天理市南六条町南方の観音堂に伝わる民話がある。
『昔、文政年間やったか、ここによく腹痛を起こす女の人がおったんや。女の人は病気が治るように観音さまに祈願しながら、観音堂を建て直そうと男装をして裸足で一戸、一戸、村中を歩き回ってはお布施を求め、米を約三反も貯めたそうや。それを観音さまに寄進して、立派な観音堂ができたんや。女の人は法隆寺にゆかりのあるえらい尼さんやということやが、その尼さんの恩義を知らずに供養せんかったんで、白い蛇になって出てきたんとちがうやろか。その話を聞いた村人は申しわけないことをした。ねんごろに白い蛇を供養しようと、石塔を刻んで供養した』。
その尼さんは旧暦の八月十八日に亡くなられた中宮寺の林慶法尼でないかと云われている。
南方の観音堂は杵築神社境内にある。
その隣は南六条南方の公民館。
館外にあった墓石に「霊山林慶法尼位」の名がある。
建之は文政七年申(1824)八月十八日入滅」である。
民話に書かれてあった白い蛇を供養したとされる石塔は、尼さんの入滅墓石塔であった。
この日はその観音堂で行われる長寿会婦人たちによるお大師さんの営み。
当番の人は御膳を弘法大師像の前に供える。
御膳の椀は昔から決まっている献立。とはいってもすべてが生御膳。
シイタケ、コンブ、コーヤドーフ、カンピョウ、フの椀にサヤエンドウ、フキの椀。赤いマメの椀やアズキとオコメを盛った椀もある。
ミツバ、トロロコンブの椀に珍しい茶葉の椀も見られた御膳は朱塗りの椀に盛った。
お供えは巻き寿司だ。弘法大師の掛軸を掲げて参拝者を待つ。
その場に来られた参拝者は「同行二人(どうぎょうににん) 南無大師遍照金剛」の白衣を身につけている。
昭和2年生まれの86歳のMさんは50年前の42歳のときに四国八十八カ所を巡る遍路参りをしてきた。
そのときの白衣である。
大安寺のご縁をいただいて、自宅から歩いて45日間で巡ったと云う。
大安寺のお世話でバスに乗って接待を受けたお寺は唯一一か所だけ。
八十七か所は歩きの遍路であったと話す。
そのおかげで長年苦しんだ病いを克服したありがたい遍路の一人旅。
「同行二人」はお大師さんとともに歩む「行」である。
お大師さんが宿るとされる金剛杖は介助でなく、ありがたい先達(せんだち)。
宿に着けば床の間に揚げたと話す。
当時の遍路は参拝者も多くなかった。
歩く姿を市の観光ポスターに使いたいと写真を撮らせてほしいと願われたことがあった。
掲示されたかどうかは確認していない。
遍路旅の途中、ところどころで手紙を書いて自宅に郵送し現況を伝えたそうだ。
南方のお大師さんは観音堂での営み。
毎月の観音さんの月参りと同じ場である。
月参りは十一面観世音菩薩立像に向かって念仏を唱えていたが、この日はお大師さん。
右端に安置された弘法大師像に向かってのお念仏だ。
狭いお堂は婦人たちでいっぱいになる。
観音さんと同様にお花を飾ってローソクを灯す。
この日の当番にあたる人が導師となって念仏を唱える。
香偈、礼文、三礼、懺悔・・・・。
一節ずつ鉦を叩く導師。「願わくば・・・云々なにがし・・・」と唱えて南無阿弥陀仏に手を合わせる。
南六条は北方、南方とも融通念仏宗派の村であることから唱えたお念仏は融通念仏の勤行である。
引き続いて唱えた念仏は西国三十三番のご詠歌。
きいのくにの一番から通しで唱えるご詠歌は二十三番で休憩。
長丁場のご詠歌はどことも同じ個所で休憩される。
お茶を一服いただいて二十四番から再開する。
導師が叩く鉦とともに打たれるおリン。
一番ごとに2度打つ。
