2月の御田植祭や3月の朔座の御神入りで聞いていた萱森の六斎念仏。
春、秋とも彼岸の明けの結願(けちがん)の日に行われている。
陽がとっぷりと暮れた数時間後に集まってくる六斎衆は予備の人も入れて8人(以前は9人)で組織していると云う。
六斎念仏の営みは六人。
一人は高龗(おかみ)神社の太夫になったことから脱退された。
一人欠けたらその都度補充する。
予備から急遽あがった一人が加わって維持する六人の講中は今も昔も変わらない。
それゆえ念仏講中を六斎衆と呼ぶ。
この日は導師の都合で始まる時間はいつもより1時間も遅い。
集まる場は桜井市萱森の会所。
本尊脇に置かれてあった「奉 再建立薬師堂 世話人」の名が並ぶ板書が示す年代は「文政五年(1822)七月二日 集福寺」であった。
萱森にかつてあったとされる集福寺・薬師堂のご本尊は木造一刀彫の薬師如来座像と伝えられている。
脇侍に立つ日光菩薩、月光菩薩がご本尊を護侍している。
集福寺はかつて真言宗であったが、改宗されて都祁白石の興善寺の傘下になった。
その当時に六斎念仏講を結成したようだ。
本尊前に掲げた十一尊天得如来来迎図の掛軸。
十仏とともに降りてくる来迎図である。
その掛軸の裏面に「和式上郡萱森邑六斎念佛中 開眼 白石□ 興善寺圓阿上人 奉修表具十一尊佛 時ニテ 文政三辰(1820)捻 十月十五日」と墨書されていた。
集福寺・薬師堂が再建される二年前である。
時すでに融通念仏宗に改宗されていた萱森村であった証しである。
十一尊仏の表具は昭和35年3月春分の日に村の人が改装寄進されて奇麗になった。
また、大師像の掛軸もある。
それには「和式上郡萱森村六斎念佛中 奉修建立開山聖應大師 文政三辰(1820)午十月十五日 開眼 白石興善寺廿七世 悟碩上人代」とある。
同時に都祁白石興善寺の上人と上人代によって寄進された掛軸である。
聖應大師は良忍上人。
融通念仏宗の開祖である。
掛軸はもう一幅ある。
その座像は再興された法明上人像だそうだ。
亡くなった村人の名を書かれた「三界萬霊有縁無縁縁乃至法界平等利益」も掲げて始まった六斎念仏には必携の念仏本がある。
平成5年4月に発刊された「萱森風土記」はF氏が纏めた地域史。
その人が書き残した六斎念仏の経本である。
氏が生前に吹きこんだカセットテープの念仏がある。
それに合わせて念仏を唱える六斎衆はそれぞれの家で預かっている鉦を持ってきた。
萱森の鉦は6丁。
六斎衆の人数分の枚数である。
脱会されて新加入した講中に引き継ぐ鉦は代々の家で継ぐわけでなく講中から講中に引き継がれてきたのである。

そのうちの一丁には記銘の刻印があった。
「和式上郡萱森村 長福寺 西村左近宗春作」とある。
「長福寺」は「集福寺」の誤刻であろうか。
現在はK氏が所有している。
六斎念仏はカセットテープと経本に合わせて唱える。
曲目はしへん(四辺)とばんどの2曲。
導師の念仏、ヒラ(平)が唱える衆生に分かれている。
しへんは壱番、弐番で、らんがい、はむあみ、なむつ、だいだい、はむつ、はい、たか、ひとことわりで終える。

ばんどは壱番、弐番、参番。
願似此(がんにし) 功徳(くどく) 平等施(びょうどうせ) 一切同(いっさいどう) 発菩提心(ほつぼだしんん) 応生(おうじょう) 安楽国(あんらくこく)を唱えて終える際には鉦を連打する。
およそ18分間に亘って唱えた念仏は経本があっても難しいと話す。
彼岸の念仏に唱える誓願文は「願くわ此の功徳を以って普く一切に及ぼし 村中家内安全 五穀豊穣の為に」。
