待ちに臨んだ二人展。この日は強い風が吹く。
八重桜は満開、サツキも咲きだしたというのに寒い日となったこの日の金剛山水越峠はなんと雪積は1cm。
雪化粧に包まれたと配信したgucchiさんも驚くこの日から始まった『野辺の送り』二人展。
平成24年4月に田原の里の沓掛で遭遇した葬送の儀礼の写真展は野口文男氏と志岐利恵子氏の共同作品。
公開されたのは一年後の本日だ。
場所は大阪梅田のヒルトンプラザ・ウエストオフィスタワーの13階。
ニコンサロンbis大阪である。
平成22年9月にあった石津武史氏の写真展『日々坦々』以来である。
仕事を終えて一旦は帰宅。身支度して出かけた日は風が強くて寒い。
JR郡山まで歩こうと思っていたが、バスにした。
西大寺の近鉄で買物したいと申すかーさんもバスに乗る。
奈良交通のバスに乗るときに使っているCI-CA(シーカ)プリペイドカードはチャージしていない。
かーさんが出かける際に使っているICOCA(イコカ)カードがある。
JRに乗るときに利用できるICOCA(イコカ)カードは平成15年11月から運用を開始された電子マネーカード。
CI-CA(シーカ)プリペイドカードと同様に現金をチャージしなければならない。
平成19年4月からは奈良交通バスにも利用できるように拡大されたICOCA(イコカ)カードを家族で利用するが私は使い初め。
バスに乗ってピッと翳すせばそれで済む。
財布から出するお金の計算はまったく不要な非接触形のICカードである。
バスを降りて郡山商店街を抜けてJR郡山駅に着く。
改札口前に施設されたチャージに現金を投入するのも簡単な操作。
指示通りにすればいいのだ。
向かう先はJR難波駅。
電車賃を確かめて切符券売機の前に立つ。

ボタンを押してカードを挿入するがピクリとも動かない。
これまでは現金を投入して切符を買っていた。
指定電車賃のボタンを押しても反応がない。
カードは読み込まない。
ボタンは反応しない。
機械の故障かと思って券売機を替えて操作してみたが同じだ。
焦る切符の購入。
たまりかねて駅員さんに尋ねた結果は「カードを改札口にピッとしてください」だ。
そうなんだ。
私はICOCA(イコカ)カードで切符を購入するものだと思っていた。
テレビでときおり放映されるタレントさんの切符買い。
ボタンの操作に面食らう人は多い。
私も同じであった初体験。
帰宅してかーさんに話したら笑われた。
乗った電車は大阪駅行き。
JR難波駅へ行くには乗り換えがいる。
面倒臭くなって新今宮駅で下りずにそのまま環状線。
今宮駅、芦原橋駅をスルーする大和路快速は一路大阪駅を目指す。
昭和36年はぐるりと回遊する環状ではなかった。
天王寺、大正、弁天町から西九条駅止まりだった昭和36年。
大阪駅に行くには桜島線に乗り換えを要していた。
おふくろに手を繋がれて下りた駅が西九条だった。
小学5年生のときだった。
それから先は線路がなかったことを覚えている。
親父に一目会いたいと願ってやってきた西九条。
「二度と来るな」と突っ返されたことも覚えている。
西九条駅が高架化されて一周するようになったのは昭和39年だ。
50年前のことを思い出しながら着いた大阪駅。
新しくできた大屋根があるがゆっくりしている時間はない。
西梅田の表示ばかりを見ながら地下道を歩く。

地下から上がってみれば摩天楼の大都会。
都会を離れて十数年。
馴染まない身体になったものだ。
それはともかく出展されていたお二人は正装。
いつもの撮影の姿とはうって変わる。
「まえがき」に寄せた文は葬送の儀礼家に送る謝辞。