番外のご詠歌、そして三巻の般若心経を唱えて終えたお大師さんの場は公民館に移る。
座敷に予め並べておいた四国八十八カ所のお砂袋。
数が多いだけに座敷いっぱいに広げて巡礼ができるように置いている。
1番・鳴門市の霊山寺、2番・鳴門市の極楽寺、3番・板野町の金泉寺、4番・板野町の大日寺、5番・板野町の地蔵寺、6番・上板町の安楽寺、7番・阿波市の十楽寺、8番・阿波市の熊谷寺、9番・阿波市の法輪寺、10番・阿波市の切幡寺、11番・吉野川市の藤井寺、12番・神山町の焼山寺、13番・徳島市の大日寺、14番・徳島市の常楽寺、15番・徳島市の阿波国分寺、16番・徳島市の観音寺、17番・徳島市の井戸寺、18番・小松島市の恩山寺、19番・小松島市の立江寺、20番・勝浦町の鶴林寺、21番・阿南市の太龍寺、22番・阿南市の平等寺、23番・美波町の薬王寺は徳島県(発心の道場)。
24番・室戸市の東寺(最御崎寺)、25番・室戸市の津寺(津照寺)、26番・室戸市の金剛頂寺、27番・安田町の神峯寺、28番・香南市の大日寺、29番・南国市の土佐国分寺、30番・高知市の善楽寺、31番・高知市の竹林寺、32番・南国市の禅師峰寺、33番・高知市の雪蹊寺、34番・高知市の種間寺、35番・土佐市の清龍寺、36番・土佐市の青龍寺、37番・四万十町の岩本寺、38番・土佐清水市の金剛福寺、39番・宿毛市の延光寺は高知県(修業の道場)。
40番・愛南町の観自在寺、41番・宇和島市の龍光寺、42番・宇和島市の佛木寺、43番・西予市の明石寺、44番・高原町の大寶寺、45番・高原町の岩屋寺、46番・松山市の浄瑠璃寺、47番・松山市の八坂寺、48番・松山市の西林寺、49番・松山市の浄土寺、50番松山市の繁多寺、51番松山市の石手寺、52番松山市の太山寺、53番松山市の圓明寺、54番・今治市の延命寺、55番・今治市の南光坊、56番・今治市の泰山寺、57番・今治市の栄福寺、58番・今治市の仙遊寺、59番・今治市の伊与国分寺、60番・西条市の横峰寺、61番・西条市の香園寺、62番・西条市の宝寿寺、63番・西条市の吉祥寺、64番・西条市の前神寺、65番・四国中央市の三角寺は愛媛県(菩提の道場)。
66番・三好市の雲辺寺、67番・三豊市の小松尾寺(大興寺)、68番・観音寺市の神恵院(琴弾八幡)、69番・観音寺市の観音寺、70番・三豊市の本山寺、71番・三豊市の弥谷寺、72番・善通寺市の曼荼羅寺、73番・善通寺市の出釈迦寺、74番・善通寺市の甲山寺、75番・善通寺市の善通寺、76番・善通寺市の金倉寺、77番・多度津町の道隆寺、78番・宇多津町の郷照寺、79番・坂出市の高照院(天皇寺)、80番・高松市の讃岐国分寺、81番・坂出市の白峯寺、82番・高松市の根香寺、83番・高松市の一の宮寺、84番・高松市の屋島寺、85番・高松市の八栗寺、86番・さぬき市の志度寺、87番・さぬき市の長尾寺、88番・さぬき市の大窪寺は香川県(涅槃の道場)に位置する。
お砂踏みの砂袋の最後は高野山奥ノ院である。
砂袋の中央には大きく蓮の花の図柄をあしらっている。
これらのお砂は前述したMさんが寄進されたもの。
そのとき(昭和44年頃)より始まった遍路のお砂踏みは四国に出かけなくとも霊場を巡ることができるありがたい聖地札所の「うつし霊場」。
大安寺でも同じように「お砂踏み」が行われているが、南六条南方は村の人にとってのありがたい功徳の在り方である。
あたかも四国霊場を巡拝するかのように一歩、一歩踏みしめて手を合わせて一心に念じる。
