平成19年7月8日のことだ。
桜井市の山間にあたる芹井から白木を抜けて中谷、萱森の神社を探していた。
宮司を勤めていたⅠ氏が話していた萱森のおんだ祭が斎行される神社である。
中谷は判明したが結局のところ萱森の神社は判らなかった。
この辺りにあるということは判っているのだが・・・。
木工作業をしている人がおられた。
もしやと思って声を掛けたが大阪の人だった。
ここへ来て作業をしているという。
それならこの家のご主人に尋ねたら判るだろうと紹介してくださったH氏は萱森の住民。
萱森は在地宮垣内の他に中垣内、下垣内がある。
三社権現の祭典に出仕する隣村の大字中谷もあると云う。
3垣内、十数軒の萱森集落は芹井と同じような土地柄で、それぞれの垣内は離れた地区にある。
萱森の神社は高龗(たかおかみ)神社。
おかみの文字は雨冠に下が龍だ。
水の神さんであろう。
境内にある燈籠は九頭大明神とある。
由緒によれば信州戸隠山の九頭龍権現を遷し祀ったとある。
宮座は太夫とも呼ばれる一老から十老まで。
H氏は末席の十老を勤めるような年代になったと話す。
毎月1日は一日座があるそうだ。
芹井や中白木の住民が話していた大字中谷の高龗(たかおかみ)神社。
宮座祭祀が行われていた大字中谷。
村外へ出る家もあったことから3軒になった。
どうすることもできなくなって解散したという。
その件についてはH氏も同じように話す。
山間部における宮座の衰退は止めようがないほどになっているという。
神社近くにある小さな祠の屋根に注連縄を掛けたと云うH氏。
それほど遠くない地に鎮座する神社があると教わった。
たしかにそれがあった山の神。
本来の山の神はもっと遠い。
高い山の方である。
お参りするには遠いからと下に降ろしたという。
神社はそこから数メートル。
鳥居に太く結った注連縄が掛けられてあった。
そこには木で作られた四つの造作物があった。
山の神さんを祭るカマであろうか。
後日に伺った結果はカマとナタを象ったものだと云う。
ナタには数本の筋を入れてあるから判るだろうと話していたがカマにもそれがあった。
鳥居の下にはH氏が昨年に勤めた頭屋入りの証しに奉納された数枚の板札がある。
両脇にある鳥居の柱の袂である。
注連縄掛けはトーニンを受けた人が作って掛けたそうだ。
カマやナタ、それぞれ二つずつ注連縄に付けて下げる神社のカンマツリ(私祭の神祭:カンマツリ)は10月19日であった。
今は集まりやすいその日に近い土曜日。
早朝に宮さんで神事をした一老、二老、三老と総代はトーニンの家に着く。
昼の会食を経て午後には神社目指して出発するお渡りがある。
随分前のことだとわざわざ探してくれた記録写真を拝見した。
ホウキで道中を掃く人は二人。
素襖の装束姿の十人衆が後続につく。
幟や唐櫃を担ぐ人もいる。
白い装束姿がトーニンであろう。
裃姿の人も見られるし、神輿もあるお渡りは宮垣内が頭屋にあたる年だけだと云う。
秋のマツリの頭屋は既に決まっている。
前年に勤めたのが萱森の行事を教えてくださったH氏である。
3月1日の早朝に行われるのがオシメイリと呼ばれる神事がある。
その日は頭屋家での神遷しがされると云う。
どのような在り方か詳細は判らないが神事は神社で行われるそうだ。
オシメイリの前月の2月24日に行われる御田植祭の施主は兄頭屋と弟頭屋の二人。
既に4年後までの頭屋が決まっていると云う。
兄頭屋は麻にジャコ(雑魚)の煮〆。
弟頭屋は稲穂を添えたネコヤナギ、ニシシギの木の弓一張、七本の矢、鬼の籠、七合の籾種を要する。
豊作を祈願する御田植祭は瀧倉の宮司が勤める祈年祭。
その後で所作される御田植は拝殿の中である。
牛面は被らずに手に持つ。
後ろからマンガを持つ人がついて代掻きをする。
50年前は藁製の笠を被って蓑笠(みのかさ)を着けていたそうだ。
牛の鞍もあったと云うから鞍も着けていたのであろう。
県内各地で見られる御田植の所作とは異なる在り方に興味を覚える。
それを終えてから鬼的目がけて矢を射る弓打ちがある。