格調高い素晴らしい文章である。
突然の撮影願いに驚かれた喪主家だったと思えるが、展示された写真は未来永劫まで残る貴重な映像。
生の民俗に身震いする。
この日の朝一番に拝見されたと聞く。
葬送の行列は平成20年4月に都祁の小山戸で拝見したことがある。
御田祭の取材する直前の時間帯だった。
小山戸の里から聞こえてきた送り鉦の音色だ。
葬送の鉦であるが祭場からは遠く離れている。
後方には行列があった。
そのときの光景を思い出すが、展示された田原の里の沓掛の行列は村の息遣いが聞こえてくる。
小山戸では二人展の野口文男氏と一緒に居た。
撮るものではないと判断したのであったが、沓掛では許可を得て撮影された。
千載一遇と直感で決断、声をかけたのは志岐利恵子氏であろう。
鉦、辻蝋燭、幟、燈籠、霊柩車、墓所、門、トウキン、四花などさまざまな角度から捉えた儀礼は何百枚にもおよんだと云う。
選びに選んだモノクロ写真は47点。
会場の関係で公開されたのは37枚になったと話す。
僧侶は大野町十輪寺の住職と天理市山田町の蔵輪寺住職。
ともに真言宗である。
霊柩車と呼ぶ蓮台で寝桶を運ぶ。
昭和18年に田原の里の村々が共同で作った霊柩車。
それまでは担いで葬送していたという。
当時は戦時中。
男手が少なくなって車輪をもつ構造にしたようだ。
カンヌ映画祭で審査員特別大賞のグランプリをとった映画「殯の森」に最初に登場する葬送の行列の霊柩車であるが、写真展に映っている霊柩車は生の存在だ。
大阪南河内の滝谷不動はおふくろのふるさと。
私が小学生のころにあった母家の大おばあちゃんの葬送。
いとこの兄ちゃんは白装束。
4人がかりで担いだお棺は樽形の座棺だった。
亡くなった大おばあちゃんがそこに膝を曲げて座っていた。
今でも鮮明に残る頭の中の映像だ。
堤防だったのか畑の道の里であったのかはっきりしない。
墓地までの距離は割合ある。
座棺を埋める土葬であったことも覚えている。
平成24年3月に大和郡山市の矢田の民俗聞き取りで知った墓の穴掘り。
座棺があったのは30年も前のことで円形の棺桶だった。
その後の座棺は四角い箱の寝棺になった。
四人で担ぐ寝棺はオーコと一体形。
それをコシ(輿)と呼んでいた。
編んだ堅い縄を括りつけたオーコ。
それを両肩にあてがうように担いだ。
棺桶を蓮華模様の棺台に置いて念仏を唱える穴掘りは葬送する前にしておくが、埋葬する際には家人を見届けることなく家に戻った。
墓を掘るのは「アナホリ」と呼ぶ。
一升びんの酒を持ってきたそうだ。
酒を飲まずにおられなかったアナホリ。
三角巾の頭に白装束姿で掘っていたと話す。
棺桶を埋める際には竹組みを縄でスダレのように編んだものを棺桶の上に乗せておく。
土を掛ければ見えなくなる。
獣が墓を掘り起して食べないようにしたこの竹組みをケモノヨケと呼んでいた。
仏さんを埋めれば盛り土をする。
それはこんもりとした形に盛るから「ドマンジュウ(土饅頭)」と呼んでいた。
そこに標木を立てる。
ドマンジュウの土が引っ込むまでそのままにしておく。
矢田の葬送は20年も前のことだと案内人が話していたことを思い出す。
出典された田原の里の葬送は11年ぶりの土葬。
おそらくは最後になると思われる貴重な記録を拝見する。
仲間たちを招待されての立食パーティは会費制。
この日に集まったのは34人。
顔なじみのある方ばかりだけにお酒が進む。
ご両人の挨拶や元県立民俗博物館中川館長、元学芸課長の鹿谷氏からも謝辞もあった2時間弱の会談はつもる話で盛り上がる。
