参道に入る一の鳥居の傍らに建つ「大和社常夜燈」に見られた年代は延享五辰年(1748)五月吉日。
大和社の郷中が寄進したようだがその郷中名の刻印は見られない。
天頂には珍しい鳩の造形がある。
その燈籠の横にも「大和社常夜燈」がある。
それには長柄村の4人の名があった。
両方とも長柄村の人たちが寄進したようだ。
この場にはもう一つの常夜燈もある。
それは延享五戊辰歳(1748)三月吉日であった。
2カ月間の開きがある。
この日は4月1日に行われるちゃんちゃん祭に先だって郷中にあたる各大字が天理市新泉町に鎮座する大和神社へ参詣する宮入り神事の日だ。
例年の3月23日に行われている。
宮入りする郷中の順は決まっていない。
毎年くじ引きによって替るのである。
平成25年は岸田、成願寺、萱生、長柄、三昧田、新泉、中山、兵庫、佐保庄の順であった。
奈良県図書情報館が所蔵する奈良県庁文書がある。
昭和4年に調査された『大和国神宮宮座調査』に記された往古における大和神社の郷中社家はそれぞれの家筋であったと記されている。
いわゆる宮座である。
明治維新の頃に改正された宮座は岸田が34人、成願寺は13人、萱生は5人、長柄は18人、三昧田は23人、新泉は10人、中山は5人、兵庫は12人、佐保庄は9人であった。
その後においては成願寺、長柄、佐保庄を除く各郷中は村座、或は大字の住民すべてが交替する平座になった。
村座に移った各大字の時期は異なる。
中山、萱生は明治の初めで、兵庫は明治8年だった。
その後も郷中の宮座が変遷する。
新泉は明治14年、15年で、三昧田は明治17年、18年に移り替った。
さらに岩懸と合併した岸田は明治の44年であった。
現在も尚続く成願寺の宮座は座中が増えて13人から21人になった。
佐保庄は9人から21人に増えている。
長柄は大正14年から地租納税多額者より年々選定、座筋以外も加入されて18人から40人の大所帯になったと書かれている。
この日に訪れたのは大和神社北側にある兵庫である。
二月の節分後に行われた将軍さん、或いは荘厳さんとも呼ぶ鬼的打ちを取材させていただいた兵庫町。
ちゃんちゃん祭に頭屋を勤める御主人に聞いていた宮入り参拝する際に持参する御供に特徴がある。
宮入りする各郷中のお供えはそれぞれである。
岸田は二合の酒、成願寺は清酒1本、萱生は二合の酒に3枚のスルメ、長柄は二合の酒と2合の洗米に塩、三昧田は銚子2本の酒である。
ちなみに三昧田ではこの日を神酒の口開けという。
銚子と云われているのは錫製の徳利である。
新泉は一升の米と酒、佐保庄は銚子2本の酒であるが、中山には特にお供えは見られない。
お米、塩も供える大字もあるが、殆どの大字は酒である。
しかし、兵庫は二合の酒(2本)と大豆である。
その大豆に特徴がある。

煎った大豆に醤油をかけてトリコ(餅取り粉)を塗した御供には名はないと云う。
かつてはお盆に入れて風呂敷に包んだ御供。
平成17年に拝見した大豆はそうであった。
その後においては大和神社が受け取って供えやすいようにカップ容器に入れることになった。
トリコが大豆にまんべんなく塗されるように接着するのが醤油の役目だそうだ。
一合のお酒も一緒に包んだ風呂敷包みの御供は出発前にしか拝見することができない。

両頭屋のご厚意で拝見した大豆はどっさりある。
兄、弟頭屋(親、子頭屋とも)それぞれの大豆は二合の量だ。
大和神社に到着する時間に合わせて集合した兄、弟頭屋はともに白装束。
烏帽子を被り同じような白装束になった頭人児(とうにんご)。
殆どの大字ではお稚児さんと呼んでいる。
この年の兄頭屋は孫であった。
父親はスース姿で頭人代を勤める。
頭人児が着る白装束には袖通しの結び紐がある。
兄頭人児が紫色で、弟頭人児は赤色と決まっているが、3歳、4歳児の子供は一年の差が大きい。
衣装のサイズが合わなくて仕方なく交換したと話す。
弟頭人児は孫ではなくカリコ(借り子)。
男児がいない場合は親戚筋、或いは村の子を借りてくるという。
その母親も付いて両頭屋一行が向かう先は大和神社。