薬師如来に捧げる念仏であるがこの年はされなかった。
こうして終えた春の彼岸の六斎念仏は「カンカラカン」とも呼んでいる。
会所にはもう一つの鉦がある。
それには「大和国式上郡萱森村 集福寺寶物 京大師 西村左近宗春作」とあった。
K氏が所有する鉦の作者と同じ西村左近宗春である鉦はかつて雨乞いの際に打っていたと伝わる。
西村左近宗春作の鉦は他所で拝見したことがある。
桜井市北白木の虫の祈祷で打たれた鉦の記銘と同じ作者だ。
その鉦は元禄十七年(1704)の製作であった。
萱森が融通念仏宗になるよりも120年も前のことである。
同一人物と考えるならば・・・1700年代の寛永時代に活躍した京の仏具師。
京都の大仏殿(現在の東山七条)あたりに住んでいた鋳物師は江戸中期から後期にかけて活躍した名匠だそうだ。
北白木で鉦を叩いていたのは虫の祈祷。
その場は旧安楽寺である。
もしかとすれば、であるが、二つの鉦は安楽寺の鉦と同時期に製作されたのか、それとも都祁白石の興善寺から寄せられたのではと思ったのである。
萱森の六斎念仏は春、秋の彼岸明けだけでなく8月14日のお盆にも行っているという。
当日は夜ではなく早朝からである。
六斎衆が塔婆書きをする。
卒塔婆に先祖代々の総法界菩提を書く各戸の塔婆書きである。
彼岸と同様に掛軸を掲げて念仏をする。
塔婆回向も行う盂蘭盆は昼までに終えるそうだ。
回向を終えた後々に各戸に配布する。
受け取った家はそこでも回向する。
かつてのお盆は三人ずつに分かれた二組で村内の家を巡った。
ご先祖さんの霊前で念仏回向をしていたが、講員が揃わず戦時中に中断した。
戦後しばらくは復活していたが、戦前の体制までは至らずやむなく中止したそうだ。
(H25. 3.23 EOS40D撮影)
春、秋とも彼岸の明けの結願(けちがん)の日に行われている。
陽がとっぷりと暮れた数時間後に集まってくる六斎衆は予備の人も入れて8人(以前は9人)で組織していると云う。
六斎念仏の営みは六人。
一人は高龗(おかみ)神社の太夫になったことから脱退された。
一人欠けたらその都度補充する。
予備から急遽あがった一人が加わって維持する六人の講中は今も昔も変わらない。
それゆえ念仏講中を六斎衆と呼ぶ。
この日は導師の都合で始まる時間はいつもより1時間も遅い。
集まる場は桜井市萱森の会所。
本尊脇に置かれてあった「奉 再建立薬師堂 世話人」の名が並ぶ板書が示す年代は「文政五年(1822)七月二日 集福寺」であった。
萱森にかつてあったとされる集福寺・薬師堂のご本尊は木造一刀彫の薬師如来座像と伝えられている。
脇侍に立つ日光菩薩、月光菩薩がご本尊を護侍している。
集福寺はかつて真言宗であったが、改宗されて都祁白石の興善寺の傘下になった。
その当時に六斎念仏講を結成したようだ。
本尊前に掲げた十一尊天得如来来迎図の掛軸。
十仏とともに降りてくる来迎図である。
その掛軸の裏面に「和式上郡萱森邑六斎念佛中 開眼 白石□ 興善寺圓阿上人 奉修表具十一尊佛 時ニテ 文政三辰(1820)捻 十月十五日」と墨書されていた。
集福寺・薬師堂が再建される二年前である。
時すでに融通念仏宗に改宗されていた萱森村であった証しである。
十一尊仏の表具は昭和35年3月春分の日に村の人が改装寄進されて奇麗になった。
また、大師像の掛軸もある。
それには「和式上郡萱森村六斎念佛中 奉修建立開山聖應大師 文政三辰(1820)午十月十五日 開眼 白石興善寺廿七世 悟碩上人代」とある。