(H25. 4.11 SB932SH撮影)
八重桜は満開、サツキも咲きだしたというのに寒い日となったこの日の金剛山水越峠はなんと雪積は1cm。
雪化粧に包まれたと配信したgucchiさんも驚くこの日から始まった『野辺の送り』二人展。
平成24年4月に田原の里の沓掛で遭遇した葬送の儀礼の写真展は野口文男氏と志岐利恵子氏の共同作品。
公開されたのは一年後の本日だ。
場所は大阪梅田のヒルトンプラザ・ウエストオフィスタワーの13階。
ニコンサロンbis大阪である。
平成22年9月にあった石津武史氏の写真展『日々坦々』以来である。
仕事を終えて一旦は帰宅。身支度して出かけた日は風が強くて寒い。
JR郡山まで歩こうと思っていたが、バスにした。
西大寺の近鉄で買物したいと申すかーさんもバスに乗る。
奈良交通のバスに乗るときに使っているCI-CA(シーカ)プリペイドカードはチャージしていない。
かーさんが出かける際に使っているICOCA(イコカ)カードがある。
JRに乗るときに利用できるICOCA(イコカ)カードは平成15年11月から運用を開始された電子マネーカード。
CI-CA(シーカ)プリペイドカードと同様に現金をチャージしなければならない。
平成19年4月からは奈良交通バスにも利用できるように拡大されたICOCA(イコカ)カードを家族で利用するが私は使い初め。
バスに乗ってピッと翳すせばそれで済む。
財布から出するお金の計算はまったく不要な非接触形のICカードである。
バスを降りて郡山商店街を抜けてJR郡山駅に着く。
改札口前に施設されたチャージに現金を投入するのも簡単な操作。
指示通りにすればいいのだ。
向かう先はJR難波駅。
電車賃を確かめて切符券売機の前に立つ。

ボタンを押してカードを挿入するがピクリとも動かない。
これまでは現金を投入して切符を買っていた。
指定電車賃のボタンを押しても反応がない。
カードは読み込まない。
ボタンは反応しない。
機械の故障かと思って券売機を替えて操作してみたが同じだ。
焦る切符の購入。
たまりかねて駅員さんに尋ねた結果は「カードを改札口にピッとしてください」だ。
そうなんだ。
私はICOCA(イコカ)カードで切符を購入するものだと思っていた。
テレビでときおり放映されるタレントさんの切符買い。
ボタンの操作に面食らう人は多い。
私も同じであった初体験。
帰宅してかーさんに話したら笑われた。
乗った電車は大阪駅行き。
JR難波駅へ行くには乗り換えがいる。
面倒臭くなって新今宮駅で下りずにそのまま環状線。
今宮駅、芦原橋駅をスルーする大和路快速は一路大阪駅を目指す。
昭和36年はぐるりと回遊する環状ではなかった。
天王寺、大正、弁天町から西九条駅止まりだった昭和36年。
大阪駅に行くには桜島線に乗り換えを要していた。
おふくろに手を繋がれて下りた駅が西九条だった。
小学5年生のときだった。
それから先は線路がなかったことを覚えている。
親父に一目会いたいと願ってやってきた西九条。
「二度と来るな」と突っ返されたことも覚えている。
西九条駅が高架化されて一周するようになったのは昭和39年だ。
50年前のことを思い出しながら着いた大阪駅。
新しくできた大屋根があるがゆっくりしている時間はない。
西梅田の表示ばかりを見ながら地下道を歩く。

地下から上がってみれば摩天楼の大都会。
都会を離れて十数年。
馴染まない身体になったものだ。
それはともかく出展されていたお二人は正装。
いつもの撮影の姿とはうって変わる。
「まえがき」に寄せた文は葬送の儀礼家に送る謝辞。
