奈良市窪之庄町の苗代はまだであった。
昨年の5月5日に田植えをされていたご主人と奥さんの話しによればだいたいこの日らしいと聞いていたが・・・。
後日に尋ねた結果は5月GWだったそうだ。
しかも、神社行事でたばったゴボウサンのお札を挿すことも失念したと云う。
今年はなにかと忙しかったH家をあとにして今市町に向かった。
今市の田んぼは度々訪れる。
大晦日に立てる田んぼのシメナワサンのことである。
これは昨年の1月に撮っておいた田んぼのシメナワサンだ。

(H24. 1. 5 EOS40D撮影)
始めて拝見したのは平成23年2月だった。
気にかかるからときおり訪れるが田んぼの主は見つからず、であった。
田主を探し続けて2年後のこの日にようやく巡り合えた。
苗床を作っていた田主にお話を伺った。
つい、先日に樹木から落ちて木の根っこに腰を打った。
傷みがあるものの苗床は作らなければならない時期である。
方形の苗床は泥で固めて作る。
平べったい台形である。
スキで泥を掬いあげて苗床に置いていく。
スキを水平にして滑らかに均す。
奇麗になった苗床は少しずつ移動しながら作業を進めていた田主のMさん。
数日後の5月1日の午後にはモミオトシをする。
苗箱は1枚の田んぼに200箱。
一丁八反の田んぼの育苗には400箱も要る。
苗箱22枚で一反になる計算だそうだ。
二毛作をしていた時代よりも10日も早くなったという苗代作り。
その場に注連縄を立てていたのである。

苗代に立てた注連縄はオシメサンと呼ぶ。
12月大晦日の16時ころに立てる。
その日までに予め作っておいた家の注連縄。
その数は多い。
玄関や蔵、農具、機具などに飾る際にはモチを2個ずつ供えるが、苗代のオシメサンには御供をしない。
その代わりではないが、ミカン、ウラジロ、ユズリハを飾る。
ウラジロとユズリハは隣の家で貰ったもの。
家の注連縄は不浄のトイレにも飾る。
正月を飾った家の注連縄は1月15日の朝のとんどで燃やす。
現在はM家の田んぼで燃やしているが、かつては村の大とんどであった。
大とんどの場はチバミ墓地の地蔵さんの前辺りの田んぼだったそうだ。
とんどで焼いたモチを食べれば歯が丈夫になると云われている。
いわゆるハガタメのモチである。
モチで思い出されたMさんの話題。
二月堂修二会のダングのモチ。
壇供(だんぐ)の餅のことである。
堂内の須弥壇に積みあげられた餅は本尊十一面観音さんへのお供え。
修二会が満行したのちに下げて配られるのは修二会および寺に深く関係するご縁のある方に、である。
そのご縁にあたる今市の「二月堂講」の講元はお下がりの餅を貰ってくる。
「二月堂講」の別称は「観音講」に納得がいく。
たばった餅を食べれば病気にならず、元気で健康になると云われている。
お金で寄進していると云う講社のダングモチはありがたい餅なのである。
二月堂に掲げられる大きな提灯がある。
それには「今市」の文字が書いてあるそうだ。
天正、元和の時代に寄進した提灯だと伝わる。
その提灯は今市町の他、奈良市窪之庄町、天理市蔵之庄町の村から寄付を募って寄進したらしい。
12月28日、29日、30日は隣村の池田町に3組あった「チンツキ」の組。
その組に加わって10年間も手伝ってきた「チンツキ」。
昭和50年半ばまで手伝っていたころのことだ。
餅搗き道具の木臼や杵、ヘッツイサン、割木をリヤカーに載せて京終(きょうばて)やならまちへ出かけていった「チンツキ」。
各村ではモチゴメを準備していた。
その場でモチゴメを蒸して杵でモチを搗いた。
モチを搗けば「ツキ料」を貰った。
そして次の村へと向かう。
村から村へと旅をするように「チンツキ」をしていくには時間がかかるから朝は5時に出発していた。
夕方には餅搗きを終えて戻ってくる。
次の朝も5時から出発していた3日間である。
餅を搗いて村を巡っていた「チンツキ」の体験談である。
M家では苗代作りを終えた直後に春日大社の御田植祭神事でたばってきた松苗を水口に立てる。
町内の代表者が授かった松苗は今市の各家に配られる。
苗代に立てる水口祭にはカキの葉にハゼゴメをしていた家もあったと話す。
3月の彼岸の入りにチバミ墓地で行われた今市のコネンブツがある。
先月の17日に取材させていただいた。
講中の小念仏講、大念仏講とも講田があったそうだ。
その今市には「春日講」もあるそうだ。
コネンブツ取材の際には行者講もあると云っていた。
今市の氏神さんは春日神社。
神送りの還幸当家祭の行事があるらしい。
田主さんの名は楢太郎。
天理市楢町の楢神社に参って「楢」の字を授かった。
縁起によれば楢神社の創建は神護景雲元年に加賀の国の石川郡白山の嶺に神現れて真榊にのり給ひて楢村に着いたという。
後世に同神を鬼子母神に擬し子供の神となったと伝わる「子授けの御神徳」にあやかってつけた「楢」の名である。
楢神社に所縁のある楢太郎さんは二十歳のころまで楢神社のヨイミヤ(10月12日)には家で提灯を立てていたそうだ。
(H25. 4.29 EOS40D撮影)
昨年の5月5日に田植えをされていたご主人と奥さんの話しによればだいたいこの日らしいと聞いていたが・・・。
後日に尋ねた結果は5月GWだったそうだ。
しかも、神社行事でたばったゴボウサンのお札を挿すことも失念したと云う。
今年はなにかと忙しかったH家をあとにして今市町に向かった。
今市の田んぼは度々訪れる。
大晦日に立てる田んぼのシメナワサンのことである。
これは昨年の1月に撮っておいた田んぼのシメナワサンだ。

