窪之庄辺りの苗代調査を終えて今市に向かう途中のことだ。
街道を通過しようとしていたときの馴染みのある男性が立っていた。
なんとやまちゃん先生である。
車を降りて挨拶をする。
立ち話で聞いた矢田の民俗。
かつて勤めていた少年自然の家がある地である。
勤務の傍らに調査をされていたことを教えてくださった。
矢田坐久志玉比古神社の粥占(かゆうら)は、当時に任職していた宮司が始めたという。
その宮司は出雲の出身だったそうだ。
粥占をしていた品種は稲作中心。
それぞれの品種ごとに占ったと云う。
現在、行われている品種は野菜や果実が含まれている22種類。
ナスビ(春・秋)、エンドウマメ、インゲンマメ、キャベツ、ハクサイ、トマト、キュウリ、サツマイモ、サトイモ、ダイコン、ダイズ、イチゴ、ブドウ、スイカ、カキである。
もちろん稲作もある。
極早稲や早稲、中稲のウルチ米に早稲、中稲のモチ米である。
およそ30年前と思われる当時の粥占は酒を飲みながら行っていた。
朗らかな雰囲気であるが、占いは神事。
真剣な様相で行われていたと話す。
東明寺のツナカケは東明寺垣内と中村垣内の村人が行っていた。
ツナカケはカンジョウカケとも呼んでいた。
ツナカケの場の上流は東明寺院など八つの坊があった。
ツナカケをしていることもあるのであろう、中村垣内の家々では注連縄をしない。
カンジョウナワが村を守ってくれるので、個々の家ではする必要性がないというわけだ。
東明寺辺りの人たちはほとんどがツナカケの場から下りたが、意識はそのままで、今でも注連縄を掛けないというのである。
ツナカケの日は同時に行われる境内社の八阪神社のオンダ祭がある。
楕円形を四つに区割りした見たての苗代。
早稲、中稲、晩稲、粳米の品種である。
宮司によって籾撒き、松苗撒きが行われる。
神事を終えた松苗は村人が持ち帰って神棚に供える。
中村垣内ではナリキゼメ(成木責め)をしていた。
木を竹でビシバシと叩いた。
子供の遊びのような振る舞いであった。
作法を終えた竹はオクドサン(竃)がある処の土壁に立て掛けた。
その土壁の中から出てきたワラはモノモライの眼の病いのメバチコに当てたら治ると信じられていた。
同垣内ではわらべ唄があった。
機械で収録をしたが、ご詠歌のようなテンポの遅い節廻しだったそうだ。
明治から大正生まれの年寄りが唄っていたわらべ唄は文字にも落とした。
それら一式は奈良でわらべ唄を研究されていた教え子のAさんにあげたという。
そのような民俗・風習を教えてくださったやまちゃん先生家では七・五・三を注連縄を結っていた。
その数は60本。
家で祀る箇所それぞれに掛けた。
一部は屋根にも放り投げた。
遠くまで飛ばせるように割木を束ねて投げたそうだ。
(H25. 5. 1 記)
街道を通過しようとしていたときの馴染みのある男性が立っていた。
なんとやまちゃん先生である。
車を降りて挨拶をする。
立ち話で聞いた矢田の民俗。
かつて勤めていた少年自然の家がある地である。
勤務の傍らに調査をされていたことを教えてくださった。
矢田坐久志玉比古神社の粥占(かゆうら)は、当時に任職していた宮司が始めたという。
その宮司は出雲の出身だったそうだ。
粥占をしていた品種は稲作中心。
それぞれの品種ごとに占ったと云う。
現在、行われている品種は野菜や果実が含まれている22種類。
ナスビ(春・秋)、エンドウマメ、インゲンマメ、キャベツ、ハクサイ、トマト、キュウリ、サツマイモ、サトイモ、ダイコン、ダイズ、イチゴ、ブドウ、スイカ、カキである。
もちろん稲作もある。
極早稲や早稲、中稲のウルチ米に早稲、中稲のモチ米である。
およそ30年前と思われる当時の粥占は酒を飲みながら行っていた。
朗らかな雰囲気であるが、占いは神事。
真剣な様相で行われていたと話す。
東明寺のツナカケは東明寺垣内と中村垣内の村人が行っていた。
ツナカケはカンジョウカケとも呼んでいた。
ツナカケの場の上流は東明寺院など八つの坊があった。
ツナカケをしていることもあるのであろう、中村垣内の家々では注連縄をしない。
カンジョウナワが村を守ってくれるので、個々の家ではする必要性がないというわけだ。
東明寺辺りの人たちはほとんどがツナカケの場から下りたが、意識はそのままで、今でも注連縄を掛けないというのである。
ツナカケの日は同時に行われる境内社の八阪神社のオンダ祭がある。
楕円形を四つに区割りした見たての苗代。
早稲、中稲、晩稲、粳米の品種である。
宮司によって籾撒き、松苗撒きが行われる。
神事を終えた松苗は村人が持ち帰って神棚に供える。
中村垣内ではナリキゼメ(成木責め)をしていた。
木を竹でビシバシと叩いた。
子供の遊びのような振る舞いであった。
作法を終えた竹はオクドサン(竃)がある処の土壁に立て掛けた。
その土壁の中から出てきたワラはモノモライの眼の病いのメバチコに当てたら治ると信じられていた。
同垣内ではわらべ唄があった。
機械で収録をしたが、ご詠歌のようなテンポの遅い節廻しだったそうだ。
明治から大正生まれの年寄りが唄っていたわらべ唄は文字にも落とした。
それら一式は奈良でわらべ唄を研究されていた教え子のAさんにあげたという。
そのような民俗・風習を教えてくださったやまちゃん先生家では七・五・三を注連縄を結っていた。
その数は60本。
家で祀る箇所それぞれに掛けた。
一部は屋根にも放り投げた。
遠くまで飛ばせるように割木を束ねて投げたそうだ。
(H25. 5. 1 記)