格調高い素晴らしい文章である。
突然の撮影願いに驚かれた喪主家だったと思えるが、展示された写真は未来永劫まで残る貴重な映像。
生の民俗に身震いする。
この日の朝一番に拝見されたと聞く。
葬送の行列は平成20年4月に都祁の小山戸で拝見したことがある。
御田祭の取材する直前の時間帯だった。
小山戸の里から聞こえてきた送り鉦の音色だ。
葬送の鉦であるが祭場からは遠く離れている。
後方には行列があった。
そのときの光景を思い出すが、展示された田原の里の沓掛の行列は村の息遣いが聞こえてくる。
小山戸では二人展の野口文男氏と一緒に居た。
撮るものではないと判断したのであったが、沓掛では許可を得て撮影された。
千載一遇と直感で決断、声をかけたのは志岐利恵子氏であろう。
鉦、辻蝋燭、幟、燈籠、霊柩車、墓所、門、トウキン、四花などさまざまな角度から捉えた儀礼は何百枚にもおよんだと云う。
選びに選んだモノクロ写真は47点。
会場の関係で公開されたのは37枚になったと話す。
僧侶は大野町十輪寺の住職と天理市山田町の蔵輪寺住職。
ともに真言宗である。
霊柩車と呼ぶ蓮台で寝桶を運ぶ。
昭和18年に田原の里の村々が共同で作った霊柩車。
それまでは担いで葬送していたという。
当時は戦時中。
男手が少なくなって車輪をもつ構造にしたようだ。
カンヌ映画祭で審査員特別大賞のグランプリをとった映画「殯の森」に最初に登場する葬送の行列の霊柩車であるが、写真展に映っている霊柩車は生の存在だ。
大阪南河内の滝谷不動はおふくろのふるさと。
私が小学生のころにあった母家の大おばあちゃんの葬送。
いとこの兄ちゃんは白装束。
4人がかりで担いだお棺は樽形の座棺だった。
亡くなった大おばあちゃんがそこに膝を曲げて座っていた。
今でも鮮明に残る頭の中の映像だ。
堤防だったのか畑の道の里であったのかはっきりしない。
墓地までの距離は割合ある。
座棺を埋める土葬であったことも覚えている。
平成24年3月に大和郡山市の矢田の民俗聞き取りで知った墓の穴掘り。
座棺があったのは30年も前のことで円形の棺桶だった。
その後の座棺は四角い箱の寝棺になった。
四人で担ぐ寝棺はオーコと一体形。
それをコシ(輿)と呼んでいた。
編んだ堅い縄を括りつけたオーコ。
それを両肩にあてがうように担いだ。
棺桶を蓮華模様の棺台に置いて念仏を唱える穴掘りは葬送する前にしておくが、埋葬する際には家人を見届けることなく家に戻った。
墓を掘るのは「アナホリ」と呼ぶ。
一升びんの酒を持ってきたそうだ。
酒を飲まずにおられなかったアナホリ。
三角巾の頭に白装束姿で掘っていたと話す。
棺桶を埋める際には竹組みを縄でスダレのように編んだものを棺桶の上に乗せておく。
土を掛ければ見えなくなる。
獣が墓を掘り起して食べないようにしたこの竹組みをケモノヨケと呼んでいた。
仏さんを埋めれば盛り土をする。
それはこんもりとした形に盛るから「ドマンジュウ(土饅頭)」と呼んでいた。
そこに標木を立てる。
ドマンジュウの土が引っ込むまでそのままにしておく。
矢田の葬送は20年も前のことだと案内人が話していたことを思い出す。
出典された田原の里の葬送は11年ぶりの土葬。
おそらくは最後になると思われる貴重な記録を拝見する。
仲間たちを招待されての立食パーティは会費制。
この日に集まったのは34人。
顔なじみのある方ばかりだけにお酒が進む。
ご両人の挨拶や元県立民俗博物館中川館長、元学芸課長の鹿谷氏からも謝辞もあった2時間弱の会談はつもる話で盛り上がる。
(H25. 4.11 SB932SH撮影)