(H25. 4.21 EOS40D撮影)
『昔、文政年間やったか、ここによく腹痛を起こす女の人がおったんや。女の人は病気が治るように観音さまに祈願しながら、観音堂を建て直そうと男装をして裸足で一戸、一戸、村中を歩き回ってはお布施を求め、米を約三反も貯めたそうや。それを観音さまに寄進して、立派な観音堂ができたんや。女の人は法隆寺にゆかりのあるえらい尼さんやということやが、その尼さんの恩義を知らずに供養せんかったんで、白い蛇になって出てきたんとちがうやろか。その話を聞いた村人は申しわけないことをした。ねんごろに白い蛇を供養しようと、石塔を刻んで供養した』。
その尼さんは旧暦の八月十八日に亡くなられた中宮寺の林慶法尼でないかと云われている。
南方の観音堂は杵築神社境内にある。
その隣は南六条南方の公民館。
館外にあった墓石に「霊山林慶法尼位」の名がある。
建之は文政七年申(1824)八月十八日入滅」である。
民話に書かれてあった白い蛇を供養したとされる石塔は、尼さんの入滅墓石塔であった。
この日はその観音堂で行われる長寿会婦人たちによるお大師さんの営み。
当番の人は御膳を弘法大師像の前に供える。
御膳の椀は昔から決まっている献立。とはいってもすべてが生御膳。
シイタケ、コンブ、コーヤドーフ、カンピョウ、フの椀にサヤエンドウ、フキの椀。赤いマメの椀やアズキとオコメを盛った椀もある。
ミツバ、トロロコンブの椀に珍しい茶葉の椀も見られた御膳は朱塗りの椀に盛った。
お供えは巻き寿司だ。弘法大師の掛軸を掲げて参拝者を待つ。
その場に来られた参拝者は「同行二人(どうぎょうににん) 南無大師遍照金剛」の白衣を身につけている。
昭和2年生まれの86歳のMさんは50年前の42歳のときに四国八十八カ所を巡る遍路参りをしてきた。
そのときの白衣である。
大安寺のご縁をいただいて、自宅から歩いて45日間で巡ったと云う。
大安寺のお世話でバスに乗って接待を受けたお寺は唯一一か所だけ。
八十七か所は歩きの遍路であったと話す。
そのおかげで長年苦しんだ病いを克服したありがたい遍路の一人旅。
「同行二人」はお大師さんとともに歩む「行」である。
お大師さんが宿るとされる金剛杖は介助でなく、ありがたい先達(せんだち)。
宿に着けば床の間に揚げたと話す。
当時の遍路は参拝者も多くなかった。
歩く姿を市の観光ポスターに使いたいと写真を撮らせてほしいと願われたことがあった。
掲示されたかどうかは確認していない。
遍路旅の途中、ところどころで手紙を書いて自宅に郵送し現況を伝えたそうだ。
南方のお大師さんは観音堂での営み。
毎月の観音さんの月参りと同じ場である。
月参りは十一面観世音菩薩立像に向かって念仏を唱えていたが、この日はお大師さん。
右端に安置された弘法大師像に向かってのお念仏だ。
狭いお堂は婦人たちでいっぱいになる。
観音さんと同様にお花を飾ってローソクを灯す。
この日の当番にあたる人が導師となって念仏を唱える。
香偈、礼文、三礼、懺悔・・・・。
一節ずつ鉦を叩く導師。「願わくば・・・云々なにがし・・・」と唱えて南無阿弥陀仏に手を合わせる。
南六条は北方、南方とも融通念仏宗派の村であることから唱えたお念仏は融通念仏の勤行である。
引き続いて唱えた念仏は西国三十三番のご詠歌。
きいのくにの一番から通しで唱えるご詠歌は二十三番で休憩。
長丁場のご詠歌はどことも同じ個所で休憩される。
お茶を一服いただいて二十四番から再開する。
導師が叩く鉦とともに打たれるおリン。
一番ごとに2度打つ。
