マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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脇本春日神社御供撒き

2011年02月18日 07時37分09秒 | 桜井市へ
桜井市脇本に鎮座する春日神社の祭礼は簡素化しているものの古くから伝わるかたちを残している。

この日は御供撒き。

夜遅くに神主、一老、頭屋、神社役員が社務所に集まった。

階段下の境内ではすでに何人かの人たちが来ている。

楽しみにしている正月行事の御供撒きなのだ。

拝殿には御供のモチが桶一杯に詰められている。

境内は真っ暗。

拝殿には灯りが燦々。

それを見上げて参拝する地区の人たち。

祓えの儀、祝詞奏上など厳かに神事が始まった。

そうすれば拝殿前まで詰め寄ってきた。

今から名前を呼び出すのだ。

今夜はゴーサンのお符を配る日なのだ。

「牛宝神宮寺」の版木で刷られたお符には朱印もある。

神社の行事であるのに寺の名があるお符。

神宮寺の所在を示すものは一つもないがお符は名残がある。

かつては寺行事であったものが宮座の行事に移っていったのであろう。



名前を呼び出すのは頭屋。

そのお符を一人2枚ずつ手渡していく。

その際には供えられた2個のモチを一緒に渡していく。

その横では一老が声をあげた。

「えっぽだんご」するから子供らはこっちに来てや」の声に親と共にやってきた。

お符に押していた朱印を額に押すというのだ。

「頭のえー、賢い子になるんやで」といわれて頭を差し出す子供たち。



額には朱印が印された。

赤ちゃんを抱いた親も来た。

目出度い「えっぽだんご」とは何語なのか。

近くには長谷寺があり寺行事に修正会がある。

「だだ押し」で有名なあの行事だ。

そのときに朱印を押すのが「えんぶだごん」。

なにやらよく似ている。

作法もまったく同じだ。

「えんぶだごん」が訛っていつしか「えっぽだんご」になったと思われる。

長谷寺との関係は判らないが仏事の行事に違いない。

氏子総代がいうには「昔はお符を挿していた木があった」と。

その木はクリの木。

一本の長い木だった。

お符を挿すほうは木肌を削って白くした。

挿すところは切れ込みを入れていた。

クリの木は6、7年前になくなりお符配りになった。

農業を営む家は多かった。

およそ50軒もある脇本では専業農家のほとんどが転業された。

苗代ができたときにこのお符を挿して花を立てた。

いわゆる水口まつりである。

クリの木はなくなったが、総代はそれをススンボの竹に置き換えて水口まつりをしているそうだ。



元々は13日だった神社行事の御供撒き。

昔は二座で行われていた。

両座はコオトとシントだった。

充てる漢字はコオトが古頭でシントは新頭だったかも知れないと総代は話す。

両座がそれぞれモチを用意してそれを御供撒きしたそうだ。

そのころも「えっぽだんご」があったという。

行事を終えた神主、一老、頭屋、神社役員に区長らは社務所で直会。

仕出し料理に酒を1本飲み干すまで宴が催される。

(H23. 1. 8 EOS40D撮影)

藤井のフクマル迎え

2011年02月17日 08時34分02秒 | 天理市へ
N家では31日に元の家がある垣内の地に竹を持っていく。

それは山の上の平らな地だ。

垣内で6軒の家人が集まってくる。

竹を組んで日が暮れる時を待つ。

ワラに火種を点けてそれを燃やす。

そのときに「フクマル コイコイ」と発声する。皆もそろって同じように発する。

天に近い山の上。竹を燃やして「フク」を迎えるのだ。

竹はポンポンと音を鳴らして破裂する。

竹が「はぜるのだ」という。

その音を遠くで聞いた婦人は家の門口を箒で掃く。

玄関を開けてその方向に向けて掃く。

その際に「フクコイ フクコイ」と囃すそうだ。

竹を燃やした火はローソクに移して提灯で持ち帰る。

家の神棚に供えるのだ。

竈があった時代はその火を移して竈の火種にした。

その火でアジゴハンを作る。

イロゴハンとも呼ばれたアジゴハンはアゲサンを必ず入れたそうだ。

竈はなくなり近代的なコンロになった。

だから「フクマル」の火は神棚だけになった。

除夜の鐘がなり明くる年になればイタダキの膳の作法をしていた。

時間は変わって朝にしている。

家族一同が揃ってイタダキをする。

それが家の正月始めの儀式である。

藤井は五つの垣内ごとにそれぞれでフクマル迎えをしている。

他の垣内ではどういう状態なのか見たことないから判らない。

北垣内の一人は家の裏でするらしい。

今年の年末は雪が降って寒かったから止めたと話す人も居る。

地域の家のすべてがしているでもない。

たまたまそれを見かけた子供は「何してんの」と不思議そうに見ていたそうだ。

(H23. 1. 8 EOS40D撮影)

