朝の5時にはモミオトシをしたという大和郡山市小林町のH家。
苗箱は220枚だから九反のたんぼ。
少し余分に作っておいたというH家の苗床はいつも村の知人たちが寄りあう農作業場付近。
GW期間にされると話していたのでふらりと訪れた5月3日。
何軒かの村人たちも苗代作りをしていた。
あちらこちらで見られる苗代作りだ。
H家の苗代作りはすでに半分を終えていた。
予め作っておいた苗床をジョレングワで均していくご主人。
苗床が乾かないように奥さんが泥田の水を柄杓で掬って床に撒く。
幅広い木片を取り出した。
それを二人がかりで滑らすように苗床を均す。
木片の面を利用して平らに均す。
この方法が効率的で、作業が捗るという。
苗代作りはそれぞれ農家によって違いがある。
こういう工夫もあるのだと感心する。
苗箱を置く前には肥料蒔き。
上の方から広がるようにパラパラと蒔く。
肥料は「天然有機肥料の綿実(めんじつ)油粕」。
なかなか手に入り難い綿実油粕製品を作っているのは日本で唯一のただ一社。
大阪府柏原市にある明治25年創業の岡村製油㈱。
粒状の肥料を丹念に蒔いていく。
一方、既に苗箱を置いた隣の苗床は土を上から被せる。
被せると云っても肥料蒔きと同じように蒔く。
その土は黒い色。
「田植え用育苗床撒きのくみあい粒状培養土」の黒土である。
二人の息子も手伝っての苗代作りは分担作業だ。
苗箱を置く目安のスジは一直線。
外れないように「田植えナワ」で引いていく。
昔から使っているナワは今でも現役。
麻緒であれば水に浸かればすぐに切れるが、ナイロンナワは浸かっても切れない。
苗箱を一輪車に積んでは苗床に運んでいく。
結構な重さである。
黒土をばらまいた苗床にはシートを張る。
そのシートは新聞紙と穴空きシートの二枚重ね。
それぞれを丸太の棒に巻いておいた。
新聞紙のロール巻き棒一本について二日間もかけて作った。
稲田を4丁も作るH家。
苗箱は2000枚。
新聞紙のロール棒は一週間もかかったと話す。
二枚重ねの保護シートを被せた次は泥土で固める。
泥水から掬った泥をダンゴ状にしてシートの端に置いていく。
一つ、一つ、端から端まで置いていく。
こうして出来あがった苗床に水を入れてヒタヒタにする。
水口も空けておいて近くにある水路へ垂らしたポンプ。
水が溜まる板で堰きとめておく。
ガソリンで動くポンプ。
紐を引っ張ってエンジンを回す。
ぐいぐいと水を吸いこんで吐き出す水路の水。
苗箱にあたるぐらいが丁度いいと話す。
苗代作りを終えれば豊作願いの祈り。
栽培しているイロバナを刈り取る奥さん。
イロバナは一本でなく数本だ。
一本であれば良くないと話す婦人。
それとともに持ってきたオコナイのお札。
3月3日は新福寺本堂の観音堂内でオコナイが行われる。
度々取材している村の人たちが桃の節句とも呼んでいる村の行事である。
本堂に上がるのは杵築神社の座中に婦人たち。
学校の授業を終えた子どもたちがやってくる。
主役の子供たちだ。
住職が唱える初祈祷の勤行。
お経の途中に発した「ランジョウ」。
それを合図にフジの木で激しく叩く内陣の縁。
今年は家族揃って有馬温泉に出かけていたので拝見できなかった小林町のオコナイ。
心の内にひそめる悪魔を祓う作法だと話していた住職。
オコナイで祈祷されたお札は「新福寺 寶印 牛頭天王」の墨書に宝印が押されている。
小林町の鎮守社は祭神が素戔嗚命の杵築神社。
江戸時代には牛頭天王社と呼ばれていたようだ。
ごーさんのお札に書かれた「新福寺」と「牛頭天王」。
かつては僧侶と宮座で行われていたと思われる印である。
オコナイを終えれば奉ったヤナギの木の枝を折る。
パキパキと折って4cmぐらいの長さにする。
それを束ねる括りはランジョー作法をした叩き棒のフジの木。
剥いだ皮で括る。
初祈祷されたお札折りたたんではヤナギの木に挿す。
イロバナとともに持ってきたお札は泥を塗り固めた場所に挿す。
手を合わせて豊作を願った。
2年前に話していた座中の一人がHさんだ。
苗代作りの時期はツツジの花が多い。
赤や桃色に白色もある。
色彩がいいこともあるから添えているがが、そもそもは「実のならない」花を添えるのだと云っていた。
6月に入れば田植えをする。
昔は女の人が四人。
タウエサンと呼ばれる女性に来てもらって田植えをしていた。
二条田植えの機械が導入されるまではそうしていた。
今では四条の田植え機。
不要になった二条田植えの機械は柳生の人にあげたという。
当時の苗代は直蒔きだった。
機械化されるようになって苗箱が登場したという。
その田植えは今年の6月9日にされたようだ。