兵庫は隣村であるが東へ抜ける集落の街道を歩く。
かつては水路があった兵庫の街道。
昔はもっと狭かったと話す。
成願寺、萱生、兵庫の境目の辻で曲がって上街道(初瀬街道)に入る。
大和神社の鳥居を潜って参道をゆく。
小字馬場先の鳥居下にあった燈籠が前述した長柄村寄進の「大和社常夜燈」である。
この年の兵庫の宮入りは8番目。
大多数の大字は既に宮入りの祭典を終えて戻っていた。
およそ20分おきに進行していたのだ。
直前に宮入りを済ませた新泉の頭人児は生後7カ月。母親が抱いていた。
後日に宮総代から聞いた話では女性は参籠所に登ることはできないと云う。
宮司からもその指摘がされて男性が抱いて参拝したそうだ。
到着すれば決められた宮入り順に従って署名をする。
順番が逆になってはならない証しの署名である。

両頭屋とも宮総代が差し出す杓子の手水を受けて手を清める。
受けた手水で口もすすぐ。手も口も清める作法である。

拝殿に登って行われる宮入り神事。
祓えの儀、祝詞奏上に玉串奉奠である。
神事を終えれば神社から配授された幣紙、麻紐、紙垂に御神水を持ち帰る。

これらの配授の品々はいずれの大字もすべて同じである。
大豆御供を包んでいた風呂敷は宮総代から返される。

大字兵庫に戻る際の道中は参道でなく裏から抜ける旧道。
戻りの道のりは短いのである。
2月に行われた鬼打ちの場には立てていた幣串の名残が見られる。
かつてはこの道はなかった。
新道ができるまでは大和神社境内樹木林を沿うような周回の道程であったと話す鉄工所のご主人。
初魂祭(将軍祭とも)で行われた鬼の的打ちの場辺りの田んぼを所有する。
ご主人の話しによればその樹木林辺りがかつての大和神社の神宮寺であった神護寺(現在は素盞嗚神社の北側)の所在地であったと云う。
(H25. 3.23 EOS40D撮影)
大和社の郷中が寄進したようだがその郷中名の刻印は見られない。
天頂には珍しい鳩の造形がある。
その燈籠の横にも「大和社常夜燈」がある。
それには長柄村の4人の名があった。
両方とも長柄村の人たちが寄進したようだ。
この場にはもう一つの常夜燈もある。
それは延享五戊辰歳(1748)三月吉日であった。
2カ月間の開きがある。
この日は4月1日に行われるちゃんちゃん祭に先だって郷中にあたる各大字が天理市新泉町に鎮座する大和神社へ参詣する宮入り神事の日だ。
例年の3月23日に行われている。
宮入りする郷中の順は決まっていない。
毎年くじ引きによって替るのである。
平成25年は岸田、成願寺、萱生、長柄、三昧田、新泉、中山、兵庫、佐保庄の順であった。
奈良県図書情報館が所蔵する奈良県庁文書がある。
昭和4年に調査された『大和国神宮宮座調査』に記された往古における大和神社の郷中社家はそれぞれの家筋であったと記されている。
いわゆる宮座である。
明治維新の頃に改正された宮座は岸田が34人、成願寺は13人、萱生は5人、長柄は18人、三昧田は23人、新泉は10人、中山は5人、兵庫は12人、佐保庄は9人であった。
その後においては成願寺、長柄、佐保庄を除く各郷中は村座、或は大字の住民すべてが交替する平座になった。
村座に移った各大字の時期は異なる。
中山、萱生は明治の初めで、兵庫は明治8年だった。
その後も郷中の宮座が変遷する。
新泉は明治14年、15年で、三昧田は明治17年、18年に移り替った。
さらに岩懸と合併した岸田は明治の44年であった。
現在も尚続く成願寺の宮座は座中が増えて13人から21人になった。
佐保庄は9人から21人に増えている。
長柄は大正14年から地租納税多額者より年々選定、座筋以外も加入されて18人から40人の大所帯になったと書かれている。
この日に訪れたのは大和神社北側にある兵庫である。
二月の節分後に行われた将軍さん、或いは荘厳さんとも呼ぶ鬼的打ちを取材させていただいた兵庫町。
ちゃんちゃん祭に頭屋を勤める御主人に聞いていた宮入り参拝する際に持参する御供に特徴がある。
宮入りする各郷中のお供えはそれぞれである。
岸田は二合の酒、成願寺は清酒1本、萱生は二合の酒に3枚のスルメ、長柄は二合の酒と2合の洗米に塩、三昧田は銚子2本の酒である。
ちなみに三昧田ではこの日を神酒の口開けという。
銚子と云われているのは錫製の徳利である。
新泉は一升の米と酒、佐保庄は銚子2本の酒であるが、中山には特にお供えは見られない。
お米、塩も供える大字もあるが、殆どの大字は酒である。
しかし、兵庫は二合の酒(2本)と大豆である。
その大豆に特徴がある。