藤井のカンジョウナワ掛け

2011年02月16日 08時06分39秒 | 天理市へ
年番の2人が力を合わせて川道に掛ける天理市藤井町のカンジョウナワ掛け。

山間にあり盆地部よりも3度は低い。

年末に降った雪はまだ残っている。

笠へ抜ける峠道の勾配はきつく傾斜35度もあるそうだ。

カンジョウナワは北へ90度に折れ曲がる川筋へ一本の綱を張る。

護岸工事や道路拡張で川筋は変わったものの張る位置は変わらない。

そこには昨年12月8日に掛けられたカンジョウナワがある。

房は下り三筋にシキミが三本。それは3房もある。

道路の真上は避けて川側に寄っている。

下流から疫病が上ってこないように掛ける、まさに川切りのカンジョウナワである。

この日も同じように2人の当番が綱を掛けるが房の葉だけが異なる。

1月8日は杉の葉と決まっているというカンジョウナワ。

シキミは仏事、杉は神事。神仏混合の行事であろうがそれを明らかにする文書は見あたらない。

いずれにしても両日とも8日に掛けられる。

三十八神社の宮本衆の一人であるNさんがいうには「8日は神社の清掃の日だった。それは毎月していた。今は身体に無理が利かんようになって近い休日になった。清掃する日に意味があったのか判らないが、それがカンジョウナワ掛けの日であることには違いない」と話す。

昨今は張る綱は買ってくるようになった。

いつしか綱を結う人もいなくなった。

そのころは太い綱だったと話す。

綱は強くなり劣化刷る期間が伸びた。

昨年の綱は10月まで保ったそうだが落ちたのは朽ちたからではない。

トラックが引っかけてちぎってしまったそうだ。

昔の綱はよく保って半年。3ヶ月で朽ちたこともあるそうだ。

崖をよじ登り一端の綱を木に括りつける。

そしてシキミの房の位置を確かめながら今回の房を取り付ける。

3房ともほぼ同じ位置に調整して取り付ける。

そうすれば片方の綱を引っ張って木に括る。

同じように崖を登って縛っていく。

ピーンと張ったカンジョウナワ。時が経つにつれて綱はだらりと下がる。

その差は約1メートル。

一ヶ月でこれほどの弛みがでてくる。

通勤のときには頭上のカンジョウナワの張りを確かめている。

あまりにも下がっている場合は締め直すのだという。

無事に掛け終わった2人の当番。

その夜はすき焼き会食。二人だけで苦労をねぎらうのだ。

(H23. 1. 8 EOS40D撮影)

民博ジョイント解説2

2011年02月15日 07時40分07秒 | 民俗を語る
市観光ボランティアガイドクラブが民博までやってくるには少々時間がかかる。

それまでに館内の様子を再確認しておこうと早めに行った。

昨夜には追加取材した写真が展示された。

予めに見ておかないと話せない。

矢田山に住んでいるというご夫婦は植槻八幡神社のおんだ祭を拝見して直接民博に来られたそうだ。

到着時間までは少し時間があるので解説させていただいた。

小林町のオコナイに興味を持たれている。

なんでも親族の方がここに住んでいる。

今日は「オコナイなんや」と言われたが何のことやらさっぱり判らないと話す。

そういえば奈良新聞に掲載された企画展の記事を読んだかーさんがポツリと言ったものだ。

専門用語がずらーと並ぶ文章はぶっとばした。

さっぱり判らんちゅうわけだ。

ということは聴講する人に合わせた解説をしなくちゃならんというわけだ。

しかもだ、5日も聴講された人がおられるのでまったく同じストーリーをするわけにはいかない。

私のHP(ブログ)の案内を見て参加された方、植槻八幡神社のおんだ祭を拝見して直接民博に来られた方、市観光ボランティアガイドクラブら12人に解説させていただいた。

(H23. 1. 7 SB932SH撮影)

植槻八幡神社のおん田祭り

2011年02月14日 08時57分40秒 | 大和郡山市へ
7年ぶりに大和郡山市植槻町に鎮座する植槻八幡神社のおん田祭りを拝見した。

年始めに行われる植槻八幡神社のおん田祭りは県内で行われるお田植え祭りのトップバッターだ。

境内はかってない賑わいを見せている。

この日は市観光ボランティアガイドクラブが案内する観光客を連れてきたのだ。

それを減つってもたいして変わらない人数だ。

にぎわい客にはぜんざいを振る舞われている。

用意したぜんざいは500食。

モチは当然ながらその数である。

今年で9回目を迎えた振る舞い。

例年、その量では足らなくなるようになり追加しているのだという。



そして現れた田主と黒牛。

翁面を被った主役たちはカメラレンズの砲弾まみれ。

それはともかく豊作を祈る神事が始まった。

もともとはおん田祭りとは言ってなかったのではなかろうか。

時計回りに本殿を3周する田主と黒牛。

そこは神事の場であるがゆえ竹で設えた結界が張られている。

カラスキを曳いているのは田を耕す所作であろう。

牛を引けば「モォー」と応える。

本殿前では田んぼに見立てた場所で翁面を被った田主がモミを撒く。

そして一つずつ松苗を植えていく。



稲苗に見立てた松苗だ。

予めに五穀豊穣を祈る年始めの農耕行事はこうして終えた。

(H23. 1. 7 EOS40D撮影)

