木造最古の旧堺燈台を拝見してやってきた大浜公園。
停めた駐車場にはサクランボの実をつけている。
桜の品種はオオシマザクラ。
桜餅に利用されている葉っぱだ。
若葉を摘み取って塩漬けする。
クマリンという物質が特徴的な芳香をもつオオシマザクラのサクランボは食べられるがえぐみが強い渋み。
流通している食用のサクランボはセイヨウミザクラという品種だそうだ。
オオシマザクラの桜花はすでに終わっていた大浜公園を歩いていけばどこからともなく香ってきた花の香り。
その香りは化粧のような香りだ。
園内に漂う香りに吸い寄せられる。
これかもと腰を落として鼻をかいだ。
これなんだ。
一面に咲き誇る花はセキチク、それともコスモスでしょうか。
浅香山淨水場のツツジは拝見できなかったが、大浜公園にもたくさん見られる。
落ち着きのある散歩道は堺市民の憩いの場のように感じた。
芝生の公園内では家族連れやイベントも開催している。
揃いのジャンパーを着ていた団体が踊りのパーフォマンスもやっていた。
ここは期間限定でバーキューも可能なようだ。
体育館ではテコンドーの競技もされている。
団体と思われる大型観光バスもあった。
猿島もあるようだが猿はどこに・・・。
随分昔のことだ。
小学生だったか、中学生のころか。
近所の悪ガキどもと来たことがある。
そこに居た猿は猿山に群がっていたことを覚えている。
確かここらへんにあったと思う大浜水族館。
閉館となった水族館であった。
悪ガキの親分が「水族館を探検しよう」と言った。
柵を越えて入場した水族館は当然ながら扉は閉まっている。
1階だった、2階であったのか覚えていない。
そこから開いていた窓を発見した。
開いているが手は届かない。
回りを見渡せば梯子があった。
それを立てて上がり込んでいった悪ガキ連中。
後ろから付いていって登った梯子が突然メキメキを崩れた。
掛けていた足はそのまま落ちていった。
両脚の太股から噴き出す血。
梯子は木製。
足を掛ける部分は両サイドから釘で止めていた。
その足掛け部が折れたのである。
太股の傷は尖っていた釘の先。
それが何十センチも傷つけた。
噴き出した血を止めたのは持っていた手ぬぐい(タオル)。
夏の季節であったのだろう、汗ふきに持っていたのだ。
きつく縛って血を止める。
そんな状況であるも内部に侵入した。
何もない空間だけの水族館だった。
大浜水族館は明治36年(1903)に第5回内国勧業博覧会が閉幕したのちに払い下げされて堺市営水族館としてオープンした。
昭和9年(1934)に発生した室戸台風の高潮に襲われた水族館は大破した。
再建したのは昭和12年(1937)のことである。
戦後の昭和28年(1953)に大改装されて賑わいを取り戻したが臨界工業地帯の造成によって大浜海岸が消えるとともに水族館の客足が遠のいた。
そして閉鎖した時代が昭和36年(1961)である。
悪ガキ探検隊が訪れたのはその後のことであることを計算すればおそらく小学6年生であったかもしれない。
今の時代では許されない行為だが50年も前のこと。
深い傷跡は20cmにもおよぶ。
時効だと思うが、振り返って「ごめんなさい」とお詫びしておこう。
大浜水族館の跡地はどこかと思えば芝生の公園であった。
面影を残すものは一切ない。
その場辺りから風に乗って甘い香りが漂ってくる。
何の香りかと足を運べばそこにあった藤の棚。
長く垂れさがる満開の藤の花の香りであった。
散歩道にも藤棚があったが、そこでは香りがない。
品種が違うのか、それとも花つきがまだなのか。
甘い香りの藤棚の下に居るだけで身体中が包まれる。
その場で佇む人も多い。
浅香山淨水場へ行けなくて立ち寄った大浜公園は花の園は穴場の憩いの地であった。
大和川、チンチン電車、三宝公園プール跡地、旧堺燈台、大浜海岸跡、水族館跡地などは私の原風景。
もう一つ思い出したのは木製の灌漑用の揚水風車だ。
三宝、湊、石津、浜寺で見かけたことがある6枚羽根。
その時代はいつだろうか。
小学生高学年から昭和38年当時の中学生にかけて自転車で走り回っていた堺の浜地帯。
旧国道24号線沿いに走っていた。
畑地は砂質地だったと記憶する。
浜風を受けて回っていた風車の光景だ。
1960年代から減滅していった風車は昭和41年(1966)には10余基を残す状況であったようだ。