ネコヤナギにウルシ棒もあったと云うからオコナイであろうか。
矢は七本。
天と地に東西南北で6本。
最後の7本目が鬼打ちであろう。
神社を訪れた際には出氏子(でうじこ)のKさんが居られた。
村の依頼があっての電気工事であった。
20年に一度の造営の際には多額の寄付が募られる。
村には住んでいなくとも元氏子。
出氏子であっても寄付するのだと話す。
Kさんのご厚意で社務所に上がらせてもらった。
その造営の写真がある。
昭和59年に行われた上棟式の模様である。
たくさんの日の丸御幣が映っている。
掲げられた写真はもう一枚。
それが御田植祭の様子である。
昭和55年2月24日に斎行された田植えや鬼打ちの所作である。
それには鍬と鋤で耕す所作もあった氏子の作法。
鬼打ちは神職である。
神社行事には9月16日に行われる掘切神縄祭もある。
これが綱掛けであろうか。
それにしても掘切とはどういう意味を持つのだろうか。
お城の掘切があったのであろうか。
年番にあたるのは各垣内である。
7月8日の夏祭りも含めて再訪した折りには尋ねてみたい事項である。
萱森には6人で営んでいる念仏講がある。
老師が吹きこんで残したお念仏のカセットテープ。
それを流して六斎鉦を打つ。
春、秋の彼岸とお盆のときの営みである。
消防団横に建つ会所に集まって行われる六斎念仏講である。
葬式のときには導師の前の30分間。
鉦念仏をしていたと云う。
萱森は長谷寺境内にある三社権現の行事にもつく上之郷の村。
中谷垣内と萱森の3垣内が任につく。
平成25年は中垣内だと聞いている権現當屋は4垣内の廻り。
順番は決まっている。
三社権現の御供モチがある。
それも記録した写真があると拝見したカメモチとナタノモチ。
亀の甲羅のように見えるからそう呼ぶのであろうか、姿はまさしくカメモチであるが後日に聞いた話ではガニノモチと呼んでいた。
もう一つは鍔まで形作った薙刀のようにも見えるナタモチは前日に當屋の家で搗くらしい。
(H25. 1.12 EOS40D撮影)
桜井市の山間にあたる芹井から白木を抜けて中谷、萱森の神社を探していた。
宮司を勤めていたⅠ氏が話していた萱森のおんだ祭が斎行される神社である。
中谷は判明したが結局のところ萱森の神社は判らなかった。
この辺りにあるということは判っているのだが・・・。
木工作業をしている人がおられた。
もしやと思って声を掛けたが大阪の人だった。
ここへ来て作業をしているという。
それならこの家のご主人に尋ねたら判るだろうと紹介してくださったH氏は萱森の住民。
萱森は在地宮垣内の他に中垣内、下垣内がある。
三社権現の祭典に出仕する隣村の大字中谷もあると云う。
3垣内、十数軒の萱森集落は芹井と同じような土地柄で、それぞれの垣内は離れた地区にある。
萱森の神社は高龗(たかおかみ)神社。
おかみの文字は雨冠に下が龍だ。
水の神さんであろう。
境内にある燈籠は九頭大明神とある。
由緒によれば信州戸隠山の九頭龍権現を遷し祀ったとある。
宮座は太夫とも呼ばれる一老から十老まで。
H氏は末席の十老を勤めるような年代になったと話す。
毎月1日は一日座があるそうだ。
芹井や中白木の住民が話していた大字中谷の高龗(たかおかみ)神社。
宮座祭祀が行われていた大字中谷。
村外へ出る家もあったことから3軒になった。
どうすることもできなくなって解散したという。
その件についてはH氏も同じように話す。
山間部における宮座の衰退は止めようがないほどになっているという。
神社近くにある小さな祠の屋根に注連縄を掛けたと云うH氏。
それほど遠くない地に鎮座する神社があると教わった。
たしかにそれがあった山の神。
本来の山の神はもっと遠い。
高い山の方である。
お参りするには遠いからと下に降ろしたという。
神社はそこから数メートル。
鳥居に太く結った注連縄が掛けられてあった。
そこには木で作られた四つの造作物があった。
山の神さんを祭るカマであろうか。
後日に伺った結果はカマとナタを象ったものだと云う。
