番のトーヤだそうだ。
11月下旬のころは保存していた薦を編む作業がある。
早朝から旧公民館に集まった。
束にした薦はそれぞれの編む人らに配られる。
そして一本ずつ丁寧に編んでいく。
先代どころかもっと前から使っているというタワラアミの台。
ウマの足のような形をした木材は二股足だ。
百姓をしていたときの道具だそうでコメダワラ(米俵)を編んでいたという。
そこに一本の棒が据えられている。
幅は1メートルぐらいで4本の筋目が入っている。
そこが編んでいく基準となる印。
筋目は深く凹んでいる。
長年に亘る使用量が深い刻みを残したようだ。
編む道具に木製のツチノコがある。
いわゆる錘具のひとつに挙げられる道具で中央にくぼみがある。
充てる漢字は槌子であろう。
燻し色になっているツチノコも含めて編む道具は年代物。
「明治のころどころかもっと前や。そりゃ年季が入った道具や」と一人の男性は言った。
そして付け加えて言った。
「神さんのもんや。薦を跨ってはあかん」と一蹴された。
それもそのはず、できあがった薦藁は春日大社に献上される。
それは若宮おん祭における御旅所の仮御殿に用いられる大切なものなのだ。
薦編みはそのツチノコに藁紐を括り付けるところから始まる。
所定の長さにするにはそれだけの長さが要る。
くるくる巻き付けてタワラアミの台に据えた。
個数は8個だ。
一本の薦を台に添えた。
まずは右側だ。
薦の茎側を右端の基準点に置く。
そして手前にあるツチノコを前方右にもっていく。
今度は向こう側にあるツチノコを手前にもってきて左側に置く。
置くというよりも振るという感じで編み目はクロスしていく。
作業を文章にすると長くなるが実際は素早い動作である。
それもツチノコを持つという感じではなく藁紐を引っ張って振り上げるというようなものだ。
次の編み目は一つ飛ばした箇所だ。
今度は左に茎側に置く。
さきほどと左右の置き方が逆になる。
そして手前の箇所を編む。
それから同じように一つ飛ばして編む。
これを繰り返していく。
藁紐は縦糸、薦は横糸になる。
5人は黙々と編んでいく。
もう一人の男性は藁紐の長さを調整するなど作業の支援をする。
薦編みがある程度進んでいくと筵のような状態になる。
それをメジャーで測って足らなければもう少しだといって作業を続ける。
できあがった長さは1.5尺の45cm(柱用)だ。これを10枚作る。
編み人は5人だから一人が枚を編む計算だ。
薦が不作になったある年。そのときは茎を外して巾を広げ本数を増やしてなんとか奉納したと語る薦編み。
実はこれで終わりではない。
作業はまだまだ続き、3尺の90cmは24枚(床や御殿周りの覆い用)、6尺の180cm(階段用)が2枚もある。
これらの長さと枚数は決まっているのだ。
昼ころまでに作った90cmは10枚目作業の途中。
昼食をとって一旦は休憩をする。
それから再び作業をこなしていく。
すべてが終わるころは夜になる。
一日仕事の薦編みは薦上げと呼んでいる。
「こんな面倒な作業は若いもんはよーせーへんのとちゃうか、いつまで続けられるんかなぁ」と話す長老たち。
実は4年にいっぺんやってくる当番制。
薦刈りに薦干し、そして編む作業に献上は西と東の椎木町が交互に担う。
それぞれの地区には二つの班がある。
それも交替交代だ。
この年は西の北垣内だから、来年に東へ移ってさ来年は戻って南垣内が当番。
それから東へ再び移って北垣内に戻るというものだ。
「次はやれるかと思っていたら、もうやってきたんやなぁ」と笑顔で話しながら作業を進める人たち。
神さんに捧げるものだけに不幸ごとあれば薦はさわれない。
その場合は次の人(他垣内)に替わってもらうそうだ。
元気な間は続けていきたいが当番は終身制。
家長の男性が行う奉仕活動は引退宣言でもしない限り息子には譲れないという。
※ タワラアミの台は「コモゲタ」の名称がある。ゲタはケタで桁。そのトウカンカクの印がしてある桁なのでコモゲタと呼ぶらしい。橋桁の言葉もそうである。
※ コモを菰と表記する場合があるが、椎木のコモは春日若宮おん祭仮御殿へコモ上げされるものであることから薦の字を充てることにした。
(H22.11.21 EOS40D撮影)
それから4ヶ月、薦の葉の色は変わりなく美しい。
かつては宮田もなく池に生えていた薦を刈り取っていた。