藤井の正月行事

2011年02月13日 07時33分25秒 | 天理市へ
宮本六人衆の一人であるNさんの庭で見られたカラスノモチ。

年末の12月30日には家のモチを搗く。

その残りモチを小さくちぎって木の枝の先に挿す。

モチは12個。それを四角い升に入れて庭に出る。

そして「カラコ カラコ モチやるわ ザクロ三つと替えことしょ」と言って枝に挿す。

どういう意味があるのか、おまじないなのか判らないという。

うるう年の場合は13個にするから一年の月数には違いない。

山の鳥獣らに施しをするモチだ。

主にカラスが食べに来るそうだ。

こういう家の風習は各家でまちまち。

28日にする家もあれば服忌の日だと言って29日は避ける。

これを逆に「福」の日だという人もあるらしい。

N家では31日に元の家の地に竹を持っていく。

山の上のほうだという。

そこはある垣内で複数の家人が集まってくる。

長い竹を組んで夕方を待つ。

その竹は2本ずつ。

家の男の数も加えるそうだ。

火を焚いて燃やす。

竹がポンポンと音を鳴らして破裂する。

そして箒を家の門口の方に向けて掃く。

その際に「フクコイ フクコイ」と囃す。

年神さんだと思われるフクを家に迎える作法であろう。

その火は提灯にして家に持ち帰る。

フクを家に持ち帰って火種にする。

その火種でアジゴハンを作る。

イロゴハンとも呼ばれたアジゴハンはアゲサンを必ず入れた。

結婚してからそうとう経った年。主人がそれにはコンニャクも入れたと言ったときにはたいへん驚いたと奥さんは「もっと早く言ってほしかった」と笑って話した。

除夜の鐘が鳴ったら男の人はマメを落とした。

正月のお祝いをしに宮さんへ参りに行った。

竈に火をくべてやっと寝たそうだ。

藤井ではかつてイノコもあったそうだ。

男の子が村中を歩いて「いのこのばんに モチつかんいえは・・・しんまいワラでいおぅたれ ぺったんこ ぺったんこ」の囃子言葉があったことを六人衆が思い出された。

家の門口をワラ棒で叩いたあとは菓子をもらったそうだ。

(H23. 1. 6 EOS40D撮影)

藤井東福寺乱声

2011年02月12日 09時13分11秒 | 天理市へ
本堂に登り敬白を読みあげる住職。

隣村の笠からやってきた妙圓寺の住職だ。

藤井町の東福寺ではじめての法要をしたときはとても驚いたと集まってきた観音講の婦人たちに話される。

お経をあげていたら突然のように外の廊下からバチバチと鳴りだした音。

それに驚いたというのだ。

はじめて聞いた乱声(らんじょう)の作法は融通念仏宗には馴染みがない。

村の役員に神社の宮本衆も堂内にあがった。

住職が唱えるお念仏に観音講の人たちも口をあわせる。

およそ30分の法要は静かに終わった。

なにも起こらなかったのだ。

「廊下で音がせーへんかったで」と村人は言った。

それもそのはず叩く棒を持って来なかったのだ。

大あわてで取りに戻った宮本衆。

お経もないままあらためて乱声をやり直した。



一人はバチを持って太鼓の前に立つ。

二人は回廊の前に立った。

それぞれ2本の枝木を持つ。

それはネコヤナギの木だという。

しなりももった枝木。

太鼓を打つ人は「ランジョー ランジョー」と掛け声をかけて叩く。

ネコヤナギを持つ人は2本を両手にもって激しく回廊の縁を叩く。

ドンドン、バチバチの連打だ。

縁を叩く人数に制限はないがこの日は4本しかないことから2人となったが無事に乱声を済ませた。

オコナイと呼ばれているお寺の行事はいわゆる初祈祷。

朱印を押した牛玉宝印書をたばって帰る。

これは春の苗代作りのときに供えられる大切な御符。

オコナイが始まる前に宮本六人衆が墨書して朱印したものだ。

それを本尊前に供えて五穀豊穣を願いご加持されたのである。

正月三が日に村の人たちが供えたお餅やミカンをたばって帰る。

観音講と役員たちは当番の汁番の人が用意した料理をいただきに公民館にあがっていった。

宮本衆といえばそのうちの一人の家の座敷に集まって会食をする。

2班に分かれての食事会である。

(H23. 1. 6 EOS40D撮影)