ナタには数本の筋を入れてあるから判るだろうと話していたがカマにもそれがあった。
鳥居の下にはH氏が昨年に勤めた頭屋入りの証しに奉納された数枚の板札がある。
両脇にある鳥居の柱の袂である。
注連縄掛けはトーニンを受けた人が作って掛けたそうだ。
カマやナタ、それぞれ二つずつ注連縄に付けて下げる神社のカンマツリ(私祭の神祭:カンマツリ)は10月19日であった。
今は集まりやすいその日に近い土曜日。
早朝に宮さんで神事をした一老、二老、三老と総代はトーニンの家に着く。
昼の会食を経て午後には神社目指して出発するお渡りがある。
随分前のことだとわざわざ探してくれた記録写真を拝見した。
ホウキで道中を掃く人は二人。
素襖の装束姿の十人衆が後続につく。
幟や唐櫃を担ぐ人もいる。
白い装束姿がトーニンであろう。
裃姿の人も見られるし、神輿もあるお渡りは宮垣内が頭屋にあたる年だけだと云う。
秋のマツリの頭屋は既に決まっている。
前年に勤めたのが萱森の行事を教えてくださったH氏である。
3月1日の早朝に行われるのがオシメイリと呼ばれる神事がある。
その日は頭屋家での神遷しがされると云う。
どのような在り方か詳細は判らないが神事は神社で行われるそうだ。
オシメイリの前月の2月24日に行われる御田植祭の施主は兄頭屋と弟頭屋の二人。
既に4年後までの頭屋が決まっていると云う。
兄頭屋は麻にジャコ(雑魚)の煮〆。
弟頭屋は稲穂を添えたネコヤナギ、ニシシギの木の弓一張、七本の矢、鬼の籠、七合の籾種を要する。
豊作を祈願する御田植祭は瀧倉の宮司が勤める祈年祭。
その後で所作される御田植は拝殿の中である。
牛面は被らずに手に持つ。
後ろからマンガを持つ人がついて代掻きをする。
50年前は藁製の笠を被って蓑笠(みのかさ)を着けていたそうだ。
牛の鞍もあったと云うから鞍も着けていたのであろう。
県内各地で見られる御田植の所作とは異なる在り方に興味を覚える。
それを終えてから鬼的目がけて矢を射る弓打ちがある。
ネコヤナギにウルシ棒もあったと云うからオコナイであろうか。
矢は七本。
天と地に東西南北で6本。
最後の7本目が鬼打ちであろう。
神社を訪れた際には出氏子(でうじこ)のKさんが居られた。
村の依頼があっての電気工事であった。
20年に一度の造営の際には多額の寄付が募られる。
村には住んでいなくとも元氏子。
出氏子であっても寄付するのだと話す。
Kさんのご厚意で社務所に上がらせてもらった。
その造営の写真がある。
昭和59年に行われた上棟式の模様である。
たくさんの日の丸御幣が映っている。
掲げられた写真はもう一枚。
それが御田植祭の様子である。
昭和55年2月24日に斎行された田植えや鬼打ちの所作である。
それには鍬と鋤で耕す所作もあった氏子の作法。
鬼打ちは神職である。
神社行事には9月16日に行われる掘切神縄祭もある。
これが綱掛けであろうか。
それにしても掘切とはどういう意味を持つのだろうか。
お城の掘切があったのであろうか。
年番にあたるのは各垣内である。
7月8日の夏祭りも含めて再訪した折りには尋ねてみたい事項である。
萱森には6人で営んでいる念仏講がある。
老師が吹きこんで残したお念仏のカセットテープ。
それを流して六斎鉦を打つ。
春、秋の彼岸とお盆のときの営みである。
消防団横に建つ会所に集まって行われる六斎念仏講である。
葬式のときには導師の前の30分間。
鉦念仏をしていたと云う。
萱森は長谷寺境内にある三社権現の行事にもつく上之郷の村。
中谷垣内と萱森の3垣内が任につく。
平成25年は中垣内だと聞いている権現當屋は4垣内の廻り。
順番は決まっている。
三社権現の御供モチがある。
それも記録した写真があると拝見したカメモチとナタノモチ。
亀の甲羅のように見えるからそう呼ぶのであろうか、姿はまさしくカメモチであるが後日に聞いた話ではガニノモチと呼んでいた。
もう一つは鍔まで形作った薙刀のようにも見えるナタモチは前日に當屋の家で搗くらしい。
(H25. 1.12 EOS40D撮影)