米寿祝いの食事のあとは花巡り。
この時期はツツジである。
目指すは堺市水道局のツツジまつり。
観光ガイドにも載っている浅香山淨水場のツツジである。
子どもが小さいときに出かけたことがある浅香山淨水場は行程を思い出しながら北上した。
いつのまにか大和川を越えていた。
そこは大阪杉本町。行き過ぎたのである。
うろ覚えの場所は30年も経過すれば記憶もとぎれとぎれ。
間違って東に向かって南に戻れば北花田。
ぐるぐる回っている。
なんとか阪和線の浅香駅まで来たがどうも違う。
道路工事の警備にあたっていた男性に聞けば駅を越えたもっと西側にあるという。
行っては戻るの繰り返しで着いた浅香山淨水場には駐車場がない。
住宅街に囲まれた浅香山淨水場にはタイムパーキングすらない。
塀から見えたツツジの花を見たから満足したというおふくろ。
諦めて向かった先が大浜。
浜寺公園もそうだったが住之江からは自転車を漕いで遊びに出掛けたこと多し。
子どものころの交通量はそれほどでもなかったからスイスイだった。
大浜を目的地にしたのは木造最古の旧堺燈台を見たかったからだ。
二人とも見たことがないというだけに即決で決まった目的地。
あそこらへんにあるのは覚えているが道路事情は芳しくない。
懐かしい三宝公園を通り過ぎる。
公園には確かプールがあったと思う。
わりあい近くだった三宝公園プールも自転車だ。
中学生から高校生にかけて泳ぎまくった。
堺市議会速報によれば2004年の予算案でプール廃止をあげていた。
その年の平成16年に閉鎖されて全面を緑地公園化されたようだ。
高校生のときにアルバイトしていたペプシコーラ工場は三宝町だったと思う。
違っているかも知れないがこの辺りだったと思う昭和43年か44年のころ。
中学時代の友人とともに夜勤もしていたコーラ洗浄の汚れ瓶の検出。
機械からごっそり出てくる瓶が奇麗であるかどうか目検していた。
そこを通り抜ければコーラが瓶詰めされる。
製品の検査は女校生のアルバイトが居た。
夜勤務を終えて工場外でキャッチボールをしていたのは夏の季節。
暑かったことが記憶にある。
その女高生たち(大阪の美章園)と仲良しになって文化祭にも行った。
「チエちゃん」と呼ぶ子は二本のおさげ髪。
懐かしい思い出の名前は数年後に楽曲された「チエちゃん」。
井上陽水さんの名曲だ。
それはともかく思い出の地傍にある旧堺燈台に行くには大浜公園の駐車場に停めなければならない。
2時間で200円だ。
そこから徒歩で向かう燈台地。
道路を跨る陸橋を渡る。
自転車も通れる陸橋には→で記している燈台への行先案内。
それに沿って行けば到着する。
400mもある徒歩道。
ときおり見え隠れする旧堺燈台は六角錘形(点灯器械は八角形)の木造建築。
美しい建築物は往時の姿をとどめる。
ここに燈台があるということは先が海。
当時はここが海岸線。
大浜海岸があったことを覚えている。
高い防潮堤の向こうは海だった。
僅かに砂浜があった。
昭和38年の中学生時代だったと思うころにやってきた。
もちろん自転車である。
防潮堤に登って海岸を見れば波に打ち上げられた何頭もの牛が死んでいた。
黒牛であった。
なぜにそこにあるのか判らない。
牛を乗せた船籍が暴風雨で沈没したのだと子ども心に思った日であった海岸線はかつての大浜海岸。
海水浴で賑わったと伝えられる。
大浜の湾岸線はいつできたのだろうか。
昭和32年(1957)から昭和41年(1966)にかけて堺市沿岸部を造成、整備された臨海工業地帯。
湾岸線が全線開通した当時。
昭和48年ごろだったと思う。
昼、夜となく自動車を走らせていた。
特に夜間の工業地帯は巨大な生き物のように見えたことを思い出す。
エントツかパイプか判らないが、そこから吐きだす白い湯気か煙。
まるで息を吐く巨人に見えたのである。
その様相は今でも変わりないらしく、写真家が求める被写体になっているそうだ。
被写体と言えば木造最古の旧堺燈台もその一つ。
産経新聞で紹介されていた映像に心を躍らせる。
旧堺燈台は明治10年(1877)に堺住民の寄付と堺県から当時の政府工部省に申請した補助金賄いで建てたそうだ。
高さは11.3mもある木造の洋式燈台はおよそ一世紀に亘って堺港を出入りする船の航海の安全を見守ってきた。
埋め立てが進んで臨海工業地帯ができた昭和43年((1986)に役目を終えた。
ペプシコーラでアルバイトをしていた時期である。
老朽化が著しくなった燈台は平成13年から18年にかけて保存修理されて平成19年に完成。
普段は外側からしか見ることができないが、7月の「海の日」には内部が一般公開されるらしい。
後背から浴びる逆光に照らしだされる燈台は実に美しく時間を忘れるほどだ。
親水ゾーンを見下ろす阪神高速湾岸線のループも美しい曲線を描く。
バックを夕景で撮ってみたいと思ったのは云うまでもない。
三重県の旧安乗燈台に次ぐ日本で2番目に古い燈台である旧堺燈台。
昭和47年(1972)に国の史跡(土台ゾーン含む)に指定された。
土台の石積みは備前の国(岡山県)出身の石工である継国真吉が携わり、点灯機構はフランスのパーピエール社から購入して英国人技師のピグルストン氏が設計・築造、建築工事は堺在住の大眉佐太郎が行った。
(H25. 4.28 SB932SH撮影)