(H25. 4.28 SB932SH撮影)
停めた駐車場にはサクランボの実をつけている。
桜の品種はオオシマザクラ。
桜餅に利用されている葉っぱだ。
若葉を摘み取って塩漬けする。
クマリンという物質が特徴的な芳香をもつオオシマザクラのサクランボは食べられるがえぐみが強い渋み。
流通している食用のサクランボはセイヨウミザクラという品種だそうだ。
オオシマザクラの桜花はすでに終わっていた大浜公園を歩いていけばどこからともなく香ってきた花の香り。
その香りは化粧のような香りだ。
園内に漂う香りに吸い寄せられる。
これかもと腰を落として鼻をかいだ。
これなんだ。
一面に咲き誇る花はセキチク、それともコスモスでしょうか。
浅香山淨水場のツツジは拝見できなかったが、大浜公園にもたくさん見られる。
落ち着きのある散歩道は堺市民の憩いの場のように感じた。
芝生の公園内では家族連れやイベントも開催している。
揃いのジャンパーを着ていた団体が踊りのパーフォマンスもやっていた。
ここは期間限定でバーキューも可能なようだ。
体育館ではテコンドーの競技もされている。
団体と思われる大型観光バスもあった。
猿島もあるようだが猿はどこに・・・。
随分昔のことだ。
小学生だったか、中学生のころか。
近所の悪ガキどもと来たことがある。
そこに居た猿は猿山に群がっていたことを覚えている。
確かここらへんにあったと思う大浜水族館。
閉館となった水族館であった。
悪ガキの親分が「水族館を探検しよう」と言った。
柵を越えて入場した水族館は当然ながら扉は閉まっている。
1階だった、2階であったのか覚えていない。
そこから開いていた窓を発見した。
開いているが手は届かない。
回りを見渡せば梯子があった。
それを立てて上がり込んでいった悪ガキ連中。
後ろから付いていって登った梯子が突然メキメキを崩れた。
掛けていた足はそのまま落ちていった。
両脚の太股から噴き出す血。
梯子は木製。
足を掛ける部分は両サイドから釘で止めていた。
その足掛け部が折れたのである。
太股の傷は尖っていた釘の先。
それが何十センチも傷つけた。
噴き出した血を止めたのは持っていた手ぬぐい(タオル)。
夏の季節であったのだろう、汗ふきに持っていたのだ。
きつく縛って血を止める。
そんな状況であるも内部に侵入した。
何もない空間だけの水族館だった。
大浜水族館は明治36年(1903)に第5回内国勧業博覧会が閉幕したのちに払い下げされて堺市営水族館としてオープンした。
昭和9年(1934)に発生した室戸台風の高潮に襲われた水族館は大破した。
再建したのは昭和12年(1937)のことである。
戦後の昭和28年(1953)に大改装されて賑わいを取り戻したが臨界工業地帯の造成によって大浜海岸が消えるとともに水族館の客足が遠のいた。
そして閉鎖した時代が昭和36年(1961)である。
悪ガキ探検隊が訪れたのはその後のことであることを計算すればおそらく小学6年生であったかもしれない。
今の時代では許されない行為だが50年も前のこと。
深い傷跡は20cmにもおよぶ。
時効だと思うが、振り返って「ごめんなさい」とお詫びしておこう。
大浜水族館の跡地はどこかと思えば芝生の公園であった。
面影を残すものは一切ない。
その場辺りから風に乗って甘い香りが漂ってくる。
何の香りかと足を運べばそこにあった藤の棚。
長く垂れさがる満開の藤の花の香りであった。
散歩道にも藤棚があったが、そこでは香りがない。
品種が違うのか、それとも花つきがまだなのか。
甘い香りの藤棚の下に居るだけで身体中が包まれる。
その場で佇む人も多い。
浅香山淨水場へ行けなくて立ち寄った大浜公園は花の園は穴場の憩いの地であった。
大和川、チンチン電車、三宝公園プール跡地、旧堺燈台、大浜海岸跡、水族館跡地などは私の原風景。
もう一つ思い出したのは木製の灌漑用の揚水風車だ。
三宝、湊、石津、浜寺で見かけたことがある6枚羽根。
その時代はいつだろうか。
小学生高学年から昭和38年当時の中学生にかけて自転車で走り回っていた堺の浜地帯。
旧国道24号線沿いに走っていた。
畑地は砂質地だったと記憶する。
浜風を受けて回っていた風車の光景だ。
1960年代から減滅していった風車は昭和41年(1966)には10余基を残す状況であったようだ。
(H25. 4.28 SB932SH撮影)