(H24. 1. 5 EOS40D撮影)
始めて拝見したのは平成23年2月だった。
気にかかるからときおり訪れるが田んぼの主は見つからず、であった。
田主を探し続けて2年後のこの日にようやく巡り合えた。
苗床を作っていた田主にお話を伺った。
つい、先日に樹木から落ちて木の根っこに腰を打った。
傷みがあるものの苗床は作らなければならない時期である。
方形の苗床は泥で固めて作る。
平べったい台形である。
スキで泥を掬いあげて苗床に置いていく。
スキを水平にして滑らかに均す。
奇麗になった苗床は少しずつ移動しながら作業を進めていた田主のMさん。
数日後の5月1日の午後にはモミオトシをする。
苗箱は1枚の田んぼに200箱。
一丁八反の田んぼの育苗には400箱も要る。
苗箱22枚で一反になる計算だそうだ。
二毛作をしていた時代よりも10日も早くなったという苗代作り。
その場に注連縄を立てていたのである。

苗代に立てた注連縄はオシメサンと呼ぶ。
12月大晦日の16時ころに立てる。
その日までに予め作っておいた家の注連縄。
その数は多い。
玄関や蔵、農具、機具などに飾る際にはモチを2個ずつ供えるが、苗代のオシメサンには御供をしない。
その代わりではないが、ミカン、ウラジロ、ユズリハを飾る。
ウラジロとユズリハは隣の家で貰ったもの。
家の注連縄は不浄のトイレにも飾る。
正月を飾った家の注連縄は1月15日の朝のとんどで燃やす。
現在はM家の田んぼで燃やしているが、かつては村の大とんどであった。
大とんどの場はチバミ墓地の地蔵さんの前辺りの田んぼだったそうだ。
とんどで焼いたモチを食べれば歯が丈夫になると云われている。
いわゆるハガタメのモチである。
モチで思い出されたMさんの話題。
二月堂修二会のダングのモチ。
壇供(だんぐ)の餅のことである。
堂内の須弥壇に積みあげられた餅は本尊十一面観音さんへのお供え。
修二会が満行したのちに下げて配られるのは修二会および寺に深く関係するご縁のある方に、である。
そのご縁にあたる今市の「二月堂講」の講元はお下がりの餅を貰ってくる。
「二月堂講」の別称は「観音講」に納得がいく。
たばった餅を食べれば病気にならず、元気で健康になると云われている。
お金で寄進していると云う講社のダングモチはありがたい餅なのである。
二月堂に掲げられる大きな提灯がある。
それには「今市」の文字が書いてあるそうだ。
天正、元和の時代に寄進した提灯だと伝わる。
その提灯は今市町の他、奈良市窪之庄町、天理市蔵之庄町の村から寄付を募って寄進したらしい。
12月28日、29日、30日は隣村の池田町に3組あった「チンツキ」の組。
その組に加わって10年間も手伝ってきた「チンツキ」。
昭和50年半ばまで手伝っていたころのことだ。
餅搗き道具の木臼や杵、ヘッツイサン、割木をリヤカーに載せて京終(きょうばて)やならまちへ出かけていった「チンツキ」。
各村ではモチゴメを準備していた。
その場でモチゴメを蒸して杵でモチを搗いた。
モチを搗けば「ツキ料」を貰った。
そして次の村へと向かう。
村から村へと旅をするように「チンツキ」をしていくには時間がかかるから朝は5時に出発していた。
夕方には餅搗きを終えて戻ってくる。
次の朝も5時から出発していた3日間である。
餅を搗いて村を巡っていた「チンツキ」の体験談である。
M家では苗代作りを終えた直後に春日大社の御田植祭神事でたばってきた松苗を水口に立てる。
町内の代表者が授かった松苗は今市の各家に配られる。
苗代に立てる水口祭にはカキの葉にハゼゴメをしていた家もあったと話す。
3月の彼岸の入りにチバミ墓地で行われた今市のコネンブツがある。
先月の17日に取材させていただいた。
講中の小念仏講、大念仏講とも講田があったそうだ。
その今市には「春日講」もあるそうだ。
コネンブツ取材の際には行者講もあると云っていた。
今市の氏神さんは春日神社。
神送りの還幸当家祭の行事があるらしい。
田主さんの名は楢太郎。
天理市楢町の楢神社に参って「楢」の字を授かった。
縁起によれば楢神社の創建は神護景雲元年に加賀の国の石川郡白山の嶺に神現れて真榊にのり給ひて楢村に着いたという。
後世に同神を鬼子母神に擬し子供の神となったと伝わる「子授けの御神徳」にあやかってつけた「楢」の名である。
楢神社に所縁のある楢太郎さんは二十歳のころまで楢神社のヨイミヤ(10月12日)には家で提灯を立てていたそうだ。
(H25. 4.29 EOS40D撮影)