(H25. 5. 3 EOS40D撮影)
苗箱は220枚だから九反のたんぼ。
少し余分に作っておいたというH家の苗床はいつも村の知人たちが寄りあう農作業場付近。
GW期間にされると話していたのでふらりと訪れた5月3日。
何軒かの村人たちも苗代作りをしていた。
あちらこちらで見られる苗代作りだ。
H家の苗代作りはすでに半分を終えていた。
予め作っておいた苗床をジョレングワで均していくご主人。
苗床が乾かないように奥さんが泥田の水を柄杓で掬って床に撒く。
幅広い木片を取り出した。
それを二人がかりで滑らすように苗床を均す。
木片の面を利用して平らに均す。
この方法が効率的で、作業が捗るという。
苗代作りはそれぞれ農家によって違いがある。
こういう工夫もあるのだと感心する。
苗箱を置く前には肥料蒔き。
上の方から広がるようにパラパラと蒔く。
肥料は「天然有機肥料の綿実(めんじつ)油粕」。
なかなか手に入り難い綿実油粕製品を作っているのは日本で唯一のただ一社。
大阪府柏原市にある明治25年創業の岡村製油㈱。
粒状の肥料を丹念に蒔いていく。
一方、既に苗箱を置いた隣の苗床は土を上から被せる。
被せると云っても肥料蒔きと同じように蒔く。
その土は黒い色。
「田植え用育苗床撒きのくみあい粒状培養土」の黒土である。
二人の息子も手伝っての苗代作りは分担作業だ。
苗箱を置く目安のスジは一直線。
外れないように「田植えナワ」で引いていく。
昔から使っているナワは今でも現役。
麻緒であれば水に浸かればすぐに切れるが、ナイロンナワは浸かっても切れない。
苗箱を一輪車に積んでは苗床に運んでいく。
結構な重さである。
黒土をばらまいた苗床にはシートを張る。
そのシートは新聞紙と穴空きシートの二枚重ね。
それぞれを丸太の棒に巻いておいた。
新聞紙のロール巻き棒一本について二日間もかけて作った。
稲田を4丁も作るH家。
苗箱は2000枚。
新聞紙のロール棒は一週間もかかったと話す。
二枚重ねの保護シートを被せた次は泥土で固める。
泥水から掬った泥をダンゴ状にしてシートの端に置いていく。
一つ、一つ、端から端まで置いていく。
こうして出来あがった苗床に水を入れてヒタヒタにする。
水口も空けておいて近くにある水路へ垂らしたポンプ。
水が溜まる板で堰きとめておく。
ガソリンで動くポンプ。
紐を引っ張ってエンジンを回す。
ぐいぐいと水を吸いこんで吐き出す水路の水。
苗箱にあたるぐらいが丁度いいと話す。
苗代作りを終えれば豊作願いの祈り。
栽培しているイロバナを刈り取る奥さん。
イロバナは一本でなく数本だ。
一本であれば良くないと話す婦人。
それとともに持ってきたオコナイのお札。
3月3日は新福寺本堂の観音堂内でオコナイが行われる。
度々取材している村の人たちが桃の節句とも呼んでいる村の行事である。
本堂に上がるのは杵築神社の座中に婦人たち。
学校の授業を終えた子どもたちがやってくる。
主役の子供たちだ。
住職が唱える初祈祷の勤行。
お経の途中に発した「ランジョウ」。
それを合図にフジの木で激しく叩く内陣の縁。
今年は家族揃って有馬温泉に出かけていたので拝見できなかった小林町のオコナイ。
心の内にひそめる悪魔を祓う作法だと話していた住職。
オコナイで祈祷されたお札は「新福寺 寶印 牛頭天王」の墨書に宝印が押されている。
小林町の鎮守社は祭神が素戔嗚命の杵築神社。
江戸時代には牛頭天王社と呼ばれていたようだ。
ごーさんのお札に書かれた「新福寺」と「牛頭天王」。
かつては僧侶と宮座で行われていたと思われる印である。
オコナイを終えれば奉ったヤナギの木の枝を折る。
パキパキと折って4cmぐらいの長さにする。
それを束ねる括りはランジョー作法をした叩き棒のフジの木。
剥いだ皮で括る。
初祈祷されたお札折りたたんではヤナギの木に挿す。
イロバナとともに持ってきたお札は泥を塗り固めた場所に挿す。
手を合わせて豊作を願った。
2年前に話していた座中の一人がHさんだ。
苗代作りの時期はツツジの花が多い。
赤や桃色に白色もある。
色彩がいいこともあるから添えているがが、そもそもは「実のならない」花を添えるのだと云っていた。
6月に入れば田植えをする。
昔は女の人が四人。
タウエサンと呼ばれる女性に来てもらって田植えをしていた。
二条田植えの機械が導入されるまではそうしていた。
今では四条の田植え機。
不要になった二条田植えの機械は柳生の人にあげたという。
当時の苗代は直蒔きだった。
機械化されるようになって苗箱が登場したという。
その田植えは今年の6月9日にされたようだ。
(H25. 5. 3 EOS40D撮影)