小泉金輪院庚申堂の初庚申参り

2011年02月11日 08時25分04秒 | 大和郡山市へ
何十年も前は街道筋がひしめくほどの参拝者が訪れたという大和郡山市小泉町の金輪院庚申堂。

年始めの初庚申には門前市のお店がずらりと並んだそうだ。

戦後に廃れた庚申参りを復活させた地元の世話人たち。

ことしで6年目になった。

徐々に参拝者も増えつつある。

初庚申の日にはとんども燃やされ参拝者を温める。

復活したのはそれだけではなかった。

庚申参りにつきものの摩滅豆腐(まめとうふ)だ。

庫裡に現役の竈がある。

前日はそこで豆腐汁を作ってもてなす。

それには引き替え符が要る。

昔から庚申さんに豆腐をお供する意味があったそうだ。

一切の災難・不幸等を消して無くす。

そしてまめに健康であるようにと願う。

それでお下りのお豆腐を食してご加護をいただく。

ありがたい豆腐のご利益だという摩滅豆腐(まめとうふ)の引替符だ。

本堂では護摩を焚いて法要が始まった。

灯明に火を点けて手を合わせる。



堂内には多くの青面金剛の掛け図が吊されている。

付近では多くの庚申講があったとされる。

それらは代替わりし信仰も薄れていった。

不要となった掛け図は預けられお堂に納まった。

庚申堂門前の燈籠に庚申講の文字が刻まれている。

寄進された年代は見えない。

この講については何も残されていない。

知る人もいないという。

文字から庚申講が存在していたことは間違いないが、市内ではこうして庚申講のことが聞かれなくなった。

(H23. 1. 5 EOS40D撮影)

民博ジョイント解説1

2011年02月10日 07時27分30秒 | 民俗を語る
県立民俗博物館で大和郡山の祭りと行事の企画展が開催されている。

今日は博物館としては初めての企画で「ボランティアガイドと巡る大和郡山の祭りと行事」だ。

募集期間が短くて案内が行き届かなかった。

年末までの希望者は数人だと聞いていた。

少しでも町内の行事を知ってもらおうと企画された市観光ボランティアガイドクラブとのジョイントイベントは実際の行事を拝観して企画展を観覧する。

一挙に知っていただこうというイベントだ。

私の役目といえば博物館で行事の解説側。

2回あるので同じような解説はできない。

あれやこれや考えていた数日間。

なんと風邪をひいたようだ。

のどがいがらくて声がでない。申しわけない。

集まった参加者はボランティアガイドを入れて14人にもなった。

小泉に住む南京玉すだれの一行も来てくださったのだ。

その人数にほっとする。

昼食を済ませて向かった先は小泉町。

一年に6回営まれる金輪院庚申堂の庚申さんにだ。

矢田坐久志玉比古神社のお旅所を経て富雄川堤を歩いて行く。

(H23. 1. 5 SB932SH撮影)

大和郡山の簾注連縄調査3

2011年02月09日 08時45分18秒 | 大和郡山市へ
正月三が日は簾注連縄を掛けられている地域を調べなくてはならない。

大和郡山市内の神社を中心に調べている。

70社ある神社はこれまでに9社で確認がとれた。

4日には外される地域もあるので急がなくてはならないが時間がいうほどない。

一件、一件丹念に足を運ばなければ・・・。

以前におんだ祭の取材に行ったところがある。

田中町の甲斐神社だ。

近場だけに見過ごす可能性がある。

ないだろうと思って来たがなんと鳥居にあるではないか。

道路から見ればそれは視角に入らなかったのだ。

しかも拝殿にもあるではないか。

笹の葉は両方にある。

2本仕立ての注連縄だ。

左右に根付きの稲穂がみられる。



目をこらして見ればででーんと中央に伊勢海老があるではないか。

色具合からすれば生海老かも・・・。

それは当たっていた。

後日に関係者から聞いた話ではまさしく生伊勢海老。

中身は刺身ができるぐらいにギュウギュウ詰まっていると聞いた。

伊勢海老が見られたのは野垣内町の若宮社が唯一だと思っていたがここにあるとは驚きである。

足は運んでみるものだとつくづく思った。

日が陰ってきた。急がねば。

これまでに32社を調べてきた。

暗くなる前に気がかりな神社へ行った。



ここは秋祭りの祭に巫女が御湯をされるところ。

馬司町の杵築神社だ。

見事な注連縄が見つかった。

お旅所なども加えて残すは40社ほど。

調査をするには2年以上もかかるだろう。

(H23. 1. 3 EOS40D撮影)