この時期はツツジである。
目指すは堺市水道局のツツジまつり。
観光ガイドにも載っている浅香山淨水場のツツジである。
子どもが小さいときに出かけたことがある浅香山淨水場は行程を思い出しながら北上した。
いつのまにか大和川を越えていた。
そこは大阪杉本町。行き過ぎたのである。
うろ覚えの場所は30年も経過すれば記憶もとぎれとぎれ。
間違って東に向かって南に戻れば北花田。
ぐるぐる回っている。
なんとか阪和線の浅香駅まで来たがどうも違う。
道路工事の警備にあたっていた男性に聞けば駅を越えたもっと西側にあるという。
行っては戻るの繰り返しで着いた浅香山淨水場には駐車場がない。
住宅街に囲まれた浅香山淨水場にはタイムパーキングすらない。
塀から見えたツツジの花を見たから満足したというおふくろ。
諦めて向かった先が大浜。
浜寺公園もそうだったが住之江からは自転車を漕いで遊びに出掛けたこと多し。
子どものころの交通量はそれほどでもなかったからスイスイだった。
大浜を目的地にしたのは木造最古の旧堺燈台を見たかったからだ。
二人とも見たことがないというだけに即決で決まった目的地。
あそこらへんにあるのは覚えているが道路事情は芳しくない。
懐かしい三宝公園を通り過ぎる。
公園には確かプールがあったと思う。
わりあい近くだった三宝公園プールも自転車だ。
中学生から高校生にかけて泳ぎまくった。
堺市議会速報によれば2004年の予算案でプール廃止をあげていた。
その年の平成16年に閉鎖されて全面を緑地公園化されたようだ。
高校生のときにアルバイトしていたペプシコーラ工場は三宝町だったと思う。
違っているかも知れないがこの辺りだったと思う昭和43年か44年のころ。
中学時代の友人とともに夜勤もしていたコーラ洗浄の汚れ瓶の検出。
機械からごっそり出てくる瓶が奇麗であるかどうか目検していた。
そこを通り抜ければコーラが瓶詰めされる。
製品の検査は女校生のアルバイトが居た。
夜勤務を終えて工場外でキャッチボールをしていたのは夏の季節。
暑かったことが記憶にある。
その女高生たち(大阪の美章園)と仲良しになって文化祭にも行った。
「チエちゃん」と呼ぶ子は二本のおさげ髪。
懐かしい思い出の名前は数年後に楽曲された「チエちゃん」。
井上陽水さんの名曲だ。
それはともかく思い出の地傍にある旧堺燈台に行くには大浜公園の駐車場に停めなければならない。
2時間で200円だ。
そこから徒歩で向かう燈台地。
道路を跨る陸橋を渡る。
自転車も通れる陸橋には→で記している燈台への行先案内。
それに沿って行けば到着する。
400mもある徒歩道。
ときおり見え隠れする旧堺燈台は六角錘形(点灯器械は八角形)の木造建築。
美しい建築物は往時の姿をとどめる。
ここに燈台があるということは先が海。
当時はここが海岸線。
大浜海岸があったことを覚えている。
高い防潮堤の向こうは海だった。
僅かに砂浜があった。
昭和38年の中学生時代だったと思うころにやってきた。
もちろん自転車である。
防潮堤に登って海岸を見れば波に打ち上げられた何頭もの牛が死んでいた。
黒牛であった。
なぜにそこにあるのか判らない。
牛を乗せた船籍が暴風雨で沈没したのだと子ども心に思った日であった海岸線はかつての大浜海岸。
海水浴で賑わったと伝えられる。
大浜の湾岸線はいつできたのだろうか。
昭和32年(1957)から昭和41年(1966)にかけて堺市沿岸部を造成、整備された臨海工業地帯。
湾岸線が全線開通した当時。
昭和48年ごろだったと思う。
昼、夜となく自動車を走らせていた。
特に夜間の工業地帯は巨大な生き物のように見えたことを思い出す。
エントツかパイプか判らないが、そこから吐きだす白い湯気か煙。
まるで息を吐く巨人に見えたのである。
その様相は今でも変わりないらしく、写真家が求める被写体になっているそうだ。
被写体と言えば木造最古の旧堺燈台もその一つ。
産経新聞で紹介されていた映像に心を躍らせる。
旧堺燈台は明治10年(1877)に堺住民の寄付と堺県から当時の政府工部省に申請した補助金賄いで建てたそうだ。
高さは11.3mもある木造の洋式燈台はおよそ一世紀に亘って堺港を出入りする船の航海の安全を見守ってきた。
埋め立てが進んで臨海工業地帯ができた昭和43年((1986)に役目を終えた。
ペプシコーラでアルバイトをしていた時期である。
老朽化が著しくなった燈台は平成13年から18年にかけて保存修理されて平成19年に完成。
普段は外側からしか見ることができないが、7月の「海の日」には内部が一般公開されるらしい。
後背から浴びる逆光に照らしだされる燈台は実に美しく時間を忘れるほどだ。
親水ゾーンを見下ろす阪神高速湾岸線のループも美しい曲線を描く。
バックを夕景で撮ってみたいと思ったのは云うまでもない。
三重県の旧安乗燈台に次ぐ日本で2番目に古い燈台である旧堺燈台。
昭和47年(1972)に国の史跡(土台ゾーン含む)に指定された。
土台の石積みは備前の国(岡山県)出身の石工である継国真吉が携わり、点灯機構はフランスのパーピエール社から購入して英国人技師のピグルストン氏が設計・築造、建築工事は堺在住の大眉佐太郎が行った。
(H25. 4.28 SB932SH撮影)