今国府町の杵築神社の鳥居には簾型の注連縄が取り付けられている。
拝殿前にも同じ形態の注連縄が見られる。

年末に掛けられたそうだ。
この注連縄は左右に笹の葉がみられる。
2本の竹を組み合わせて作ったそうだ。
これと同じ形態のものが民家にもみられた。

当主の話しを伺えば、子供のときに先々代のおじいさんと一緒に作っていたという。
何年もわたって作り続けてきたから自然と作り方が身に付いたと話す。
藁はモチワラだ。しなりがあって作りやすい。
この注連縄のためにわざわざ自前の田んぼで作っている。
刈り取り量はけっこうあるのでほしいという人が現れれば差し上げているという。
この注連縄は28日辺りに作って31日の大晦日に取り付けたそうだ。
かつてトーヤ(当屋)をつとめたことがある昭和10年生まれのK氏はこれを「シメナワ」と呼んでいる。
特別な名前でもないそうだ。
ちなみに正月三が日を終えれば注連縄は外す。
それはとんどで燃やす。
神社の境内でとんどをするのでそこへ持っていくそうだ。
K氏のご好意で組み立て式のお仮屋を拝見した。
杵築神社祭礼の能面等についてはあかい奈良に書かれている。
そこにはトーヤの字が頭屋になっている。
「それは違うのだ。本当は当屋だったのだ」と話される。
古文書もあるというのでこれも拝見した。
それには当屋と書かれてあるのだという。
ページをめくってみたら初期には当屋であったが記念祭文では頭屋に代わっている。
記帳する際にどういうかげんか文字が変化したようである。
K家の真ん前に大神宮がある。
ときおりこれを調べる人が居るという。
その横は布団太鼓の御輿を格納している倉庫。
祭り前の夜宮には青年たちがそれを守っている。
当時は青年会組織だったそうだ。
寝ずの番でそれを見張る。
酒も入りそれを存在する話し声が聞こえてくる。
その音が聞こえなくなった。
どうやら最終電車で近鉄筒井駅から郡山駅に向けていったらしい。
青年会は男衆。色街に繰り出したという。
それはともかくかつての布団太鼓は遠くまで練って行ったようだ。
何十キロメートルも離れた郡山城跡までだ。
昔の男は力があったのだろう。
今では考えられないくらいの豪傑揃いだったのでは・・・。
色街で使い果たした。
借金の替わりに能面を預けたとの伝説がある能面。
それが杵築神社のお渡りに使われている。
近年には能楽関係者が買い戻したいと申し出たそうだ。
それはどうなったのかは知らないという。
それはともかく現在の祭礼は4班で分けられておりそれぞれにトーヤがある。
およそ12~15年ぐらいで回ってくるそうだ。
昔は班体制ではなかった。
O家のトモであったようだ。
そのときに頭屋を4人こさえた。
それは方角にあった。
戌亥(北西)、辰巳(南東)、未申(南西)、丑寅(北東)だったようだ。
祭礼のお渡りに被る翁の面はその日に隣町の小林町とで使われている。

そこの神社もやはり杵築神社と呼ぶ。
そこでも同じように簾型の注連縄が飾られている。
年末の28日にトーヤによって掛けられるそうだ。

それは2か所。
一の鳥居と本殿前の二の鳥居だった。
特に名称はないという。
(H23. 1. 2 EOS40D撮影)
拝殿前にも同じ形態の注連縄が見られる。

年末に掛けられたそうだ。
この注連縄は左右に笹の葉がみられる。
2本の竹を組み合わせて作ったそうだ。
これと同じ形態のものが民家にもみられた。

当主の話しを伺えば、子供のときに先々代のおじいさんと一緒に作っていたという。
何年もわたって作り続けてきたから自然と作り方が身に付いたと話す。
藁はモチワラだ。しなりがあって作りやすい。
この注連縄のためにわざわざ自前の田んぼで作っている。
刈り取り量はけっこうあるのでほしいという人が現れれば差し上げているという。
この注連縄は28日辺りに作って31日の大晦日に取り付けたそうだ。
かつてトーヤ(当屋)をつとめたことがある昭和10年生まれのK氏はこれを「シメナワ」と呼んでいる。
特別な名前でもないそうだ。
ちなみに正月三が日を終えれば注連縄は外す。
それはとんどで燃やす。
神社の境内でとんどをするのでそこへ持っていくそうだ。
K氏のご好意で組み立て式のお仮屋を拝見した。
杵築神社祭礼の能面等についてはあかい奈良に書かれている。
そこにはトーヤの字が頭屋になっている。
「それは違うのだ。本当は当屋だったのだ」と話される。
古文書もあるというのでこれも拝見した。
それには当屋と書かれてあるのだという。
ページをめくってみたら初期には当屋であったが記念祭文では頭屋に代わっている。
記帳する際にどういうかげんか文字が変化したようである。
K家の真ん前に大神宮がある。
ときおりこれを調べる人が居るという。
その横は布団太鼓の御輿を格納している倉庫。
祭り前の夜宮には青年たちがそれを守っている。
当時は青年会組織だったそうだ。
寝ずの番でそれを見張る。
酒も入りそれを存在する話し声が聞こえてくる。
その音が聞こえなくなった。
どうやら最終電車で近鉄筒井駅から郡山駅に向けていったらしい。
青年会は男衆。色街に繰り出したという。
それはともかくかつての布団太鼓は遠くまで練って行ったようだ。
何十キロメートルも離れた郡山城跡までだ。
昔の男は力があったのだろう。
今では考えられないくらいの豪傑揃いだったのでは・・・。
色街で使い果たした。
借金の替わりに能面を預けたとの伝説がある能面。
それが杵築神社のお渡りに使われている。
近年には能楽関係者が買い戻したいと申し出たそうだ。
それはどうなったのかは知らないという。
それはともかく現在の祭礼は4班で分けられておりそれぞれにトーヤがある。
およそ12~15年ぐらいで回ってくるそうだ。
昔は班体制ではなかった。
O家のトモであったようだ。
そのときに頭屋を4人こさえた。
それは方角にあった。
戌亥(北西)、辰巳(南東)、未申(南西)、丑寅(北東)だったようだ。
祭礼のお渡りに被る翁の面はその日に隣町の小林町とで使われている。

そこの神社もやはり杵築神社と呼ぶ。
そこでも同じように簾型の注連縄が飾られている。
年末の28日にトーヤによって掛けられるそうだ。

それは2か所。
一の鳥居と本殿前の二の鳥居だった。
特に名称はないという。
(H23. 1. 2 EOS40D撮影)