煎った大豆に醤油をかけてトリコ(餅取り粉)を塗した御供には名はないと云う。
かつてはお盆に入れて風呂敷に包んだ御供。
平成17年に拝見した大豆はそうであった。
その後においては大和神社が受け取って供えやすいようにカップ容器に入れることになった。
トリコが大豆にまんべんなく塗されるように接着するのが醤油の役目だそうだ。
一合のお酒も一緒に包んだ風呂敷包みの御供は出発前にしか拝見することができない。

両頭屋のご厚意で拝見した大豆はどっさりある。
兄、弟頭屋(親、子頭屋とも)それぞれの大豆は二合の量だ。
大和神社に到着する時間に合わせて集合した兄、弟頭屋はともに白装束。
烏帽子を被り同じような白装束になった頭人児(とうにんご)。
殆どの大字ではお稚児さんと呼んでいる。
この年の兄頭屋は孫であった。
父親はスース姿で頭人代を勤める。
頭人児が着る白装束には袖通しの結び紐がある。
兄頭人児が紫色で、弟頭人児は赤色と決まっているが、3歳、4歳児の子供は一年の差が大きい。
衣装のサイズが合わなくて仕方なく交換したと話す。
弟頭人児は孫ではなくカリコ(借り子)。
男児がいない場合は親戚筋、或いは村の子を借りてくるという。
その母親も付いて両頭屋一行が向かう先は大和神社。

兵庫は隣村であるが東へ抜ける集落の街道を歩く。
かつては水路があった兵庫の街道。
昔はもっと狭かったと話す。
成願寺、萱生、兵庫の境目の辻で曲がって上街道(初瀬街道)に入る。
大和神社の鳥居を潜って参道をゆく。
小字馬場先の鳥居下にあった燈籠が前述した長柄村寄進の「大和社常夜燈」である。
この年の兵庫の宮入りは8番目。
大多数の大字は既に宮入りの祭典を終えて戻っていた。
およそ20分おきに進行していたのだ。
直前に宮入りを済ませた新泉の頭人児は生後7カ月。母親が抱いていた。
後日に宮総代から聞いた話では女性は参籠所に登ることはできないと云う。
宮司からもその指摘がされて男性が抱いて参拝したそうだ。
到着すれば決められた宮入り順に従って署名をする。
順番が逆になってはならない証しの署名である。

両頭屋とも宮総代が差し出す杓子の手水を受けて手を清める。
受けた手水で口もすすぐ。手も口も清める作法である。

拝殿に登って行われる宮入り神事。
祓えの儀、祝詞奏上に玉串奉奠である。
神事を終えれば神社から配授された幣紙、麻紐、紙垂に御神水を持ち帰る。

これらの配授の品々はいずれの大字もすべて同じである。
大豆御供を包んでいた風呂敷は宮総代から返される。

大字兵庫に戻る際の道中は参道でなく裏から抜ける旧道。
戻りの道のりは短いのである。
2月に行われた鬼打ちの場には立てていた幣串の名残が見られる。
かつてはこの道はなかった。
新道ができるまでは大和神社境内樹木林を沿うような周回の道程であったと話す鉄工所のご主人。
初魂祭(将軍祭とも)で行われた鬼の的打ちの場辺りの田んぼを所有する。
ご主人の話しによればその樹木林辺りがかつての大和神社の神宮寺であった神護寺(現在は素盞嗚神社の北側)の所在地であったと云う。
(H25. 3.23 EOS40D撮影)