それはたいそうなことだったと話す再び集まった当番の男性たち。
そのころは専業農業ばかりだった。
池がなくなり宮田を作った。
それを見守っているのが年番のトーヤだそうだ。
11月下旬のころは保存していた薦を編む作業がある。
早朝から旧公民館に集まった。
束にした薦はそれぞれの編む人らに配られる。
そして一本ずつ丁寧に編んでいく。
先代どころかもっと前から使っているというタワラアミの台。
ウマの足のような形をした木材は二股足だ。
百姓をしていたときの道具だそうでコメダワラ(米俵)を編んでいたという。
そこに一本の棒が据えられている。
幅は1メートルぐらいで4本の筋目が入っている。
そこが編んでいく基準となる印。
筋目は深く凹んでいる。
長年に亘る使用量が深い刻みを残したようだ。
編む道具に木製のツチノコがある。
いわゆる錘具のひとつに挙げられる道具で中央にくぼみがある。
充てる漢字は槌子であろう。
燻し色になっているツチノコも含めて編む道具は年代物。
「明治のころどころかもっと前や。そりゃ年季が入った道具や」と一人の男性は言った。
そして付け加えて言った。
「神さんのもんや。薦を跨ってはあかん」と一蹴された。
それもそのはず、できあがった薦藁は春日大社に献上される。
それは若宮おん祭における御旅所の仮御殿に用いられる大切なものなのだ。
薦編みはそのツチノコに藁紐を括り付けるところから始まる。
所定の長さにするにはそれだけの長さが要る。
くるくる巻き付けてタワラアミの台に据えた。
個数は8個だ。
一本の薦を台に添えた。
まずは右側だ。
薦の茎側を右端の基準点に置く。
そして手前にあるツチノコを前方右にもっていく。
今度は向こう側にあるツチノコを手前にもってきて左側に置く。
置くというよりも振るという感じで編み目はクロスしていく。
作業を文章にすると長くなるが実際は素早い動作である。
それもツチノコを持つという感じではなく藁紐を引っ張って振り上げるというようなものだ。
次の編み目は一つ飛ばした箇所だ。
今度は左に茎側に置く。
さきほどと左右の置き方が逆になる。
そして手前の箇所を編む。
それから同じように一つ飛ばして編む。
これを繰り返していく。
藁紐は縦糸、薦は横糸になる。
5人は黙々と編んでいく。
もう一人の男性は藁紐の長さを調整するなど作業の支援をする。
薦編みがある程度進んでいくと筵のような状態になる。
それをメジャーで測って足らなければもう少しだといって作業を続ける。
できあがった長さは1.5尺の45cm(柱用)だ。これを10枚作る。
編み人は5人だから一人が枚を編む計算だ。
薦が不作になったある年。そのときは茎を外して巾を広げ本数を増やしてなんとか奉納したと語る薦編み。
実はこれで終わりではない。
作業はまだまだ続き、3尺の90cmは24枚(床や御殿周りの覆い用)、6尺の180cm(階段用)が2枚もある。
これらの長さと枚数は決まっているのだ。
昼ころまでに作った90cmは10枚目作業の途中。
昼食をとって一旦は休憩をする。
それから再び作業をこなしていく。
すべてが終わるころは夜になる。
一日仕事の薦編みは薦上げと呼んでいる。
「こんな面倒な作業は若いもんはよーせーへんのとちゃうか、いつまで続けられるんかなぁ」と話す長老たち。
実は4年にいっぺんやってくる当番制。
薦刈りに薦干し、そして編む作業に献上は西と東の椎木町が交互に担う。
それぞれの地区には二つの班がある。
それも交替交代だ。
この年は西の北垣内だから、来年に東へ移ってさ来年は戻って南垣内が当番。
それから東へ再び移って北垣内に戻るというものだ。
「次はやれるかと思っていたら、もうやってきたんやなぁ」と笑顔で話しながら作業を進める人たち。
神さんに捧げるものだけに不幸ごとあれば薦はさわれない。
その場合は次の人(他垣内)に替わってもらうそうだ。
元気な間は続けていきたいが当番は終身制。
家長の男性が行う奉仕活動は引退宣言でもしない限り息子には譲れないという。
※ タワラアミの台は「コモゲタ」の名称がある。ゲタはケタで桁。そのトウカンカクの印がしてある桁なのでコモゲタと呼ぶらしい。橋桁の言葉もそうである。
※ コモを菰と表記する場合があるが、椎木のコモは春日若宮おん祭仮御殿へコモ上げされるものであることから薦の字を充てることにした。
(H22.11.21 EOS40D撮影)