同時に都祁白石興善寺の上人と上人代によって寄進された掛軸である。
聖應大師は良忍上人。
融通念仏宗の開祖である。
掛軸はもう一幅ある。
その座像は再興された法明上人像だそうだ。
亡くなった村人の名を書かれた「三界萬霊有縁無縁縁乃至法界平等利益」も掲げて始まった六斎念仏には必携の念仏本がある。
平成5年4月に発刊された「萱森風土記」はF氏が纏めた地域史。
その人が書き残した六斎念仏の経本である。
氏が生前に吹きこんだカセットテープの念仏がある。
それに合わせて念仏を唱える六斎衆はそれぞれの家で預かっている鉦を持ってきた。
萱森の鉦は6丁。
六斎衆の人数分の枚数である。
脱会されて新加入した講中に引き継ぐ鉦は代々の家で継ぐわけでなく講中から講中に引き継がれてきたのである。

そのうちの一丁には記銘の刻印があった。
「和式上郡萱森村 長福寺 西村左近宗春作」とある。
「長福寺」は「集福寺」の誤刻であろうか。
現在はK氏が所有している。
六斎念仏はカセットテープと経本に合わせて唱える。
曲目はしへん(四辺)とばんどの2曲。
導師の念仏、ヒラ(平)が唱える衆生に分かれている。
しへんは壱番、弐番で、らんがい、はむあみ、なむつ、だいだい、はむつ、はい、たか、ひとことわりで終える。

ばんどは壱番、弐番、参番。
願似此(がんにし) 功徳(くどく) 平等施(びょうどうせ) 一切同(いっさいどう) 発菩提心(ほつぼだしんん) 応生(おうじょう) 安楽国(あんらくこく)を唱えて終える際には鉦を連打する。
およそ18分間に亘って唱えた念仏は経本があっても難しいと話す。
彼岸の念仏に唱える誓願文は「願くわ此の功徳を以って普く一切に及ぼし 村中家内安全 五穀豊穣の為に」。
薬師如来に捧げる念仏であるがこの年はされなかった。
こうして終えた春の彼岸の六斎念仏は「カンカラカン」とも呼んでいる。
会所にはもう一つの鉦がある。
それには「大和国式上郡萱森村 集福寺寶物 京大師 西村左近宗春作」とあった。
K氏が所有する鉦の作者と同じ西村左近宗春である鉦はかつて雨乞いの際に打っていたと伝わる。
西村左近宗春作の鉦は他所で拝見したことがある。
桜井市北白木の虫の祈祷で打たれた鉦の記銘と同じ作者だ。
その鉦は元禄十七年(1704)の製作であった。
萱森が融通念仏宗になるよりも120年も前のことである。
同一人物と考えるならば・・・1700年代の寛永時代に活躍した京の仏具師。
京都の大仏殿(現在の東山七条)あたりに住んでいた鋳物師は江戸中期から後期にかけて活躍した名匠だそうだ。
北白木で鉦を叩いていたのは虫の祈祷。
その場は旧安楽寺である。
もしかとすれば、であるが、二つの鉦は安楽寺の鉦と同時期に製作されたのか、それとも都祁白石の興善寺から寄せられたのではと思ったのである。
萱森の六斎念仏は春、秋の彼岸明けだけでなく8月14日のお盆にも行っているという。
当日は夜ではなく早朝からである。
六斎衆が塔婆書きをする。
卒塔婆に先祖代々の総法界菩提を書く各戸の塔婆書きである。
彼岸と同様に掛軸を掲げて念仏をする。
塔婆回向も行う盂蘭盆は昼までに終えるそうだ。
回向を終えた後々に各戸に配布する。
受け取った家はそこでも回向する。
かつてのお盆は三人ずつに分かれた二組で村内の家を巡った。
ご先祖さんの霊前で念仏回向をしていたが、講員が揃わず戦時中に中断した。
戦後しばらくは復活していたが、戦前の体制までは至らずやむなく中止したそうだ。
(H25. 3.23 EOS40D撮影)