番外のご詠歌、そして三巻の般若心経を唱えて終えたお大師さんの場は公民館に移る。
座敷に予め並べておいた四国八十八カ所のお砂袋。
数が多いだけに座敷いっぱいに広げて巡礼ができるように置いている。
1番・鳴門市の霊山寺、2番・鳴門市の極楽寺、3番・板野町の金泉寺、4番・板野町の大日寺、5番・板野町の地蔵寺、6番・上板町の安楽寺、7番・阿波市の十楽寺、8番・阿波市の熊谷寺、9番・阿波市の法輪寺、10番・阿波市の切幡寺、11番・吉野川市の藤井寺、12番・神山町の焼山寺、13番・徳島市の大日寺、14番・徳島市の常楽寺、15番・徳島市の阿波国分寺、16番・徳島市の観音寺、17番・徳島市の井戸寺、18番・小松島市の恩山寺、19番・小松島市の立江寺、20番・勝浦町の鶴林寺、21番・阿南市の太龍寺、22番・阿南市の平等寺、23番・美波町の薬王寺は徳島県(発心の道場)。
24番・室戸市の東寺(最御崎寺)、25番・室戸市の津寺(津照寺)、26番・室戸市の金剛頂寺、27番・安田町の神峯寺、28番・香南市の大日寺、29番・南国市の土佐国分寺、30番・高知市の善楽寺、31番・高知市の竹林寺、32番・南国市の禅師峰寺、33番・高知市の雪蹊寺、34番・高知市の種間寺、35番・土佐市の清龍寺、36番・土佐市の青龍寺、37番・四万十町の岩本寺、38番・土佐清水市の金剛福寺、39番・宿毛市の延光寺は高知県(修業の道場)。
40番・愛南町の観自在寺、41番・宇和島市の龍光寺、42番・宇和島市の佛木寺、43番・西予市の明石寺、44番・高原町の大寶寺、45番・高原町の岩屋寺、46番・松山市の浄瑠璃寺、47番・松山市の八坂寺、48番・松山市の西林寺、49番・松山市の浄土寺、50番松山市の繁多寺、51番松山市の石手寺、52番松山市の太山寺、53番松山市の圓明寺、54番・今治市の延命寺、55番・今治市の南光坊、56番・今治市の泰山寺、57番・今治市の栄福寺、58番・今治市の仙遊寺、59番・今治市の伊与国分寺、60番・西条市の横峰寺、61番・西条市の香園寺、62番・西条市の宝寿寺、63番・西条市の吉祥寺、64番・西条市の前神寺、65番・四国中央市の三角寺は愛媛県(菩提の道場)。
66番・三好市の雲辺寺、67番・三豊市の小松尾寺(大興寺)、68番・観音寺市の神恵院(琴弾八幡)、69番・観音寺市の観音寺、70番・三豊市の本山寺、71番・三豊市の弥谷寺、72番・善通寺市の曼荼羅寺、73番・善通寺市の出釈迦寺、74番・善通寺市の甲山寺、75番・善通寺市の善通寺、76番・善通寺市の金倉寺、77番・多度津町の道隆寺、78番・宇多津町の郷照寺、79番・坂出市の高照院(天皇寺)、80番・高松市の讃岐国分寺、81番・坂出市の白峯寺、82番・高松市の根香寺、83番・高松市の一の宮寺、84番・高松市の屋島寺、85番・高松市の八栗寺、86番・さぬき市の志度寺、87番・さぬき市の長尾寺、88番・さぬき市の大窪寺は香川県(涅槃の道場)に位置する。
お砂踏みの砂袋の最後は高野山奥ノ院である。
砂袋の中央には大きく蓮の花の図柄をあしらっている。
これらのお砂は前述したMさんが寄進されたもの。
そのとき(昭和44年頃)より始まった遍路のお砂踏みは四国に出かけなくとも霊場を巡ることができるありがたい聖地札所の「うつし霊場」。
大安寺でも同じように「お砂踏み」が行われているが、南六条南方は村の人にとってのありがたい功徳の在り方である。
あたかも四国霊場を巡拝するかのように一歩、一歩踏みしめて手を合わせて一心に念じる。
(H25. 4.21 EOS40D撮影)